『 越の白山 』
君がゆく 越の白山 知らねども
雪のまにまに あとは尋ねむ
作者 藤原兼輔朝臣
( 巻第八 離別歌 NO.391 )
きみがゆく こしのしらやま しらねども
ゆきのまにまに あとはたづねむ
* 歌意は、「 君がこれから行く 越の国の白山は 知らないけれど 雪が止んでいる時を見計らって 君の跡を追いながら 尋ねて行きますよ 」といった、とても美しい歌だと思います。
この歌の前書きには、「 大江千古が越へまかりける うまのはなむけによめる 」とありますので、実際に送別の場で詠んだ歌のようです。
なお、「大江千古」は、従四位下まで上った貴族で、醍醐天皇の侍読(学問の教授役)を勤めているので親交が深かったようです。
また、「越(コシ)」の国とは、当時は北陸地方一帯を指していました。「うま」とあるのは、送別の宴を指しますが、「乗馬の鼻を旅立つ方向に向けてやる」という意味です。
* 作者の藤原兼輔朝臣(フジワラノカネスケノアソン・ 877 - 933 )は、平安時代前期の貴族・歌人です。
祖父の藤原良門は、藤原北家の中心人物の一人とも言える藤原冬嗣の六男です。まさに隆盛への門口と言える時代に誕生した良門ですが、兼輔の父である利基と高藤を儲けたあと間もなくに死去しました。その為、良門の官位は正六位に止まり、兄弟のうちでただ一人貴族の地位(従五位下以上)に上ることが出来ませんでした。
このため、兼輔の父の利基も弟の高藤も冬嗣の子孫の中で恵まれない環境におかれました。
* ところが、兼輔の叔父にあたる高藤とその娘の胤子(インシ/タネコ)の劇的な運命により、兼輔にも幸運をもたらしたのです。
高藤とその妻となる宮道列子との出会いについて、今昔物語では、『 高藤が山科に鷹狩りに出掛けたとき、雨に降られて立ち寄った、宇治の郡司宮道弥益の家で、娘の列子を見初めて、一夜の契りで儲けたのが胤子である・・・ 』と伝えています。
一族の中で劣勢であるとはいえ、藤原北家の中枢に近い高藤と、郡司の娘との出会いは、なかなか劇的なものと言えます。
さらに、こうして誕生した胤子は、成長してのち、光孝天皇の第七皇子で臣籍降下していた源定省に嫁ぎます。884 年の頃の事です。おそらく、すでに何人もの妻がいたことでしょうが、885 年に定省の長男となる維城(コレザネ・)が誕生します。
887 年、光孝天皇の後継を廻って紛糾があり、その結果、定省が皇族復帰して宇多天皇として即位しました。そして、維城も皇族となり改名して敦仁親王となります。
胤子も、更衣を経て 892 年に女御となり、敦仁親王も立太子しました。しかし、896 年にわが子の即位を見ることなく逝去しました。敦仁親王はまだ十二歳でしたが、宇多天皇の正妻といえる女御で、関白太政大臣藤原基経の娘である温子が養母となり、敦仁親王の地位は揺るぐことなく、897 年に醍醐天皇として即位したのです。
胤子の父の高藤は正三位内大臣、利基も従四位上右近江中将にまで昇進したのには、その恩恵は小さくなかったはずです。
* さて、利基の子である兼輔も、その恩恵を強く受けていたようです。
醍醐天皇がまだ春宮であったころから、そば近くに仕えました。醍醐天皇が春宮に立った時は、まだ八歳(数え年)くらいで、兼輔は八歳くらい上ですから、養育、遊び相手といった立場だったかもしれません。高藤の子の定方は、兼輔よりさらに四歳上ですが、やはり同じように仕えていたようです。
この定方は、後に従二位右大臣にまで上り、また、兼輔はその娘を妻としていますので義父となり、手厚い後ろ盾となった人物です。
いずれも、醍醐天皇の外戚に当たるゆえに選任されたのでしょう。
* 897 年に醍醐天皇が即位したあとも、蔵人としてではなく側近くに仕え、同時に右衛門少将を兼ね、902 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たします。兼輔は二十六歳の頃のことです。
903 年、内蔵助(内蔵寮の次官)に就きます。その後、武官や五位蔵人など天皇の近くに仕えながらも、内蔵寮の官吏としては、権頭、頭と地位を上げながら二十年近くその職務に当たりました。内蔵寮は、中務省に属していて皇族の財宝を管理する職務ですから、後醍醐天皇の信頼がいかに厚かったかが分ります。
* 916 年に従四位下に上り、917 年に蔵人頭となり、名実ともに天皇の最側近となります。921 年に参議となり、遂に公卿の地位に達しました。藤原北家の台頭が目立ち始めた頃ですが、嫡流でない立場としては望外の出世といえるでしょう。
927 年、さらに、従三位権中納言に上りました。
933 年、行年五十七歳で逝去しました。
* 兼輔の官吏としての生涯は、武官と内蔵寮官吏としての実績が目立ちますが、930 年に醍醐天皇が崩御するまで、天皇が最も信頼する側近の一人として仕え続けたことに尽きるような気がします。
また、歌人としては、義父となった定方と共に、当時の歌壇の中心にあったと考えられます。
醍醐天皇は、『古今和歌集』の編纂を命じた人物であり、歌人としても多くの和歌を残しています。当時の歌人としては、古今和歌集の編纂を担った紀貫之らが著名ですが、身分的には定方や兼輔が遙かに上位であり、むしろ歌壇をリードする立場にあったと考えられます。
兼輔自身も、古今集に採録されているのは四首に過ぎませんが、勅撰集全体では五十六首あり、三十六歌仙の一人に選ばれています。
おそらく、兼輔本人としては存分の生涯を送ったと満足しているだろうと推定するのですが、公卿への昇進は望外であったとしても、歌人としての現代人の評価はかなり不足していると考えているのではないでしょうか。
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