雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遅い春   第八回

2011-01-01 15:05:25 | 遅い春
          ( 8 )

その日、牧村はある外部での講習に参加していた。
会社からの指示によるもので、二日間の講習だったが、二日目のその日は午後二時頃に終了した。この二日間は、会社の方へは出なくてもいいことになっていたので、予定より少し早く終了したが、電話連絡だけで直接帰宅する旨の了解を得た。

牧村は電話で志織の都合を聞き、桜木家に向かった。その日は金曜日だったが、講習のためこの週は訪問できないことになっていた。講習が少し早く終了したことから予定外の訪問となったが、志織も歓迎してくれているようであり、心を弾ませながら電車に乗った。
桜木家に着いたのは四時少し前であった。
呼び鈴に対して応対してくれるのはいつも恵子さんだが、その時は志織が直接玄関口で迎えてくれた。
志織の様子が少し違うと感じられたのは、これまで牧村が一度も見たことのないスラックス姿だったからである。

「外へ行きましょう」
志織は、目をまん丸に見開いて笑った。いつもよりずっと行動的な感じである。

「いいんですか?」
「ええ、今日は日差しもないし、大丈夫よ」

「恵子さんに叱られませんか?」
「恵子さんは、今お買い物に行っているのよ。ですから、その間に出かけましょう。表で出会ったことにすれば、大丈夫よ。でも、時間は一時間程しかないけれど、いいでしょう?」

「一時間あれば十分ですよ。ほら、この先の児童公園、池が見える小さな児童公園があるでしょう。あそこまでなら、すぐ行けますよ」
牧村は、桜木家には上がらず、鞄を持ったまま再び表に出た。

牧村が志織の姿を桜木家の外で見るのは初めての経験であった。志織自身は、毎週のように恵子さんと買い物に出ているので、外出そのものは特別どうというほどのことではないにしろ、連れ立って門の外に出るということは二人にとっては画期的なことであった。
特に牧村にとっては、幾度か試みながら実現できなかったことが、いとも簡単に実現したことに心が浮き立っていた。それも、志織が積極的に行動し、恵子さんの目を盗むようにして自分の願いのために行動してくれたことがうれしかった。
そして、おそらくこの外出は二人だけの秘密となり、この共通の秘密が二人にとって大きな意味を持つ宝物となるとの予感が、牧村の脳裏をかすめていた。

公園までは表通りを避けて少し回り道になるコースにしたが、それでも十分程の距離である。
二人が着いた公園は、砂場や滑り台などが設置されている典型的な児童公園であるが、もともとこの辺り一帯が古くからの公園になっていて、公園の整備の一環として住宅地に近い部分の一区画を児童用の公園にしたものであった。
児童公園そのものはごくありふれたもので、今も人影もない状態だが、そこからの眺望は東京の街の中ではなかなか見られない素朴ですばらしいものであった。牧村は、この児童公園を何度も下見していたのである。

二人はそう広くない公園の一番奥にあるベンチのあたりまで行った。ベンチのすぐ前には柵が設けられていて、その先は一段低くなっていて雑木林が広がっていた。そして、その雑木林越しに公園のシンボルでもある大池の一部が遠望できた。
一帯は、すでに晩秋の彩りであり、雲間からの弱い夕日がわずかに濃淡をつけていた。

「大丈夫ですか?」
志織の様子に変化はなく、むしろ生き生きとした表情に見えたが、恵子さんがあれほど外出に反対していたことが思い出され、牧村は声をかけた。

「大丈夫よ。心配しないで」
志織は牧村の心遣いに大きくうなづき、軽やかに答えた。そして、夕日をわずかに浴びている雑木林と大池の境目辺りを指差した。
牧村も並ぶように立ち、自分が選んだ場所に満足いっぱいの気持ちで志織が指差す方向を眺めた。
桜木家からほんの少し離れた場所に過ぎないのだが、志織と肩を並べていることに感動があり、確かな前進の実感があった。そして、この行動の裏に、志織の少なからぬ決意があることに自信を感じていた。
志織と同じ方向を眺めながら、牧村は景色とは全く別のことを考えていた。

「ぼつぼつ帰りましょうか」
牧村は、視線を大池の方向に向けたまま呟いた。まだいくらも時間は経っていないが、今日は二人でこの景色を眺めることだけで満足だった。
牧村の声に志織の返答がなかったが、それほど気にはならなかった。牧村の声も低く、ひとり言のようであったからだ。
牧村はゆっくりと志織の方を見た。

いつの間にか、志織は少し離れていて、大池の方向に背を向けて立っていた。そして、その身体が前後に激しく揺れていた。今にも倒れそうな動きであった。
牧村は瞬間的に異常を感じ取り、志織に駆け寄った。
志織の顔は土気色に変わっていた。歯を食いしばり、目を大きく見開き、全身が激しく震えていた。右手は前方を指差し、大きく見開かれた目はその方向に向けられていた。
その視線の先には、どこかの作業を終えたらしい中年の男性二人が、声高に談笑しながらこちらに向かって歩いてきていた。

牧村は志織の両肩を抱きしめた。志織も倒れ込むように牧村にすがりついてきたが、全身の震えは治まる気配はなく激しさを増した。
牧村は硬直したかのような志織の身体をベンチに移動させて座らせ、その身体を抱きしめた。激しい震えが抱きしめることによって治まるはずもなかったが、他になす術がなかった。
こちらに向かってきていた男たちは、二人に視線を投げかけはしたが、関わりを避けるかのように通り過ぎていった。

男たちが遠ざかるのと合わせたように志織の激しい震えは治まっていったが、その顔色は依然血の気を失ったままである。牧村は、その顔を覗き込むようにして、まるで壊れてしまいそうな身体を抱きしめ続けていた。
どの位の時間が経ったのだろうか、少し落ち着いた様子の志織は、牧村を見上げるようにして言った。

「寒いわ・・・」
その姿は、助けを求めているかのように牧村には見えた。牧村はさらに力を込めて、志織の繊細な身体を抱きしめた。
そして、この時牧村は、この人は自分のことを必要としてくれていると思った。自分でもこの人の力になれると思った。この人の力になりたいとの思いがわき上がってきていた。

顔色が少し良くなるのを待って、二人は桜木家へ戻った。
すでに帰ってきていた恵子さんは、牧村の説明を聞くまでもなく全てを察したらしく、大切なものを取り返すかのように志織の手を取ると、抱きかかえるようにして奥に入っていった。

「今日は、このまま帰って下さい」
と、これまでの恵子さんとは様変わりの態度で、牧村が家に上がることを拒絶した。
牧村は、閉じられた扉の前で、ただ立ち尽くしていた。







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