藤原四家起こる ・ 今昔物語 ( 巻22-2 )
今は昔、
淡海公と申す大臣(オトド)がおいでになった。実の名は不比等と申し上げる。大織冠藤原鎌足の長男で、母は天智天皇の御后である。
さて、大織冠が亡くなられた後、朝廷に仕えたが、極めて優れた才能が有ったので、左大臣にまで上られ、国政を一手に握るに至った。
この大臣には男子が四人いた。
長男は武智麻呂と申して、この人も大臣まで上られた。二男は房前の大臣(フササキノオトド)と申された。三男は式部卿で、宇合(ウマカイ)と申された。四男は左・右京の大夫で、麿(マロ)と申された。
この四人の御子を、長男の武智麻呂は親の邸宅からは南の方に住んでいたので南家と称した。二男の房前は親の邸宅からは北の方に住んでいたので北家と称した。三男の宇合は官職が式部卿なので式家と称した。四男の麿は官職が左京太夫なので京家と称した。
この四家のそれぞれの子孫がわが国の朝廷に満ち広がっている。
その中でも、二男の大臣の子孫は、氏の長者を継いで、今も摂政関白として栄えておられる。天下を恣(ホシイママ)にして、天皇の後見役として政務をとっておられるのは、ただこの大臣の子孫である。
長男の大臣の南家にも人物は多いが、子孫の代となっては大臣や公卿になる人はほとんどない。
三男の式家にも人物はいるが、公卿などになる人はない。
四男の京家は、これといった人物は絶えてしまっている。ただ、侍程度の身分ではいるであろうが。
このように、ただ二男の大臣の北家だけがめざましい繁栄ぶりで、山階寺(ヤマシナデラ・興福寺の別称)の西にある佐保殿という所は、この二男房前の大臣の邸宅であった。この大臣の子孫が、氏の長者としてこの佐保殿に参られた時には、まず庭において礼拝(ライハイ)してから上にあがられた。房前大臣の肖像がその佐保殿に模写して置かれているからである。
されば、淡海公のご子孫はこのようである、
となむ語り伝えたるとや。
☆ ☆ ☆
* 不比等を鎌足の長男としているが、(巻22-1)では二男としており、このあたりも不比等ご落胤説の一助になっている可能性ある。
* 正しくは、房前は大臣になっていない。
☆ ☆ ☆
今は昔、
淡海公と申す大臣(オトド)がおいでになった。実の名は不比等と申し上げる。大織冠藤原鎌足の長男で、母は天智天皇の御后である。
さて、大織冠が亡くなられた後、朝廷に仕えたが、極めて優れた才能が有ったので、左大臣にまで上られ、国政を一手に握るに至った。
この大臣には男子が四人いた。
長男は武智麻呂と申して、この人も大臣まで上られた。二男は房前の大臣(フササキノオトド)と申された。三男は式部卿で、宇合(ウマカイ)と申された。四男は左・右京の大夫で、麿(マロ)と申された。
この四人の御子を、長男の武智麻呂は親の邸宅からは南の方に住んでいたので南家と称した。二男の房前は親の邸宅からは北の方に住んでいたので北家と称した。三男の宇合は官職が式部卿なので式家と称した。四男の麿は官職が左京太夫なので京家と称した。
この四家のそれぞれの子孫がわが国の朝廷に満ち広がっている。
その中でも、二男の大臣の子孫は、氏の長者を継いで、今も摂政関白として栄えておられる。天下を恣(ホシイママ)にして、天皇の後見役として政務をとっておられるのは、ただこの大臣の子孫である。
長男の大臣の南家にも人物は多いが、子孫の代となっては大臣や公卿になる人はほとんどない。
三男の式家にも人物はいるが、公卿などになる人はない。
四男の京家は、これといった人物は絶えてしまっている。ただ、侍程度の身分ではいるであろうが。
このように、ただ二男の大臣の北家だけがめざましい繁栄ぶりで、山階寺(ヤマシナデラ・興福寺の別称)の西にある佐保殿という所は、この二男房前の大臣の邸宅であった。この大臣の子孫が、氏の長者としてこの佐保殿に参られた時には、まず庭において礼拝(ライハイ)してから上にあがられた。房前大臣の肖像がその佐保殿に模写して置かれているからである。
されば、淡海公のご子孫はこのようである、
となむ語り伝えたるとや。
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* 不比等を鎌足の長男としているが、(巻22-1)では二男としており、このあたりも不比等ご落胤説の一助になっている可能性ある。
* 正しくは、房前は大臣になっていない。
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