雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一日も早い回復を

2019-02-12 19:29:25 | 日々これ好日
        『 一日も早い回復を 』

     池江選手が白血病と公表
     ただ ただ 驚いた
     水泳界の至宝だけに 一日も早い復帰を願う声もあるが
     それよりも何よりも 
     一日も早い病気克服を祈りたい
     池江さん頑張れ 医学よ頑張れ

                   ☆☆☆
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さ夜更けて

2019-02-12 08:13:29 | 新古今和歌集を楽しむ
   さ夜更けて 声さへ寒き あしたづは
            幾重の霜か 置きまさるらん


                      作者  道信朝臣

( No.613 巻第六 冬歌 )
             さよふけて こえさへさむき あしたづは
                       いくへのしもか おきまさるらん



* 作者 藤原道信は、藤原北家の貴族であり歌人としても名高い。( 972 - 994 )享年二十三歳。

* 歌意は、「 夜が更けて 鳴く声さえも寒く聞こえるつるは 何重もの霜が 包みかかっているのだろう 」と、霜を浴びている鶴を思いやったものであろう。 なお、「あしたづ」は、葦田鶴で、鶴の異称。

* 作者は、藤原氏の全盛期、そして平安王朝文化が咲き誇ろうとしている時代に、藤原北家の御曹司の一人として誕生した人物である。
父は、太政大臣を務める藤原為光であり、母は、一条摂政藤原伊尹の娘である。
藤原氏の最全盛期を築いた藤原道長の誕生が966年であるから、六年遅れての誕生であるが、道長とは藤原師輔を共通の祖父とする従兄弟同士にあたる。

* 986年、伯父の藤原兼家の養子として元服する。この兼家も摂政関白太政大臣と貴族の頂点に立っているが、道長の実父でもある。つまり、道信は道長と義兄弟でもあるのである。
もっとも、この時代、有力貴族間の権力闘争は壮絶なもので、兄弟間であっても母親が違えば、他人間以上の足の引っ張り合いは珍しくなく、義兄弟であることがどれほど支援を受けられるかは保証の限りではなかった。
それでも、名門の出自に加え養父となった兼家の支援もあってか、道信は元服と同時に、従五位上を受けている。下級貴族であれば、生涯をかけても到達が可能か否かという位階である。

*その後も、左兵衛佐、左近衛少将、そして、991年、二十歳にして左近衛中将と、武官として順調に地位を駆け上って行った。
しかし、994年正月に従四位上に叙されたが、同年七月、当時流行していた天然痘により、病没した。まだ二十三歳であった。

* 道信の名を後世に残すことになったのは、和歌の才能であった。その人柄はおくゆかしく、残されている和歌も、現代人にも比較的分かりやすく、優しさが感じられるような気がする。
歌人としての活躍期間はごく短いものであるが、新古今和歌集には9首が入選しており、勅撰和歌集には全部で49首が選ばれている。その才能は、当時の人々にも高く評価されていたことが窺える。

* 僅か二十三歳(数え年)での夭折は、あまりにも惜しい。貴族として、歌人として、まだまだ飛躍が期待されていたはずである。
道信の和歌は、小倉百人一首にも入選している。最後にご紹介しておくが、その和歌も、若くして世を去らなくてはならなかった無念さが、期せずして加味されているように思えてならないのである。

 『 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな 』

     ☆   ☆   ☆
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堺屋さんの死を悼む

2019-02-11 18:41:11 | 日々これ好日
        『 堺屋さんの死を悼む 』

     堺屋太一さんが亡くなられた
     波乱の学生時代を経て 超エリート
     実に広範囲な分野で活躍されたが
     私たちにも 分かりやすい作品や言葉を残して下さった
     高齢とはいえ 次の大阪万博に 
     多くのヒントを与えてくださるはずだ と思うと 実に残念
     ご冥福をお祈り致します

                       ☆☆☆  
     
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トランプ坊や

2019-02-10 19:16:33 | 日々これ好日
        『 トランプ坊や 』

     先日行われた 米大統領による一般教書演説
     招待されたトランプ少年
     1時間20分にも及ぶ演説に 堪えかねてか 爆睡
     その姿が 米国内のみならず 世界中で話題に
     わが国の報道でいえば 大統領の演説内容より
     トランプ少年の爆睡姿の方が 上回っている感じ
     天真爛漫な姿には かの大統領とて 勝てないようですなあ

                     ☆☆☆
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今昔物語 巻第三 ご案内

2019-02-10 15:10:18 | 今昔物語拾い読み ・ その1
     今昔物語 巻第三 ご案内

「巻第三」は、全体の位置付けから見れば、「天竺」にあたります。
「天竺」に関する作品は、巻第一から巻第五までに収められていて、「巻第三」には釈迦生前から入滅の頃までの説話を中心に構成されています。
本巻も、特に仏教関連の事項に関しては筆者には難解であり、原作そのものにもいくつかの錯誤があると多くの研究者が指摘しているようです。実歴としての史料価値も少なくないと思われますが、本稿では、釈迦にまつわる説話集として楽しんでいただきたいと思います。

     ☆   ☆   ☆
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法を聞く功徳 ・ 今昔物語 ( 3 - 1 )

2019-02-10 15:09:00 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          法を聞く功徳 ・ 今昔物語 ( 1 - 3 ))

今は昔、
天竺の毘舎離城(ビシャリジョゥ・古代インド十六大国の一つ。ここで釈迦入滅後の第二回経典結集が行われた。)の中に浄名居士(ジョゥミョウコジ・居士は、在俗の仏道修業者の称。)という翁がいらっしゃった。
この人が生活されている部屋は、一丈四方(およそ3m四方)であった。ところが、この狭い部屋に、十方(ジュッポウ・・四方(東・西・南・北)と四隅(北東・北西・南東・南西)と上・下を指すが、ここでは、あらゆる世界といった意味。)の諸仏がやって来て集まり、この人のために法をお説きになった。それぞれの仏は数知れないほどの菩薩や聖者を連れて来られて、この方丈の室内をたいそう美しく立派に飾り立てた座席を設けて、三万二千の仏がそれぞれ座席に着かれて法をお説きになった。数多くの聖者もそれぞれ従っており、また、浄名居士も同席されて法をお聞きになった。
それでもなお、室内は十分に余裕があった。これは、浄名居士の不思議な神通力によるものである。それゆえ、釈迦仏は、浄名居士の方丈の部屋を、「十方世界のあらゆる浄土に優る、甚深(ジンジン・奥深く優れていて人知の及ばないさま)不思議の浄土である」とお説きになられた。

また、この居士は、いつも病気で病床に臥しておられた。
すると、文殊菩薩が居士の部屋においでになって、「私が聞くところによると、居士は常に病床に臥していてお苦しみとのこと。いったい、どういう病なのでしょうか」と居士に尋ねると、居士は、「私の病は、すべての衆生たちが煩悩に苦しんでいるのを、わが病としているためです。私には、これ以外の病はありません」と答えた。
文殊菩薩はその答えを聞いて、歓喜してお帰りになった。

また、居士が八十歳余りとなり、歩行が困難になられたが、「仏(釈迦)が法をお説きになる所に参ろう」と思ってお出かけになった。その道のりは四十里(諸説あるが、現在の「里」よりは短い。)である。居士はようやく仏の御許に歩いて詣でて、仏に申し上げた。「私は老いてしまい、歩行も満足に出来なくなりましたが、法を聞くために四十里の道を歩いて参りました。その功徳はどれほどのものでしょうか」と。
仏は居士にお答えになった。「そなたは法を聞くためにやって来た。その功徳は無辺無量(計り知れないほど広大なさま)である。そなたが歩いてきた足跡の土を取って塵となして、その塵の数に相応して、一つの塵に対して一劫(コウ・時間の単位で果てしないほどの時間。)の間、その罪が消滅する。また、命の永きことはその塵と同じである。また、成仏することも疑いない。すなわち、この功徳は量り切れないほどのものである」とお説きになったので、居士は歓喜して帰って行った。
法を聞くために詣でる功徳はこのようなものである、
となむ語り伝へたると也。

     ☆   ☆   ☆


* 最後の部分が、「や」が「也」になっているが、特別な意味はなさそうである。

     ☆   ☆   ☆
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文殊菩薩の誕生 ・ 今昔物語 ( 3 - 2 )

2019-02-10 15:08:06 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          文殊菩薩の誕生・ 今昔物語 ( 3 - 2 )

今は昔、
文殊(モンジュ)は中天竺(チュウテンジク・古代インドの中枢部にあたる)の舎衛国の多羅聚落(タラジュラク・多羅村落といった意味。)の梵徳婆羅門(ボンドクバラモン)という人の子である。その母の右脇からお生れになった。
お生れになった時には、その家ならびに門は、すべて蓮華に満ち溢れた。お体の色は金色にして、天上の童子のようであった。七宝の天蓋で覆われていた。
庭の中には十種の吉祥(キチジョウ・めでたい現象)が現れた。その第一は、天降りて覆へり(意味不詳)。第二は、地中より財宝が湧き出た。第三は、金(コガネ)変じて粟と成る(なぜ吉祥か不詳)。第四は、庭に蓮華が現れた。第五は、光が家の中に満ち溢れた。第六は、鶏が鳳凰を生んだ。第七は、馬が麒麟を生んだ。(鳳凰も麒麟も霊獣として尊ばれた。)第八は、牛が「白ダ」を生んだ(「ダ」は火災の前兆となる凶獣なので、意味不詳)。第九は、猪が豚を生んだ(これもよく分からない)。第十は、牙のある象が現れた(これも意味するところが分からない)。このような瑞相によって、名を文殊と申された。(この部分も、吉祥あるいは瑞相が「文殊」という名前にどう繋がったのかよく分からない。)

やがて、釈迦仏の御弟子となって、全世界の諸仏の力、あらゆる如来の知恵ならびに神通力を修得された。

文殊は釈迦仏にとって九代の師であられる。(過去世において、釈迦の師であったという仏典があるらしいが、筆者未熟でうまく説明できない。)そうとはいえ、釈迦仏が世に出現され、世に二仏が並び立つことはないので、菩薩となって出現なされて、釈迦仏を補佐なさって、無数の衆生を仏道に導かれたのである。
釈迦仏は、末世の衆生の為に宿曜経(スクヨウキョウ)をお説きになって、文殊に後事を託された。文殊はそれをお聞きになって、釈迦入滅された百五十年後に、高山の頂において、その所の仙人のために釈迦仏の教えをお説きになった。
多くの内外典(仏教からの見方で、仏典を内典、それ以外を外典という。)を世に広め、末世の衆生に善悪の因果応報を教えたのは、この文殊菩薩のお力である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 本話には、難解というより、意味不明な部分が多く見られる。おそらく、混入・誤伝・思い違いなどから来ていると推定されるが、それは、今昔物語に収録される時点ですでにその状態にあったらしい。

* 「九代の師」云々という部分であるが、過去世において、文殊が釈迦を導いたという経典があるようで、そのことから、「文殊を諸仏の師」とする経説がある。

     ☆   ☆   ☆
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神通第一の目連 ・ 今昔物語 ( 3 - 3 )

2019-02-10 15:07:14 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          神通第一の目連 ・ 今昔物語 ( 3 - 3 )

今は昔、
仏(釈迦)の御弟子目連尊者(モクレンソンジャ・尊者は仏弟子に対する尊称。)は、神通第一(神通力に最も長じていたという意味。)の御弟子である。
仏の大勢の弟子の比丘に、目連は、「我らの師である仏の御声は、どこでお聞きしても常に同じように、すぐお近くでお聞きしているように聞こえる。そこで私は、神通の力を用いて遥か遠くに行き、仏の時には高く時には低い御声を聞いてみようと思う」と言って、三千大千世界(後述)を飛び過ぎて、さらに西方の、無量無辺不可思議那由他恒河沙(後述)の国土を過ぎてお聞きしたところ、仏の御声は、まったく同じように、すぐお側でお聞きするようであった。

その時、目連は飛び疲れて落ちてしまった。そこは、仏の世界(光明王仏の国土)であった。その仏の弟子の比丘たちが、座って食事の接待を受けていたが、目連はその鉢のふちに飛んできて、しばらく休んでいたが、食事をしていた弟子たちは目連を見て、「この鉢のふちに沙門に似た虫がいますぞ。どういう虫が僧衣を着けて落ちてきたのだろう」と言って、集まっている比丘たちは嘲り笑った。

すると、その国の能化(ノウゲ・師として人を教化する者)の仏は、その様子を見て御弟子の比丘たちに申された。
「お前たちは、愚痴(グチ・仏教語で、愚かで正しい道理を理解できないこと。)なるが故に知らないのだ。この鉢のふちにいるのは虫ではない。ここから東方に向かって、無量無辺の仏の国を過ぎた先に一つの国がある。娑婆世界という。その国に、仏が出現なさった。釈迦牟尼仏(シャカムニブツ・釈迦の尊称)と申される。そこに居るのは、その仏の神通第一の弟子である。名前を目連という。師である釈迦如来の声を聞くに、遠くても近くても同じように聞こえるので、それを疑って、遥かに無量無辺の世界を過ぎてこの国にやって来たのである」とお説きになった。
御弟子たちはこれを聞いて皆歓喜した。目連も、これを聞いて歓喜して本土(娑婆世界を指す)に帰った。
そして、仏の御声の不思議なることを、ますます信仰申し上げ、頂礼(チョウライ・古代インドの最高の敬礼法。尊貴な相手の足もとにひれ伏して、額を地面に付けて礼拝すること。)し奉った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 「三千大千世界(サンゼンダイセンセカイ)」について。ここでは、単に「とてつもなく遠い距離」として受け取れば十分ですが、本来の意味が興味深いので述べておきます。
「古代インドの宇宙観に基づくもので、須弥山を中心に日・月・四大海・四大州・欲界の六天・色界の梵天を含めた広大な範囲を一単位世界とし、それを千集めたものを一小千世界、小千世界を千集めたものを一中千世界、一中千世界を千集めたものを一大千世界とし、それらを総称して、『三千大千世界』という」そうです。要は、想像も及ばない話といえます。

* 「無量無辺不可思議那由他恒河沙」について。これも上記と同様で、とてつもなく長い距離を示しています。
つまり、「無量」も「無辺」も「不可思議那由他」も「恒河沙」のいずれも無限大に近いものとされていて、それらを重ねて強調していることになります。
なお、「不可思議那由他」は、古代インドで無限大を表す那由他(ナユタ)に不可思議を加えて強調しているもので、「恒河沙(ゴウガシャ)」はガンジス川の砂のことで、やはり果てしない数を表しています。

* また、目連が虫のように見られた部分については、目連の身長は一丈三尺(4m程か?)とされているが、この国の仏(光明王仏)の身長は40里、弟子たちの身長は20里あったそうであるから、当時の一里がどの程度であったかはよく分からないが、目連が虫に見えたのも当然といえます。

     ☆   ☆   ☆

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舎利弗の肥満 ・ 今昔物語 ( 3 - 4 )

2019-02-10 15:06:22 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          舎利弗の肥満 ・ 今昔物語 ( 3 - 4 )

今は昔、
天竺の仏の御弟子たちが、あちらこちらで行っていた安吾(アンゴ・インドの雨期である春から夏にかけての約三か月間、僧が一ヶ所で集団生活を送り、外出を控えて修業に専念する行事。)が終わり、仏(釈迦)の御前にお集まりになった時、舎利弗(シャリホツ)と羅睺羅(ラゴラ)も御前に参って左右にお座りになった。
仏は羅睺羅にお尋ねになった。「わが弟子の中では、誰を以って上座(ジョウザ・教団での席次を意味する)とするのだろう」と。羅睺羅はお答えした。「舎利弗を以って上座と致します」と。

すると仏は、この二人をご覧になられたが、舎利弗は肥えていて色が白くて宿徳(シュクトク・修行の年功を積んだ高徳の僧。)であり、羅睺羅は痩せていて色が黒く骨が浮き出ている。
仏は二人を見て仰せられた。「どういうわけで、わが弟子の中で舎利弗は肥えているのか」と。
羅睺羅はお答えになった。「舎利弗は智恵が優れていて、国じゅうの貴きも賤しきもこの人を師としています。それで、美味で珍しい食べ物を持ってきます。それゆえに肥えているのです。しかし、羅睺羅はそうではありません。それゆえに痩せているのです」と。
仏は仰せになられた。「我が法(戒律)の中には蘇油(ソユ・チーズ状の食べ物らしい。大変美味とされた。)を食べることを許していない。どうして、舎利弗は肥えたのか」と。
舎利弗はこれを聞いて、心穏やかにはいられなくなり、身を隠した。

その後、国王・大臣・長者・諸官などが舎利弗の所に参って贈り物をしようとしたが、どうしても受け取ろうとしない。そこで、国王・大臣・長者・諸官たちが挙って仏の御許に参って申し上げた。「仏よ、願わくば舎利弗をお召しになって、『我らの招待を受けるように』とご指導してください。どうしてかと申しますと、大師(釈迦に対する尊称)は我らの招待はお受けになられません。その上、舎利弗まで我らの招待を受けないとなれば、我らは、誰をもって師として仏事を勤めればよいのでしょうか」と。

仏は、集まった人たちに仰せられた。「舎利弗は、前世において毒蛇であった。そのため、前世の習性が残っているので、今、私が言うことを聞いて反抗しているのだろう」と。そして、すぐに舎利弗を召して、「お前は、速やかに人々の招待を受けて、仏道のための師となるのだ」と仰せになられた。
そこで舎利弗は、仏の教えに従って、国じゅうの諸々の人の招きを受け入れて仏事を行うことを、以前のようになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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神通力を競う ・ 今昔物語 ( 3 - 5 )

2019-02-10 15:05:39 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          神通力を競う ・ 今昔物語 ( 3 - 5 )

今は昔、
仏(釈迦)が祇園精舎においでになられた時、多くの御弟子たちがお集まりになったが、舎利弗(シャリホツ)は未だおいでなっていなかった。
その時、仏は目連(モクレン)に仰せになられた。「目連よ、速やかに舎利弗の所に行って、連れてきなさい」と。
目連は仏の仰せに従って、舎利弗の所に行き仏の御言葉を告げたが、舎利弗は僧衣を繕っていた。帯を解いて地面に置いていた。

舎利弗は目連に言った。「お前は神通第一の人である。地面に置いてある私の帯を動かせてみよ」と。
そこで目連は、神通力を奮ってこの帯を動かそうとしたが、ほんの少しも動かない。須弥山は震え大地は振動したが、どうしてもこの帯は動かないままであった。
また、舎利弗は目連に言った。「お前は速やかに先に行きなさい。私は後から参るので」と。
そこで目連は、仏の御許に帰参したが、そこには舎利弗が威儀を正して仏の御前に伺候していたのである。目連は不思議なことだと思いながらも、特に問い質すことはなかった。
これによって目連は、「自分は神通第一と言われているが、舎利弗の方が勝っているのだ」ということを知った。
然れば、智恵第一といわれる舎利弗は、智恵・神通ともに第一の人なのである。

仏の御弟子たちも、このように競い合いをされたのである。まして。仏法が衰退した末世においては、僧などが智恵や験力を競い合うのは当然のことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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