( 5 )
牧村は、志織を外に連れ出したいと思った。
まだ残暑の季節で、日中の日差しはずいぶん厳しいものであったが、それでも、朝夕には僅かながら秋を感じさせるようになっていた。
その頃の志織の健康状態がどのようなものであったのか牧村は全く承知していなかったが、会っている時の様子から考えて、健康面で大きな問題を抱えているとは想像できなかった。普通に生活を送っている女性と変わりなく感じられ、せいぜい蒲柳の質といわれるような体質で、どこということではなく全体として弱い体質なのだと理解していた。
牧村が志織を外に連れ出したいと思ったのは、この頃には、彼女のいない将来など何の意味もないと思い始めていたからである。
すでに牧村の同期生の中で結婚している者も何人かいた。牧村自身はこれまで自分の結婚について具体的に考えたことはなかった。好意を持った女性に出会ったこともあるし、互いを意識し合った女性もいた。しかし、それらの女性に対する気持ちは恋愛感情としてのあこがれのようなものであったが、志織に対しては、これまでとは全く違うものであった。
志織に対して、女性としての魅力に惹かれていることは否定できないが、それ以上に、一緒にいたいという気持ちが強かった。同じ人生を歩きたいという気持ちであった。
そして、その気持ちをもっとストーレートに伝えたいと思いながら、躊躇させる重石のようなものがあった。それは、桜木家の余りにも大き過ぎる資産であり、志織との年齢差であった。
年齢差については、牧村にはなんの抵抗もなかったが、志織の方には何かの機会ごとに二人が同じ舞台に立つことは出来ないのだというような意志を伝えてきていた。具体的な言葉ではないが、牧村に十分伝わってくる志織の意志だった。
「いいわねぇ・・・」
牧村のそれとない誘いに対して志織は目を輝かせたが、すぐに声のトーンを落として言葉をつないだ。
「でも、外出は控えるように言われていますの・・・。ごめんなさいね」
と、寂しく笑った。
志織は、実にすばらしい笑顔の持ち主であった。大きな声を出して笑うことなど一度もなかったが、健康面で問題を抱えているようなものは微塵も感じさせることなく、静かではあるが心にしみてくるような力があった。その笑顔を見せてもらうためであれば、牧村はどんな代償でも払えると思っていた。
そして、同時に、悲しい時に見せる志織の笑顔は、あまりにも寂しげで、牧村の心の奥底にまで激しく迫ってくるものであった。
牧村は、それ以上は誘うことが出来ず、意味なく頷くだけであった。
志織が強い日差しにあたることが良くないらしいことは、前任者からも聞いていた。牧村が志織を外出させたいと考えた時も、夕方か夜間を考えていた。
それに、志織が全く外出をしていないかといえば、決してそういうことではなかった。毎週のように一、二度は買い物に出ている様子であった。すぐ近くの商店街までのようであるが、いつも住み込みで家事を取り仕切っている恵子さんと一緒のようであるが、絶対に外出できないということではないことを牧村は知っていた。
従って、牧村は、志織を誘い出すことがそれほど難しいことだとは考えていなかった。
しかし、志織にこれほど寂しげな顔をさせてしまったからには、外に誘い出す計画は先に延ばすしかなかった。決して諦めたわけではないが、外出の話を持ち出したことで志織を傷つけてしまったと思うと、牧村の心も痛んだ。
***
桜木家の建物は新しいものではなかったが、重厚でかなり広いものであった。
部屋数は十室ぐらいはあると思われた。屋内の全部を見る機会は牧村にはなかったが、志織が専用として使っている三室だけでも相当の広さがあった。
刺繍をふんだんに配置した洋間は、志織が親しい人を案内する彼女専用の応接室として使っているようであったが、普通の住宅の応接室に比べても広い方に思われるし、その部屋に続いている和室もすばらしいものであった。八畳の畳の部屋の窓側には三畳ほどの板間があり、夏はいぐさの敷物が敷かれており、秋からは淡い緑色の絨毯に替えられていた。窓の外にはぬれ縁があり、庭に続いている。
志織が使っている三室のための専用の庭になっていて、奥行き二間ばかりの広さが板塀と竹矢来で囲まれていた。背丈の低い庭木や、鉢植えされた季節の花がいつも咲いていたが、庭の広さに比べその数は少なく、全体としては枯山水を思わせるような雰囲気の庭であった。
牧村は、その庭が好きだった。
秋の日差しになった頃からは、絨毯の敷かれているところに籐椅子を置いて、その庭を見ながら話をすることが多くなった。ぬれ縁全体が深い屋根に守られていて、秋の日差しになっても籐椅子の所まで直射日光が届く心配はなかった。
「本当は、この庭全体を芝生にしたかったのですが、でも、わたくしにはお手入れが無理だから・・・」
と、志織がこの庭について話したことがあった。そしてその時も、あの寂しげな笑顔を見せた。
「とんでもないですよ。ここは、この庭でなくては駄目ですよ。この庭が部屋の雰囲気にとても合っていますし、私は大好きです」
「本当ですか・・・、そうおっしゃって下さるとうれしいわ・・・」
牧村の必要以上に力の入った意見に志織は微笑んだが、その笑顔からはあの寂しさは消えていなかった。
実際に牧村はこの庭が大変気に入っていたので、自分の気持ちを素直に伝えたつもりであったが、志織には、そのようには伝わっていないみたいだった。
緑に燃え立つ芝生の庭も、それはそれで良いものであるが、しかしそれは、志織ではないと思った。志織のすばらしさを、何もかも飲み込んでしまうような燃え立つばかりの緑一色で表現してはいけないと思ったのだ。
志織のすばらしさは、あの刺繍に表現されているような、控えめな色づかいの奥にある、秘められた情熱でなくてはならないのだ。
しかし、牧村の言葉に力が入り過ぎたためか、志織は慰めとして受け取ったようである。それが志織の様子に現れていて、牧村にはつらかった。自分の真実の気持さえも正しく伝えられないことがつらく、志織をさらに悲しませてしまったことに自分の力の弱さを感じていた。
志織の、この寂しげな笑顔を癒す力が、どうして自分にはないのかと情けなく悲しかった。牧村の志織を想う気持ちは、すでに確固たるものになっていた。それでもなお、その一端さえ志織に伝えることが出来ていないことが痛感された。
何ゆえに志織は、これほど寂しげな表情を自分に見せるのか、と牧村は思った。おそらく志織にはそのような意思はなく、彼女の心の奥にあるものが、ふっと表情として現れたものなのだろうが、それは、自分に心を許しているためなのか、それとも自分に対する絶望からなのか、と牧村は悩んだ。
仕事上の重要な顧客の歓心を得るために始まった訪問であるが、すでに牧村の訪問の目的は志織との時間を共有したいという思いだけになっていた。
そして、志織の心の奥にある、あの寂しい笑顔となって現れてくるものを癒すことの出来ない自分自身に焦っていた。
牧村は、志織を外に連れ出したいと思った。
まだ残暑の季節で、日中の日差しはずいぶん厳しいものであったが、それでも、朝夕には僅かながら秋を感じさせるようになっていた。
その頃の志織の健康状態がどのようなものであったのか牧村は全く承知していなかったが、会っている時の様子から考えて、健康面で大きな問題を抱えているとは想像できなかった。普通に生活を送っている女性と変わりなく感じられ、せいぜい蒲柳の質といわれるような体質で、どこということではなく全体として弱い体質なのだと理解していた。
牧村が志織を外に連れ出したいと思ったのは、この頃には、彼女のいない将来など何の意味もないと思い始めていたからである。
すでに牧村の同期生の中で結婚している者も何人かいた。牧村自身はこれまで自分の結婚について具体的に考えたことはなかった。好意を持った女性に出会ったこともあるし、互いを意識し合った女性もいた。しかし、それらの女性に対する気持ちは恋愛感情としてのあこがれのようなものであったが、志織に対しては、これまでとは全く違うものであった。
志織に対して、女性としての魅力に惹かれていることは否定できないが、それ以上に、一緒にいたいという気持ちが強かった。同じ人生を歩きたいという気持ちであった。
そして、その気持ちをもっとストーレートに伝えたいと思いながら、躊躇させる重石のようなものがあった。それは、桜木家の余りにも大き過ぎる資産であり、志織との年齢差であった。
年齢差については、牧村にはなんの抵抗もなかったが、志織の方には何かの機会ごとに二人が同じ舞台に立つことは出来ないのだというような意志を伝えてきていた。具体的な言葉ではないが、牧村に十分伝わってくる志織の意志だった。
「いいわねぇ・・・」
牧村のそれとない誘いに対して志織は目を輝かせたが、すぐに声のトーンを落として言葉をつないだ。
「でも、外出は控えるように言われていますの・・・。ごめんなさいね」
と、寂しく笑った。
志織は、実にすばらしい笑顔の持ち主であった。大きな声を出して笑うことなど一度もなかったが、健康面で問題を抱えているようなものは微塵も感じさせることなく、静かではあるが心にしみてくるような力があった。その笑顔を見せてもらうためであれば、牧村はどんな代償でも払えると思っていた。
そして、同時に、悲しい時に見せる志織の笑顔は、あまりにも寂しげで、牧村の心の奥底にまで激しく迫ってくるものであった。
牧村は、それ以上は誘うことが出来ず、意味なく頷くだけであった。
志織が強い日差しにあたることが良くないらしいことは、前任者からも聞いていた。牧村が志織を外出させたいと考えた時も、夕方か夜間を考えていた。
それに、志織が全く外出をしていないかといえば、決してそういうことではなかった。毎週のように一、二度は買い物に出ている様子であった。すぐ近くの商店街までのようであるが、いつも住み込みで家事を取り仕切っている恵子さんと一緒のようであるが、絶対に外出できないということではないことを牧村は知っていた。
従って、牧村は、志織を誘い出すことがそれほど難しいことだとは考えていなかった。
しかし、志織にこれほど寂しげな顔をさせてしまったからには、外に誘い出す計画は先に延ばすしかなかった。決して諦めたわけではないが、外出の話を持ち出したことで志織を傷つけてしまったと思うと、牧村の心も痛んだ。
***
桜木家の建物は新しいものではなかったが、重厚でかなり広いものであった。
部屋数は十室ぐらいはあると思われた。屋内の全部を見る機会は牧村にはなかったが、志織が専用として使っている三室だけでも相当の広さがあった。
刺繍をふんだんに配置した洋間は、志織が親しい人を案内する彼女専用の応接室として使っているようであったが、普通の住宅の応接室に比べても広い方に思われるし、その部屋に続いている和室もすばらしいものであった。八畳の畳の部屋の窓側には三畳ほどの板間があり、夏はいぐさの敷物が敷かれており、秋からは淡い緑色の絨毯に替えられていた。窓の外にはぬれ縁があり、庭に続いている。
志織が使っている三室のための専用の庭になっていて、奥行き二間ばかりの広さが板塀と竹矢来で囲まれていた。背丈の低い庭木や、鉢植えされた季節の花がいつも咲いていたが、庭の広さに比べその数は少なく、全体としては枯山水を思わせるような雰囲気の庭であった。
牧村は、その庭が好きだった。
秋の日差しになった頃からは、絨毯の敷かれているところに籐椅子を置いて、その庭を見ながら話をすることが多くなった。ぬれ縁全体が深い屋根に守られていて、秋の日差しになっても籐椅子の所まで直射日光が届く心配はなかった。
「本当は、この庭全体を芝生にしたかったのですが、でも、わたくしにはお手入れが無理だから・・・」
と、志織がこの庭について話したことがあった。そしてその時も、あの寂しげな笑顔を見せた。
「とんでもないですよ。ここは、この庭でなくては駄目ですよ。この庭が部屋の雰囲気にとても合っていますし、私は大好きです」
「本当ですか・・・、そうおっしゃって下さるとうれしいわ・・・」
牧村の必要以上に力の入った意見に志織は微笑んだが、その笑顔からはあの寂しさは消えていなかった。
実際に牧村はこの庭が大変気に入っていたので、自分の気持ちを素直に伝えたつもりであったが、志織には、そのようには伝わっていないみたいだった。
緑に燃え立つ芝生の庭も、それはそれで良いものであるが、しかしそれは、志織ではないと思った。志織のすばらしさを、何もかも飲み込んでしまうような燃え立つばかりの緑一色で表現してはいけないと思ったのだ。
志織のすばらしさは、あの刺繍に表現されているような、控えめな色づかいの奥にある、秘められた情熱でなくてはならないのだ。
しかし、牧村の言葉に力が入り過ぎたためか、志織は慰めとして受け取ったようである。それが志織の様子に現れていて、牧村にはつらかった。自分の真実の気持さえも正しく伝えられないことがつらく、志織をさらに悲しませてしまったことに自分の力の弱さを感じていた。
志織の、この寂しげな笑顔を癒す力が、どうして自分にはないのかと情けなく悲しかった。牧村の志織を想う気持ちは、すでに確固たるものになっていた。それでもなお、その一端さえ志織に伝えることが出来ていないことが痛感された。
何ゆえに志織は、これほど寂しげな表情を自分に見せるのか、と牧村は思った。おそらく志織にはそのような意思はなく、彼女の心の奥にあるものが、ふっと表情として現れたものなのだろうが、それは、自分に心を許しているためなのか、それとも自分に対する絶望からなのか、と牧村は悩んだ。
仕事上の重要な顧客の歓心を得るために始まった訪問であるが、すでに牧村の訪問の目的は志織との時間を共有したいという思いだけになっていた。
そして、志織の心の奥にある、あの寂しい笑顔となって現れてくるものを癒すことの出来ない自分自身に焦っていた。
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