『 門出なりけり 』
かりそめの ゆきかひぢとぞ 思ひ来し
今は限りの 門出なりけり
作者 在原滋春
( 巻第十六 哀傷歌 NO.862 )
かりそめの ゆきかひぢとぞ おもひこし
いまはかぎりの かどでなりけり
* 歌意は、「 この旅は ほんのひととき 甲斐国まで往復するだけだと 思っていたが 今となっては これが最後の 旅立ちだったのだ 」と、死を覚悟したかの歌です。
この歌の前書き(詞書)には、「 甲斐国にあひ知りて侍りける人 とぶらはむとてまかりけるを、道中(ミチナカ・途中)にて にわかに病をして、いまいまとなりにければ、よみて『京にもてまかりて母に見せよ』と言ひて、人につけて侍りける歌 」とあります。
両方を合わせて見ますと、辞世の句と思えてしまいます。
また、この歌は、『大和物語』にも採録されています。『大和物語』は、在原業平が作者とされる『伊勢物語』の影響を強く受けている作品で、貴族社会を和歌で描いているのを中心に、伝承や説話も加えられています。
そして、この作品の作者は、多くの人物が候補に挙がっていますが、未だ確定していません。本歌の作者・在原滋春もその一人ですが、大和物語の成立は 950 年頃とされているようですから、滋春が完成させた可能性は低いと考えられます。ただ、伊勢物語の影響が強いことなどを考えますと、一部分、あるいは下書き的な物に関与している可能性は考えられそうです。
* 作者の在原滋春(アリハラノシゲハル)は、在原業平の次男です。
業平は、父が平成天皇の第一皇子である阿保親王、母は桓武天皇の皇女である伊都内親王という出自です。本来なら、皇位はともかく、皇族あるいは官職において、重きをなして良いはずでしたでしょう。しかし、平成天皇・阿保親王が政争に巻き込まれて失脚したことにより、その目をなくしたようです。業平は誕生後間もなくに臣籍降下しています。歌人・文化人としては当代屈指の人物と言えるのでしょうが、官職には恵まれない生涯だったはずです。
* 滋春とて、在原姓とはいえ皇族とはまだ近しい関係ですが、伝えられている情報は多くありません。
生没年も未詳ですが、没年を 905 年とする説もあるようです。生年は 850 年前後ではないかと推定しますが、根拠はありません。官職についても伝えられている情報は少なく、「少将」であったとされますので、おそらく「近衛府の少将」のことで、官位は四位相当ぐらいと推定されますので、貴族の地位にはあったようです。
また、掲題の歌を送った母の名前なども伝えられていません。しかし、この歌のおかげで、母とは良い関係が保たれていたのだと推定することが出来ます。
* 滋春の歌人あるいは文化人としての逸話も少ないのですが、もし、「大和物語」の一部分にでも関与しているとすれば、案外、父の業平の背を追うような生涯を送ったのかもしれない、と思うのです。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます