雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

絶好調 ・ 小さな小さな物語 ( 422 )

2013-02-06 19:18:26 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピックの前半戦は、メダル獲得数で見る限り、日本は絶好調のようです。もっとも、金メダルの獲得数からいえば、皮算用に比べかなり物足りないようですが。
いずれにしても、それぞれの競技において、トップクラスで競う人たちには、ごく一部の例外の人を除けば、それほど大きな差があるわけではなく、その日にコンディションを最高潮に持っていけるかどうかが大切な要件の一つのようです。


「運も実力のうち」といわれることがありますように、あらゆる努力を重ねてきても、どうにもならない「運」といったものはあるみたいです。
例えば、今回度々話題になっている誤審や採点方法などについても、個々の選手ではどうすることも出来ない「運」の一つのように思われます。無気力試合とかで失格にされた選手たちに対して、あるテレビのコメンテーターは、「あの試合は全く問題ない。メダル獲得を至上命令とされている選手なら、あらゆる可能性を求めるのは当然のことだ。問題があるとすれば、そのような競技体系をつくった運営組織であって、選手に罰を与えるなんてとんでもない」と発言されていました。全く同感で、少々選手やコーチ陣もやり過ぎだとは思いますが、彼らが社会的な制裁を受けないよう願うばかりです。
柔道競技においてもこんなシーンがありました。「主審が『一本』を示したため、攻めていた選手はそれを確認して攻撃を中断しました。ところが、その後『技あり』に変更され、それまでの獲得技の関係で負けとなりました」、これなども、仕方がないといえばそれまでですが、攻めていた選手にすれば、相手を倒した後押さえ込みに入れる体制だったのを、『一本』として、試合の中断を強制されてしまったのです。


古い話になりますが、第二次世界大戦直後、「フジヤマのトビウオ」と称せられた水泳選手がいました。しかし、敗戦国であるわが国はオリンピックに参加することが出来ず、絶好調の時代にオリンピックで活躍する機会を与えられませんでした。
その後にも、モスクワオリンピックを西側諸国の一員としてボイコットしたことがありますが、政治的な問題はともかく、そのため絶頂期での活躍を封印されてしまった選手もいます。


今、わが家の庭では、蝉が絶好調です。そんなに張りきらなくてもよいのにと思うほど、懸命に鳴いています。
熱中症を恐れて、この一週間ばかり手抜きをしていると、チャンス到来とばかり雑草たちは絶好調です。
いつもたくさんの実を付けてくれるキンカンは、まだ少し実が残っているのに白い花をいっぱいつけて、目下落花の真っ最中です。案外、今がキンカンの絶好調の期間なのかもしれません。
さて、そこで、我が身をちょいと見つめてみますと、何とまあ、絶好調に縁のない人生だと少々考えこんでしまいます。
ただ、オリンピック選手にしても、蝉にしても、雑草にしても、キンカンにしても、絶好調の時以外の方が遥かに長く、その時を懸命に生きているのだと思われます。こんな例えの中にオリンピック選手を入れると叱られますが、そこそこの状態で生きて行くのも、これもまた人生かもしれません。

( 2012.08.07 )
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素質と努力 ・ 小さな小さな物語 ( 423 )

2013-02-06 19:17:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピック、連日感動を与えてくれています。
見事メダルを獲得した選手には、多くの報道機関が殺到し、幾つものエピソードが紹介されたりしています。一つのメダルの奥には、想像を絶するような努力と、実に多くの人々の支援があったことをうかがい知ることが出来ます。
同時に、惜しくもメダルを取れなかった選手も、あるいはとてもメダルなど縁遠いと考えられる選手であったとしても、やはり、オリンピック出場を果たすまでの道のりには、決して劣ることのない努力やバックアップがあってこそと想像されます。


テレビ観戦を通しての感想ですが、ある種の競技を見ていますと、日本人選手が、直近に帰化したような人は例外ですが、向こう百年オリンピックで優勝することなど不可能ではないかと感じてしまうことがありました。
人種的な差別の意識など全くありませんが、競技種目によっては、人種による肉体的能力に差があるのではないかと思われてしまうのです。


ある競技で抜群の成績を重ねていた選手は、「これほどの努力を人は天才だという」と話したという記事を何かで見た記憶があります。他の人を遥かに上回る、血の滲むような努力を「彼は天才だ」との一言で評価されることに強い抵抗を示したのでしょう。
あるベテラン監督のこんな話も記憶しています。「あれほど素質がありながら、今少し努力が足らないのではないのか」というある選手のことに関する質問に対して、「一流を目指している選手は、誰も大変な努力をしていますよ。しかし、超一流といわれる選手は、それを遥かに超える努力をしているのです。それが出来るのかどうかは、それも素質なのかもしれません」と、ベテラン監督は答えていました。


どんなに努力をしても、金メダルに届く選手はごく限られた人だけです。これは厳然たる事実で、やはり、持って生まれた素質というものを無視することなど出来ないような気がします。
しかし、虚弱体質で育った子供がスポーツ選手として大成している例も少なくありません。その人には、虚弱体質のように見えただけで、もともと素質があったのか、努力で素質を超えてしまうことが可能なのか、なかなか判断が難しいところです。
素質と努力、この二つの能力はどのような比重と関係を持ちあっているのでしょうか。
そして、これは、何もスポーツの分野に限ったことではありません。私たちの日常生活を取り巻いているあらゆる分野でも同様のことが言えます。
ただ、自分自身のことはなかなか分からないものですし、それ以上に認めたくもありませんから、ここは、混迷を極めている政治の世界で発言している人たちについて、「彼は素質が足らないのか」「努力が足らないのか」「双方共に足らないのか」と、好き勝手に品定めをすることにしましょう。

( 2012.08.10 )

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女子バレーボールチームに感謝 ・ 小さな小さな物語 ( 424 )

2013-02-06 19:16:32 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピック大会、女子バレーボールチームが見事銅メダルを獲得しました。
オリンピック出場をかけた予選大会や、オリンピックに入ってからも予選リーグは苦戦が続いていただけに、この銅メダルは全く見事なものでした。また、試合内容も素晴らしく、大きな大きな感動を頂戴しました。心より感謝申し上げます。


女子バレーボール競技は、東京オリンピックにおける東洋の魔女以来、わが国のお家芸のように思われている面がありますが、他国のレベルアップが激しく、最近は苦しい状況が続いていました。
バレーボールという競技は、基本的に身長の高い選手が有利な面があるスポーツの一つといえます。その面では、やはりわが国には若干のハンディーが見られ、今大会においても、一般的な日本人女性からすれば遥かに背の高い人の集団だと思うのですが、対戦する相手チームに対して身長面では劣勢でした。
さらに、これはバレーボールに限らないのですが、わが国のスポーツの多くが実業団チームによって支えられてきましたが、平成に入ってこの方、企業の業績悪化が数多くみられ、実業団のスポーツチームにとって厳冬の時代が続いています。
女子バレーボールチームとて例外ではなく、選手や関係者の方々のご苦労は、経済的な面からでも大変だったろうと推察いたします。


団体スポーツにおいて、チームワークの大切さがよく言われます。
バレーボールもそうでしょうが、サッカーであれ、野球であれ、ホッケーであれ同様だと思いますし、今回のオリンピック出場競技でいえば、基本的には個人競技と思われる水泳陣が、チームワークを強調する場面が再々見られ、感動を受けるとともに、もしかすると重要な要素なのかもしれないと認識を新たにしました。
チームワークの大切さは、レベルの如何を問わず、あらゆるスポーツに必要でしょうし、スポーツばかりでなく、文化活動や、実業活動においても小さくない比重を占めているようです。
しかし、各選手の奥の奥にある本音でいえば、チームメートはイコール、ライバルであり、ライバルの活躍は自分の活躍場面を奪っていくものです。そんな心の葛藤と、チームへの真の貢献へのあり方に、苦しむことも人間である限り避けられないはずです。


そんな私の確固たる考えは、女子バレーボールチームの三位決定戦を見ているうちに、かなり揺らぎ始めました。
もしかすると、このチームは、選手、スタッフともども確固たるチームワークを築き上げているのではないかと感じられたからなのです。己を殺すということではなく、ひたすら辛抱するということでもなく、たとえ出場機会がないとしても、チーム全体が最大の力を発揮できるように全員が尽力する・・、もしかすると、そういうチームワークを作り上げることが可能なのかもしれない・・・。
そんな思いでこのゲームを観戦させていただきました。
女子バレーボールチームの皆さん、感動をありがとうございました。

( 2012.08.13 )
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戦い終えて ・ 小さな小さな物語 ( 425 )

2013-02-06 19:15:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピックは、多くの感動を与えてくれて無事終了しました。
幾つかの問題点も表面化していますが、大きな混乱もなく終えることが出来たことは何よりでした。
伝えられている報道によりますと、例えばボランティアの活動とか、開会式や閉会式のプログラムにしても、肩を怒らせているような部分は少なく、成熟した先進国らしい運営であったようです。
次回はリオデジャネイロ、また違ったダイナミックな運営をしてくれることでしょう。


今回の大会は、わが国の選手たちの健闘も目立ち、大いに楽しませていただきました。一人一人の選手の活躍の裏には、スタッフや家族や仲間やライバルなどの様々な関わりが秘められていて、私などが知ることが出来るのは、テレビなどで報道されるごく限られたものですが、いずれも感動的なものでした。
結果としては、目的を果たした人、不本意な結果であった人、様々な感慨を描いているのかもしれませんが、あのすばらしい大会に参加したことこそが生涯の誇りになるはずです。


最近のオリンピックの運営については、幾つかの問題点が指摘されることがあります。
まず、商業化が凄まじいことです。スポンサー企業の問題をはじめ、運営団体、スタッフ、選手などを取り巻く「お金」に関わる戦いは、金メダル争奪以上の激しさだともいわれています。
同じように、金メダルを目指しての戦いは、スポーツマンシップに則っている間は美しいものですが、それも行き過ぎると、さまざまな副作用を産んでしまいます。ドーピングなどはその最たるものです。
国家の威信を示す絶好の機会と考えるのは、ほとんどの国家・地域がそうなのでしょうが、やはり、これも程度もののように思われます。勝者こそがすべてという考え方が行き過ぎれば、本来のオリンピック精神というものを見失ってしまう可能性があります。


「オリンピックが世界平和に貢献する」という考え方に私自身は懐疑的でした。
しかし、今回のオリンピックを観ていて、もしかすると、その可能性を秘めているのかもしれないという気がしました。
初めて女性選手が参加した国が、今回は三か国あり、参加するすべての国家・地域が女性選手を送り込んだそうです。ある陸上競技で、ユニフォームなどにハンデを負いながらも最後尾を全力疾走する女性選手を見ていると、このシーンだけで、今回のオリンピック大会は有意義であったように思いました。
今回の大会には、204の国家・地域が参加しました。これだけの国家・地域が代表を送り込む大会や会議などは他にないはずです。それを考えると、「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉が生き生きとして輝いてきます。利害を異にする多くの国家・地域や、主張や価値観を異にする人種や宗教が、何はともあれ一つの目的を持って集まることが、不可能と思われる世界平和の実現への小さな一歩になるのかもしれません。
昨日十五日は、第二次世界大戦終戦の日。私たちはあの戦争の当事国であったことを忘れるべきではありません。
そして、今夜は京都五山の送り火。何も出来ない身ではありますが、ただ、ただ、合掌。

( 2012.08.16 )
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イメージ・トレーニング ・ 小さな小さな物語 ( 426 )

2013-02-06 19:14:25 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
盛況のうちにロンドンオリンピックが終わりました。
テレビの番組などでは、まだまだメダリストを中心にインタビューや裏話が繰り広げられていて、「少々くどいな」と思いながらも、ついつい見てしまいます。
こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、たった一つのメダルが人生を大きく変えてしまう可能性もあるようで、他人事ながら少々考えさせられてしまいます。


そんなインタビューなどを通して、ほとんどのスポーツにおいて「イメージ・トレーニング」というものが、かなり大きな意味を持っているらしいことを教えられました。
「イメージ・トレーニング」という訓練方法がスポーツのトレーニングに加えられ出したのはそれほど昔のことではないと思うのですが、現在ではほとんどのスポーツで行われているようです。
その効果は競技種目により差があるようですが、実際に身体を動かしての訓練では得られないような技術の向上が、「イメージ・トレーニング」により得られることもあるそうです。


この訓練方法が一般化し始めた頃、いわゆる根性論と混同されたことがあったようです。
今回のオリンピック大会においても、選手やコーチたちから、あるいは解説にあたっている人たちから、
「最後は精神力だ」といった、いわゆる根性論のような言葉をよく耳にしました。
技量が伯仲している人が戦った場合、最後に勝敗を分けるのは精神力の差だというのです。最後は根性のある奴が勝つというのです。
確かに、練習には強くても試合に弱い選手というものはあります。大試合になればなるほど力を発揮する選手もいます。
しかし、「最後は根性の差だ」という考え方には納得できません。


大事の前では人は緊張するものです。その緊張度には個人差があります。
しかし、その緊張の中でも普段の力を発揮できるようにするのが訓練です。その面での訓練方法の一つに「イメージ・トレーニング」があるように思われます。「根性の有る無し」で両断している間は、優れた指導者とはいえないように思います。
そして、この「イメージ・トレーニング」というものは、スポーツの分野だけではないと思うのです。文化的な活動、教育の分野、実業の分野などでも当然活用可能と考えられます。
ただ注意しなくてはならないのは、ここでもいわゆる根性論のようなものと混同されてしまう恐れがあります。「パワー・ハラスメント」や「洗脳」といった歪んだ形で利用される恐れがあり、現に、その実害も出ています。
私たちは、生まれたその日から誰かの指導を受けて育っていきます。自分の意思で指導者を選ぶことはとても難しいことですが、実に重要なことなのです。

( 2012.08.19 )
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季節の変わり目 ・ 小さな小さな物語 ( 427 )

2013-02-06 19:13:29 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
明日二十三日は、二十四節気の「処暑」にあたります。
「処暑」という言葉そのものから考えれば、「あついところ」つまり、まだまだ暑いという意味にとれますが、暦などの説明では、「残暑がしばらくとどまるが、朝夕は秋の気配が漂う」となっています。何とも優しい説明です。


今年の「立秋」は、八月七日でした。今年の立秋も「暦の上では秋ですが・・・」という表現そのものの、猛暑の真っただ中の「立秋」でした。
二十四節気は、太陽暦の一年を二十四等分したものです。太陰暦である旧暦において、季節のずれを補正すべく太陽による季節の移り変わりを加味させようとしたものです。したがって、「立秋」といえば、普通は八月七日を指しますが、立秋の期間といえば、本日までのほぼ半月間を指すのです。
どうでしょうか、少しは立秋らしい気配はありましたでしょうか。


この二十四節気は、かつては農作業などにおいて重要な役割を果たしていました。
現在では、二十四節気を基にして農作業などが行われるようなことはないのでしょうが、言葉だけはしっかりと生き残っています。それぞれの節気に付けられている名前が何とも優雅で、大切にしたいような言葉ばかりです。
ただ、この二十四節気は中国で生まれたものですから、わが国の風土や気候の変化とはずれがあり、実感と一致しない欠点があることは、昔から指摘されているようです。
現在、日本気象協会では、現代の日本の気候に合わせた新しい二十四節気を作る準備を進めているそうです。


暑い盛りに「立秋」があり、最も寒い頃に「立春」がある。
確かにこんな二十四節気など、生活の指針としては何の役にも立たないという意見もあるのかもしれません。
大声で叫びたくなるほどの暑さの中で「立秋」を迎え、虫の生態など全く関心がないのに「啓蟄」には虫が出てくる季節なんだとふと思い、露になど久しく触れていないけれど「白露」に季節を感じようとほんの少し思ってみたり・・・。
一年に数秒の狂いさえ発生させない時計を持ち、正確すぎるほどの乗り物や会社や学校の時間に包みこまれて生活する私たちには、何とも実感とずれのある二十四節気のような存在も、案外必要な気もするのですが。

( 2012.08.22 )


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趣味は何ですか? ・ 小さな小さな物語 ( 428 )

2013-02-06 19:12:35 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「趣味は何ですか?」と尋ねられて、返答に困る人って案外多いのではないでしょうか。
実は私などはその典型的な人だったのですが、最近それをクリアーすることが出来ました。
どうしてなのか、少々与太話に付き合って下さい。


かつて、バブル華やかし頃、ある会社の男性社員に趣味を尋ねると、およそ半数が「ゴルフ」と答えたそうです。その傾向は、この会社だけではなかったようです。
確かにある時期、猫も杓子もゴルフ、ゴルフといった傾向があったように思います。しかし、どうでしょうか、ひと月に一度コースに出るか出ないか程度で、しかも、仲間内でゴルフが出来ないというわけにもいかず、営業上の付き合いとしても必要なこともあり、乏しい小遣いをやりくりしながら始めたゴルフ、確かにコースに出れば楽しいのは楽しいのですが、さて、これは趣味といえる類のものなのでしょうか。
読書というのも同様です。相当以前のことになりますが、その頃の履歴書に書く趣味のナンバーワンは読書だったそうです。でも、人様に趣味ですと広言出来る読書とは、どの程度のものを指すのでしょうか。
最近では、ウォーキングやジョギングが人気のようですが、それも、ダイエットや健康管理のために必死に頑張っているものも趣味の部類に入るのでしょうか。


そもそも趣味とは何か、例によって広辞苑の力を借りることにしました。
趣味とは、「①感興をさそう状態。おもむき。あじわい。 ②ものごとのあじわいを感じとる力。美的な感覚のもち方。このみ。 ③専門家としてでなく、楽しみとしてする事柄」とあります。
ついでに、よく似た言葉である道楽も調べてみました。
道楽とは、「①本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。 ②ものずき。好事(コウズ)。 ③酒食・ばくちなどの遊興にふけること。放蕩。遊蕩。また、その人」とあります。
道楽という言葉は、最近あまり見かけませんが、こちらの方は、家族に迷惑をかけ、身代を傾けるほどのものでなければ、使ってはいけない言葉です。ちまちまと、懐を気にしているようでは、とても道楽などには値しないと思うのです。但し、これは私見ですが。
趣味も、本来の意味は現在私たちが使っているものとは少し違っています。私たちが趣味として使っているのは、③の意味がほとんどなのです。本当は、「趣味が良い」といった風に①や②の意味も、少しは含まれていなければならないと思うのですが、これもまた私見です。


そこで、私は今、「趣味は何ですか?」と尋ねられますと、堂々と、「園芸です」と答えます。
私の園芸の腕前といえば、時間だけはそこそこ使っていますが、園芸と称している時間の半分は「草抜き作業」です。青菜を植えれば、虫たちの食料供給者として感謝される状態ですし、トマトはダイコン風味だと珍重され、ダイコンは、一休さんでも「小根とはいわない」と言ってくれるかどうか心配な出来栄えです。でも、楽しいのです。土と汗にまみれて、まことに優雅な時間なのです。
そもそも、趣味などというものは、玄人のような腕前というものはその範疇から外れているのです。「趣味の域を超えている」という言葉があるでしょう。あまりの上手は、趣味ではないのです。
また、「趣味に命をかける」とか「趣味が生きがい」というほどのめり込むのもどうかという気がします。道楽の説明にもあるように、スケールの小さな道楽の域に迷い込む恐れがあるから注意が必要です。
趣味とは、たずさわっている時は楽しく、かといって、別の用事があれば簡単に中止することが出来、その手際や出来栄えが平均を超えない程度のもの、そういったものを指すのです。
以上は、全く自分のためだけの定義ですので、反論はご勘弁ください。
「ところで、あなたの趣味は?」

( 2012.08.25 )
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「松・竹・梅」 ・ 小さな小さな物語 ( 429 )

2013-02-06 19:11:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「松竹梅(ショウチクバイ)」となれば、めでたいものの代表ですが、「まつ・たけ・うめ」となりますと、ランク付けなどに使われます。最近は少なくなった感もありますが、食堂のメニューなどでは、例えば、鰻とか、寿司の盛り合わせとか、会席料理などにも付けられることもあります。
「上・中・下」で表してもよいのでしょうが、上と中はともかく、下というのは使い難いらしく、この場合は「特上・上・並」となるのが一般的のようです。


現在放送されているNHKの朝の連続ドラマの主人公の三人きょうだいは、「松・竹・梅」に因んだ名前が付けられていて、主人公の梅子さんが、一番粗末な名前ではないかと悩むシーンがありました。
これは以前にある飲食店の経営者に聞いた話なので、その主人の個人的な意見なのか、一般常識として通じるものなのかは分からないのですが、その主人いわく、「松を注文するお客は大切なカモ、竹を注文する人で採算がとれるようにしている。梅は、注文する人などめったにいないと考えている。来客全部に梅を注文されたりすると、破産してしまう」と。
さて、あなたは普段、何を注文していますか?


食事に限りませんが、一般的には、「松・竹・梅」で注文を取ると、たいていの場合、「竹」が最大の注文を受けるそうです。最近、「松・竹・梅」から「特上・上・並」に移っている傾向があるのは、「竹」より「上」の方が、注文者に優越感を与えるからだとか、聞いたことがあります。
「将来、原子力発電はどうあるべきか」という公聴会が話題になったり、世論調査が行われたりしています。「0%・15%・20~25%」のうちのどれを選択するかというわけです。
原発の要否については、そうそう簡単に判断できるような問題でもありませんし、人気投票のような手段で方針を決めることに反対ですが、どうも政府は、私と同じように前記した飲食店の主人の話を聞いていたらしく、一般大衆は「竹」に集まると読んでいたみたいなのです。つまり、大衆意見は真ん中の「15%」に集約されると考えていたらしいのです。


ところが、多くのデーターは約半数が「0%」を示し、さらに多くの支持を集めているデーター結果もあるようです。特に、公聴会などを開いたあとでは、「0%」支持者が増える傾向にあるそうなのです。
そもそも、飲食店の主人が作戦を練ることも将来の原発政策も重要さにおいては変わらないとしても、「松・竹・梅」の三者択一を原発政策の基本に据えようというのがどうかと思うのです。私には「松竹梅」政策のように見えてしまうのです。
ところで、国民にとっての松とは、「0%」なのでしょうか、「20~25%」なのでしょうか。

( 2012.08.28 )
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技術立国 ・ 小さな小さな物語 ( 430 )

2013-02-06 19:10:26 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
スマートフォンをめぐる米国アップル社と韓国サムスン電子社による訴訟合戦が激しく火花を散らせています。この業界の二大勢力である両社は互いに特許侵害を主張して訴訟となり、その過熱ぶりは、火花を散らす程度ではないようです。このほど米カリフォルニア州連邦地裁はアップル社の全面勝訴に近い決定を出しましたが、最終決着にはまだまだ時間を要しそうです。
それはそれとして、この手の技術はわが国の得意分野ではないのでしょうか。訴訟当事者になるのは歓迎できませんが、こと携帯電話に関しては、わが国のメーカーは独自の発展を遂げ、海外とはまるで別種のような進化を見せたことで世界と互角に戦えなくなったのだという話を聞いたことがあります。
また、最近のシャープ社が苦戦を強いられているという報道は、何とも辛いニュースといえます。


「技術立国」という言葉は、今も死語ではないと思うのですが、上記のニュースはその実現への赤信号に見えてしまいます。
「貿易立国」「観光立国」「農業立国」等々、各国それぞれに国の進むべき方針をこのような言葉で述べることがあります。ただ、わが国程度の国家については、どれか一つのスローガンで国家が運営できるわけではなく、それぞれの分野で相応の競争力に耐えうる水準を保つ必要があると思います。
そして、やはり、それらの中核となる、圧倒的な技術や資源やシステムや、そして何よりも人材を保持し続けることが出来なくては、先進諸国に近い位置付けの国家は保てないと思うのです。


現在わが国は、政治、経済、社会システムなど多くの面で弱体化が目立ってきています。
そのほころびは多方面かつ大きさを増しており、応急手当程度では立ち直れないようです。だから、「何とかの何とかの一体改革」が必要だと主張される方々もいますが、今一番傷んでいるのが政治ですから、その分野の人の頑張り程度では大した効果は出ないことでしょう。ただ、政治に関してはそれほど心配する必要はないように思います。政治は、国民がその気になれば変えることが出来ます、よく言われるように、国民のレベル以上の国家指導者など誕生するはずがないのですから、国民さえしっかりすれば国の政治はよくなるはずなのです。
国のシステムも、政治力と国民のレベルの総和のようなものですから、この二つが向上するだけで済む話なのです。


ただ、経済力というものはそうそう簡単にはいきません。世界の国の中には、その季候風土のために、あるいはあまりにも長く過酷な圧政を受けたために、その他にも理由があるのでしょうが、経済的な発展は極めて困難という国家もあるのです。国民の努力だけでは、最低限の衣食住を確保するのさえ困難な国家があるのです。
その点わが国は、ほんの少しの工夫と努力を惜しまなければ、経済発展の余地はいくらでもあります。
例えば、今直ちに人材と資金を注力すべき分野としては、「海洋資源」「原子力技術」「通貨『円』の積極運用」などがあります。
他にも数多くの施策を列記することも可能ですが、この三分野で飛躍することが出来れば、屈辱的な出来事の半分は抑え込めるはずです。

( 2012.08.31 )
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違憲状態 ・ 小さな小さな物語 ( 431 )

2013-02-06 19:09:27 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
何とも分かり難い「問責決議案」が可決されて、国会は有給休暇状態に入ったそうです。
議員諸氏は、今や国政など語る方がおかしいのであって、各党のリーダー選びに奔走しているようですが、衆議院議員の場合は、奔走しているように見せながら、自らの立ち位置を模索しているという状態なのかもしれません。


「近いうち」が何時なのか知りませんし、あの業界で約束とか信義などという言葉が、辞書に載っているような意味を持っているのかどうか知りませんが、いずれにしても、そう遠くない時期に総選挙は行われることでしょう。
しかし、現在の衆議院議員は、最高裁から「違憲状態で選ばれている議員」と宣告されているのではなかったのではないでしょうか。こんな宣告は、法的には何の意味も持たないのでしょうか。


そもそも、「違憲状態」というのは、どういう意味を持っているのでしょうか。
日本語には、実に便利な言葉が幾つもあります。
「何々的」の「的」などはその代表的なものですが、「何々状態」の「状態」も同様に多くの意味を持っていて、「無視してよいこと」といった意味も持っているのでしょうか。このコラムでも何回か取り上げましたが、「頑張る」という言葉も多くの意味を持っていますし、どうやらこれからは「近いうち」もその仲間入りをする気配です。
ただ、忘れてはならないことは、この種の言葉は、常識的な判断力を持っている人同士で、かつ信頼関係が成り立っている間でのみ有効に働くのだということを忘れてはなりません。


このところ政治にまつわる出来事でフラストレーションのたまる出来事が多いのですが、考えてみれば、「違憲状態で選ばれた衆議院議員」によって政治が行われているのですから、無理ないわけです。
早くこの状態を脱しないといけないのですが、「違憲状態で選ばれた議員」は次の選挙には立候補出来ないのですよね。
えっ? そんな決まりはないのですか・・・。
少なくとも選挙制度を改正しないと次の選挙は無効のはずですが、その改正を「違憲状態で選ばれた議員」が議論するなんてことはないでしょうね。
えっ? その人たちがするんですか・・・。
もう、どうでもいいような気持ちです、全く・・・。

( 2012.09.03 )

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