第一章 ある男の生涯 (1)
(一)
彼の父良夫は、明治四十年(1907年)に誕生しました。
波乱に満ちた明治時代は残り少なく、また、西暦で言えば新世紀を迎えて間もない頃であります。
当時の世相は、わが国が日露戦争に勝利した直後であり、国威が大いに高まっていたと思われます。
この勝利が軍事大国への道に拍車がかかる一因とも考えられますが、当時の人々にとって誇らしい出来事だったことでしょう。そして、それは限られた指導者層だけでなく、国民の多くが先進諸国に追いつくための記念すべき勝利だと受け取っていたと思われます。
世界全体を見ても、第一次世界大戦が勃発するのが僅か数年後のことであります。
いつの時代でも同じなのかもしれませんが、この頃はとりわけ軍事力の優劣が国力そのものの時代であり、明治維新以来進められてきた富国強兵政策が正当にみえたことでしょう。
良夫が生まれ育ったのは神戸の下町といえる辺りです。
その日暮らしに近い状態の住民が中心の棟割り長屋の一画でした。狭い長屋の代表である九尺二間の間取りよりは少し広いものですが、六軒ずつくらいが向かい合っていて、井戸は共同という環境でした。
長屋の住民は、職人や商売人が中心でしたが、工場勤めの人も増えてきていました。
職人には自営の人と親方のもとに通う人とがあり、商売人は殆んどが行商人でした。工場勤めの人は全て現場職で、管理職や幹部候補といった人が住む場所ではなかったようです。
当時の大手会社では、幹部社員やその候補生たちと、現場で働く労働者とは明確な区別があったようです。
良夫の父親は、経師職人でした。
襖や障子の製作や修理を手がけていて、親方に指示された先で仕事をしていましたが、勤めているのではなく自営の職人でした。
しかし、自分で仕事を取ってくる才覚は全くなく、親方から指示される仕事だけをこなしていました。もともと親方のもとで修業し仕事をしていましたが、代替わりとともに独立したのです。
営業力の方は駄目でしたが職人としての腕は確かなようで、代が変わったあとの若い親方にも重宝されていたようです。
ただ、指示される仕事は親方のおこぼれのようなもので、管理料のようなものを差し引かれ、手空きも多く収入は不安定だったようです。
それでも生活に困るようなことがなかったのは、父親という人は煙草を少々吸う以外に趣味や道楽はなく、仕事の無い時には小さな座卓や文箱などを作り、それを欲しがる人が結構いたのです。また、頼まれれば簡単な大工仕事も器用にこなし、それらの収入もそこそこあったからです。
さらに、妻女、つまり良夫の母親にあたる人ですが、この人が夫とは対照的に手八丁口八丁の人で、その上実に商才に長けた人だったようです。
夫が作ったものを売りさばいたり、簡単な大工仕事を見つけてきたりする他に、小金を貯めて貸していました。
僅かばかりの金を証文も取らずに貸して利子を稼ぐのですが、庶民の間には今日のような金融制度などありませんでしたから、結構な商売になっていたようです。
母親は満足に字が書けなかったことも理由だったのでしょうが、証文を取ることなくかなりの数の貸借を管理していたのですから神業のようなものでした。
良夫は、このような両親の一人息子として育ち、小学校卒業と同時に海岸沿いにある工場に就職しました。
その昔、大輪田の泊と呼ばれた一帯は、わが国を代表する工業地帯に発展しつつありました。良夫が就職したのは、その中でも屈指の重工業の会社でした。その工場で後の養成工のような形で教育を受けましたが、丁稚奉公に近い職場環境だったようです。
良夫は荒っぽい先輩たちにしごかれながら、旋盤工としての技術を修得していきました。当然のことですが、当時の工作機械にはコンピューター制御装置などありません。先輩たちの職人芸を盗むようにして学ぶ世界でした。
小学校を卒業したばかりの少年にとって、下積みの数年間は並大抵の苦労ではなく、同時に入社した仲間の多くが退社していったようです。
良夫は自宅から通っていたという境遇にも恵まれて頑張り抜き、生涯の武器となる旋盤工として一流の技術を身に着けることができたのです。
当時の良夫宅の家計状況は悪くなく、むしろ長屋暮らしの人たちの中では相当裕福な部類でした。一人息子を上の学校へ行かすことも十分可能だったはずですが、両親にそのような考えは全くなく、義務教育を終えると近所の子供たち同様に働きに出るのが当然と考えていたようです。
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良夫の人生における最初の試練は、十六歳の時に起きました。
ようやく職場に慣れ、まだ修業中の身ではありましたが一人で機械を操作する機会も増えてきていました。そんな矢先、母親が突然倒れ、半月余りの闘病の末、死去したのです。
死因は今でいえば胃癌だったようですが、母親は倒れるまで医者にかかることなく、時々売薬を飲んでいただけだったそうです。
倒れたあと、病状に改善がみられないことを感じた母親は、持っている財産全部を良夫に渡しました。
父親はお金に対して極端に無頓着な人で、母親が息子にお金などを引き継ぐのを当然のように見ていたそうです。
良夫が母親から受け継いだ財産は小さなものではありませんでした。
数冊の預金通帳と現金の他に、貸しているお金が良夫の年収の数倍ほどありましたが、貸している先は数十人に及び、しかも証文も無いことから、返しに来る人があれば受け取っておくようにという話になりました。
母親の死後、催促など全くしなかったのですが十数人が返済金を持参してくれたそうです。
良夫が相続した現金や預金が、現在の価値に換算するとどの程度になるものか正確には分かりませんが、良夫の話しでは、町内で一番立派な家が土地付きで二軒や三軒は買える額だったそうです。
一戸あたり十坪にも満たない長屋に暮らしていながら、信じられないほどの現金を貯め込んでいたのですが、当時は、単にお金を持っているからといって庶民が身分不相応な家に住むようなことは考えない人が多かったようです。職人の家族は、同じような環境の人が集まって生活する方が何かと便利だったのかもしれません。
まだ少年から成年への過渡期に過ぎない良夫は、はからずも大金を相続することになりました。しかし、同時に、父親との二人きりの生活を強いられることにもなりました。
父親という人は、こつこつと仕事をする以外何もしない人でした。悪い遊びもしないかわり、家事の真似事のようなことさえしない人でした。
朝早く起きて食事を作るのは良夫の仕事になりました。
朝食の他、二人分の弁当を作り、夜は工場からの帰宅途中に市場により、食材などを買い求めるという毎日でした。
関東大地震が起こり、波乱のうちに大正時代が終わろうとしている頃のことでした。
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