『 君が往き来を 』
逢坂の 木綿つけ鳥に あらばこそ
君が往き来を なくなくも見め
作者 閑院
( 巻第十四 恋歌四 NO.740 )
あふさかの ゆふつけどりに あらばこそ
きみがゆききを なくなくもみめ
* 歌意は、「 わたしが逢坂の関にいる 木綿つけ鳥(鶏の異名)で あったならば あなたが行き来するのを 涙ながらに見ることが出来るのでしょうに 」といった切ない恋歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「中納言源昇朝臣の近江介に侍りける時、よみてやれりける 」とあります。作者の恋人であった源昇が近江介に任じられて赴任していたのでしょうが、しょっちゅう行き来していたようで、それなのに逢えないことを恨んだ歌なのでしょう。
* 作者の閑院(カンイン)については、正確な情報が残されていないようです。
命婦だったという情報があるようですが、はっきりしません。生没年も未詳です。
推定できますことは、源昇が近江介であったのは 888 - 891 の期間であったこと、古今和歌集の NO.837 の歌では、藤原忠房(従四位上。? - 929 )に歌を送っていますので、これだけを参考にすれば、900 年の前後 30 ~ 40 年の頃を生きた女性ではないでしょうか。
* また、名前の由来ですが、もし、誰かに仕えている女房だと推定すると、「閑院」という名前を勝手に付けたとは考えられず、閑院と何らかの関係のあったと考えるべきだと思われます。
その場合、おそらく当時、「閑院」として最も著名なのは、平安時代初期に藤原冬嗣によって建てられた左京にあった邸宅だと考えられ、900 年前後には清和天皇の皇子貞元親王(869 - 910 )が住んでいたようなので、貞元親王または近臣の高官に仕える女房であったような気もします。
交際相手からしても、歴とした身分の人に仕えていた女房ではないでしょうか。
* 残念ながら、作者について、単なる推定しか出来ませんでしたが、他の文献にも「閑院の御」という歌人も伝えられていますので、もし同一人物だとすれば、かなり高位の女性であった可能性も考えられます。ただ、それも確認することが出来ませんが、おそらく、平安時代前期に、上流社会において悲喜こもごもあるとしても、優雅な生活を送った女性だったのではないでしょうか。
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