『 一族の繁栄 ・ 望月の宴 ( 46 ) 』
さて、粟田殿(道兼)の北の方が親しい間柄であることからか、村上の先帝の九の宮(昭平親王)が入道なさって石蔵(イワクラ・京都市左京区にある大雲寺。)にお住まいですし、兵部卿の宮(致平親王)と申されるお方は九の宮のご兄弟で三の宮と申し上げられたが、そのお方も入道なさって同じ所にいらっしゃる。
兵部卿の宮は、左大臣殿(源雅信・道長の岳父)の庶腹の娘のもとにお通いになり、男宮がお二人いらっしゃったが、お一人(成信)は大納言殿(道長)がご養子になさって、少将と申されたお方がいらっしゃる。もうお一人(永円?)は、幼い時から法師におさせになって、同じ石蔵にいらっしゃる。
九の宮は、九条殿(師輔)の御子で入道の少将(高光)多武峰の君と申されて、幼名を「まちをさ」と申し上げられた方の娘のもとにお通いになっておられたが、たいそう可愛らしい姫君がお生まれになっておられたのを、とても見捨て難く思われたが、世の中の無常をお感じになられたので、執着を断ち切って出家なさったのである。
この姫君は、たいそう可愛らしいお方であるのを、粟田殿はお聞きつけになり、この宮をお迎え申し上げて、養女にして大切に養育なさっているうちに、然るべき人々から文など寄せられることが多かったが、お相手なさらないでいらっしゃったが、故三条の大殿(賴忠)のご子息である権中将(公任)が特に熱心にお言い寄りになった。
これというほどでもないお手紙でも、その書きようは他の人よりも見事なものとお感じになったので、意を決して婿にお迎えなさった。
二条殿(道兼の邸)の東の対を立派に調えられて、恥ずかしくない女房十人、女童二人、下仕え二人をつけて、見苦しくないように飾り立てて権中将を通わせなさった。姫君の御有様はまことに可愛らしいので、権中将はほんとうに婿になったかいがあったと思っていらっしゃる。
しばらくの間は、行き来なさっていたが、やはりこのような状態のままでは良くないと思われて、四条宮(頼忠の邸。皇太后遵子が住んでいたので「宮」と称した。)の西の対を立派に調えて、姫君をお迎え申し上げた。宮(遵子)も女御殿(花山院の女御諟子)も、まことに喜ばしい間柄だとお思いになって、ご対面などが行われた。
まことに申し分のないご様子なので、粟田殿はお思い通りの有様に何かにつけ権中将と手紙など交わされている。
また、粟田殿は、一条の太政大臣(為光)の御子の中将(道信)を養子になさって、この北の方の御妹を娶せられて、何かとお世話申し上げていらっしゃる。
このように、道兼殿(粟田殿・道隆の弟で、道長の兄。)に限ったことではございませんが、これと思われる御方のご子息、眉目麗しき姫君をご自分のお子様に迎えられることが盛んでございました。ひとえに、ご自分の影響力、御子孫の繁栄の礎を考えてのことでございましょう。
こうしているうちに、冬の兆しを感じられる頃になって、関白殿(道隆)が水ばかり飲んで、たいそうお痩せになられたとのことで、宮中にもほとんど出仕なさらないということでございます。
二位の新発意殿(ニイノシンポチ・道隆の正室貴子の父。新発意は、新たに仏門に入った者のこと。)は、すっかり動転なさって、ご祈祷をなさったり、秘法の術を行ったりなさっておられるとのことでございます。北の方さま(貴子)は、考えつかれる限りの手立てを尽くされていらっしゃいます。
世間を騒がせております疫病の流行が、冬になって少し下火になりましたので、世の人々は喜ばしく思っている折でございますが、関白殿のご容態がただならぬご様子とのお噂が、天下の一大事と思われておりました。
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