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牧村の心の中の葛藤はともかくとして、二人が会っている時間は充実したものであった。志織の本当の気持ちを確認したわけではないが、自分ほどではないとしても、彼女にとっても充実した時間であるはずだと、牧村は確信していた。
この頃牧村は、余程のことがない限り木曜日か金曜日のどちらかの午後に桜木家を訪問するようになっていた。そして、その数時間は、ごく僅かの業務としての手続きの他は二人だけの世界に浸っていた。
それは、一週間のうちのほぼ半日を占める時間であり、牧村の業務に差し障りが全くないわけではないが、桜木家の取引は牧村が引き継いだ後さらに増大を続けていて、その程度の時間を費やしても上司から苦情を受けるようなことはなかった。
訪問時間はだいたい午後に入ってすぐの時間なので、昼食をご馳走になることも定例化してきていた。牧村が昼食をとる時間もないままに訪問することが多いことを知った志織が配慮してくれたのが切っ掛けだったが、少しでも長い時間を共に過ごしたい牧村にとってはありがたいことで、ごくたまには、あまり上品でない珍しそうなものを持参することもあった。
外出に誘うことに失敗した頃からは、月に一度土曜日に桜木家を訪ねるようになっていった。
牧村の会社は土曜日も休みになっていたが、桜木製作所の場合は土曜日の休みは月に二度であった。そのような事情もあって、桜木社長が出勤する土曜日を選んで、昼前から夕方頃まで二人の時間を過ごした。
桜木社長と顔を合わせることを牧村が特別避けたわけでもないが、土曜日となれば業務上の訪問という理由は成り立たず、牧村にしろ志織にしろ、父親である桜木社長の留守を狙っての逢瀬だと言われても弁解できない状況ではあった。
それにもかかわらず、二人が土曜日にも会うことにしたのには、恵子さんの後押しがあったからである。住み込みのお手伝いとはいえ、恵子さんが桜木家の家事全般を取り仕切っているといえた。その恵子さんが、牧村と志織が楽しげな時間を送ることをとても喜んでくれていて、最初の土曜日の訪問も恵子さんが段取りをつけてくれたからである。
二人の会話の主体は、絵本や童話や時には小説の登場人物などを巡るものに変わりはなかった。
ずっと後になってから当時を思い起こした時、牧村は不思議な感覚にとらわれることがあった。牧村自身小説については同世代の中ではかなり読んでいる方だと思われるが、絵本や童話ということになれば、志織と出会うまでは全く興味のない分野であった。それが、いつの間にかすっかりその魅力に捕えられていて、まるで少女がおとぎ話の世界をさまようかのように、時間を忘れて語り合っていたのだ。
志織が一人で過ごす時間の中心になっているものは刺繍で、二人の間で話題になることもあったが、ごくたまのことである。
志織自身も、登場人物や物語の背景などについて語り合う方が楽しそうで、特に絵本について牧村の意見や勝手な想像を聞くのが好きなようであった。
絵本のストーリーなどは、どう考えてもそれほど複雑なものではない筈だが、二人は登場してくる人物や動物たち、時には月や星や風や水の流れまでも重要な役割を担っているものとして、真剣に意見を述べ合ったりした。
それは、まるで連想ゲームを楽しんでいるようであり、あるいは、日常の生活から遠く離れた次元に二人だけで駆け巡っているような感覚さえすることがあった。
志織は静かな雰囲気をたたえた女性であるが、二人で物語について語り合う時には、激しく感情を面に出すことも珍しくなかった。
牧村の言葉に対して、「悲しそう・・・」とか「それはあまりにも残酷だわ・・・」などといった感想を述べる時には、そのまま表情にまで現すのである。それはまるで、物語の感想というよりは、現実を目の当たりにしているようにさえ思われることが少なくなかった。
二人は一冊の絵本について二時間でも三時間でも語り合い想像を広げあうことが出来たし、それでもなお話し足りないほどであった。
牧村は時々、自分が作り上げた話に引き込まれてしまうことがあって、そのような時には、物語をより不幸なものにしてしまったり残酷な部分を強調してしまうことがあった。そして、そのような展開になった時には、志織は瞬きさえ忘れたかのように牧村の顔をじっと見つめていることがあった。その表情で、話が少し極端に過ぎていることに気付き言葉を止めるのだが、それでもなおしばらくの間、そのまま牧村の顔を見続けているのだ。その視線は、確かに牧村に向けられたものであり、その表情に異常なものなど全く感じられなかったが、志織の心は二人がいる空間から遥か離れたところに移っているように感じられるものでもあった。
ただ、それはごく短い時間で、牧村が話を中断していることに気付くと、我に返ったかのように表情を和らげ、恥ずかしそうに微笑むのだ。その笑顔は、あの、何とも寂しげな笑顔であった。
あれは、蜜蜂が花畑やれんげ畑から蜜を集めてくるといった内容の絵本に関して、二人で話し合っている時のことであった。牧村はいつものようにその絵本をもとに物語を作り話していた。
その内容は、蜜蜂が花畑に向かう途中で鳥に襲われて重傷を負い、いつも通っている菜の花のもとに行けなくなったという話を、さらに展開させて話していた。そして、傷を負ったため愛する菜の花のもとに行けなくなった蜜蜂と、愛する蜜蜂がやって来ないことに胸を痛めながらもただひたすらに待ち続けることしかできない菜の花と、どちらの気持ちの方が苦しいのかという議論になっていった。
志織は、大きく見開いた瞳を牧村に向けたまま、その瞳よりさらに大きいような涙をはらはらと落とした。まさに、はらはらという形容そのままのような涙であった。
牧村は驚くとともに、その涙の意味を知りたいと思った。
これまでも悲しい物語の時などに、あの寂しげな笑顔を見せることはあったが、涙を流すようなことはなかった。蜜蜂と菜の花の物語は、牧村の心の中に志織との関係をイメージしていたことは確かであった。それだけに志織の涙の持つ意味を知りたいと強く思った。
志織は、頬を伝う涙を拭おうともせず、ひとり言のように呟いた。
「悲しみと、愛することとは、どちらが苦しいのでしょうね・・・」
牧村は答えることが出来なかった。志織の言葉に、物語を作るような軽い気持ちで答えることなどとてもできなかった。
「どちらも苦しいのでしょうねぇ・・・」
志織は、牧村にというより、自分自身に言い聞かせるように呟き、それから、あのいつものような、何とも寂しげな、牧村の心にきりきりと迫る笑顔を見せた。
「ごめんなさいねぇ・・・」
この志織の言葉は、明らかに牧村に向けられたものであった。そして、頬を手の甲で拭いながら立ち上がった。
牧村も何かに引かれるかのように立ち上がった。志織を抱きしめたい衝動が、牧村の全身を駆け巡った。強く抱きしめれば壊れてしまいそうなこの人を、それだからこそ守りたいと思った。
しかし、その一歩を踏み出す勇気が、牧村にはなかった。
牧村の心の中の葛藤はともかくとして、二人が会っている時間は充実したものであった。志織の本当の気持ちを確認したわけではないが、自分ほどではないとしても、彼女にとっても充実した時間であるはずだと、牧村は確信していた。
この頃牧村は、余程のことがない限り木曜日か金曜日のどちらかの午後に桜木家を訪問するようになっていた。そして、その数時間は、ごく僅かの業務としての手続きの他は二人だけの世界に浸っていた。
それは、一週間のうちのほぼ半日を占める時間であり、牧村の業務に差し障りが全くないわけではないが、桜木家の取引は牧村が引き継いだ後さらに増大を続けていて、その程度の時間を費やしても上司から苦情を受けるようなことはなかった。
訪問時間はだいたい午後に入ってすぐの時間なので、昼食をご馳走になることも定例化してきていた。牧村が昼食をとる時間もないままに訪問することが多いことを知った志織が配慮してくれたのが切っ掛けだったが、少しでも長い時間を共に過ごしたい牧村にとってはありがたいことで、ごくたまには、あまり上品でない珍しそうなものを持参することもあった。
外出に誘うことに失敗した頃からは、月に一度土曜日に桜木家を訪ねるようになっていった。
牧村の会社は土曜日も休みになっていたが、桜木製作所の場合は土曜日の休みは月に二度であった。そのような事情もあって、桜木社長が出勤する土曜日を選んで、昼前から夕方頃まで二人の時間を過ごした。
桜木社長と顔を合わせることを牧村が特別避けたわけでもないが、土曜日となれば業務上の訪問という理由は成り立たず、牧村にしろ志織にしろ、父親である桜木社長の留守を狙っての逢瀬だと言われても弁解できない状況ではあった。
それにもかかわらず、二人が土曜日にも会うことにしたのには、恵子さんの後押しがあったからである。住み込みのお手伝いとはいえ、恵子さんが桜木家の家事全般を取り仕切っているといえた。その恵子さんが、牧村と志織が楽しげな時間を送ることをとても喜んでくれていて、最初の土曜日の訪問も恵子さんが段取りをつけてくれたからである。
二人の会話の主体は、絵本や童話や時には小説の登場人物などを巡るものに変わりはなかった。
ずっと後になってから当時を思い起こした時、牧村は不思議な感覚にとらわれることがあった。牧村自身小説については同世代の中ではかなり読んでいる方だと思われるが、絵本や童話ということになれば、志織と出会うまでは全く興味のない分野であった。それが、いつの間にかすっかりその魅力に捕えられていて、まるで少女がおとぎ話の世界をさまようかのように、時間を忘れて語り合っていたのだ。
志織が一人で過ごす時間の中心になっているものは刺繍で、二人の間で話題になることもあったが、ごくたまのことである。
志織自身も、登場人物や物語の背景などについて語り合う方が楽しそうで、特に絵本について牧村の意見や勝手な想像を聞くのが好きなようであった。
絵本のストーリーなどは、どう考えてもそれほど複雑なものではない筈だが、二人は登場してくる人物や動物たち、時には月や星や風や水の流れまでも重要な役割を担っているものとして、真剣に意見を述べ合ったりした。
それは、まるで連想ゲームを楽しんでいるようであり、あるいは、日常の生活から遠く離れた次元に二人だけで駆け巡っているような感覚さえすることがあった。
志織は静かな雰囲気をたたえた女性であるが、二人で物語について語り合う時には、激しく感情を面に出すことも珍しくなかった。
牧村の言葉に対して、「悲しそう・・・」とか「それはあまりにも残酷だわ・・・」などといった感想を述べる時には、そのまま表情にまで現すのである。それはまるで、物語の感想というよりは、現実を目の当たりにしているようにさえ思われることが少なくなかった。
二人は一冊の絵本について二時間でも三時間でも語り合い想像を広げあうことが出来たし、それでもなお話し足りないほどであった。
牧村は時々、自分が作り上げた話に引き込まれてしまうことがあって、そのような時には、物語をより不幸なものにしてしまったり残酷な部分を強調してしまうことがあった。そして、そのような展開になった時には、志織は瞬きさえ忘れたかのように牧村の顔をじっと見つめていることがあった。その表情で、話が少し極端に過ぎていることに気付き言葉を止めるのだが、それでもなおしばらくの間、そのまま牧村の顔を見続けているのだ。その視線は、確かに牧村に向けられたものであり、その表情に異常なものなど全く感じられなかったが、志織の心は二人がいる空間から遥か離れたところに移っているように感じられるものでもあった。
ただ、それはごく短い時間で、牧村が話を中断していることに気付くと、我に返ったかのように表情を和らげ、恥ずかしそうに微笑むのだ。その笑顔は、あの、何とも寂しげな笑顔であった。
あれは、蜜蜂が花畑やれんげ畑から蜜を集めてくるといった内容の絵本に関して、二人で話し合っている時のことであった。牧村はいつものようにその絵本をもとに物語を作り話していた。
その内容は、蜜蜂が花畑に向かう途中で鳥に襲われて重傷を負い、いつも通っている菜の花のもとに行けなくなったという話を、さらに展開させて話していた。そして、傷を負ったため愛する菜の花のもとに行けなくなった蜜蜂と、愛する蜜蜂がやって来ないことに胸を痛めながらもただひたすらに待ち続けることしかできない菜の花と、どちらの気持ちの方が苦しいのかという議論になっていった。
志織は、大きく見開いた瞳を牧村に向けたまま、その瞳よりさらに大きいような涙をはらはらと落とした。まさに、はらはらという形容そのままのような涙であった。
牧村は驚くとともに、その涙の意味を知りたいと思った。
これまでも悲しい物語の時などに、あの寂しげな笑顔を見せることはあったが、涙を流すようなことはなかった。蜜蜂と菜の花の物語は、牧村の心の中に志織との関係をイメージしていたことは確かであった。それだけに志織の涙の持つ意味を知りたいと強く思った。
志織は、頬を伝う涙を拭おうともせず、ひとり言のように呟いた。
「悲しみと、愛することとは、どちらが苦しいのでしょうね・・・」
牧村は答えることが出来なかった。志織の言葉に、物語を作るような軽い気持ちで答えることなどとてもできなかった。
「どちらも苦しいのでしょうねぇ・・・」
志織は、牧村にというより、自分自身に言い聞かせるように呟き、それから、あのいつものような、何とも寂しげな、牧村の心にきりきりと迫る笑顔を見せた。
「ごめんなさいねぇ・・・」
この志織の言葉は、明らかに牧村に向けられたものであった。そして、頬を手の甲で拭いながら立ち上がった。
牧村も何かに引かれるかのように立ち上がった。志織を抱きしめたい衝動が、牧村の全身を駆け巡った。強く抱きしめれば壊れてしまいそうなこの人を、それだからこそ守りたいと思った。
しかし、その一歩を踏み出す勇気が、牧村にはなかった。
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