古来の街道が交差する八木札の辻界隅。
東西が横大路で南北は下ツ道になる。
格子や2階のむしこ窓が見られる町家の景観は歴史的な町並みを形成している。
注視すれば屋根の上にある煙出しや2階の袖壁も目につく。
そういった伝統的な町家が並ぶ街道は生活道路。
通り抜ける車も少なくない。
8月23日から3日間、その下ツ道の街道沿いで愛宕祭の祠が祀られている。
建物景観は普段(ケ)の姿が消えてハレ(祭り)に転じた。
街道には夜店がずらり。
親子連れや子供たちが往来し、賑やかなハレの界隈を見せる。
北の端から南へ約1km。
途中には近鉄線とJR線の踏切がある。
そのJR線を境に北側を北八木、南側は南八木の町に分かれる。
旧地名が高愛(こうあい)町と呼ばれていた北八木町3丁目は北の端。
愛宕神社の開扉を待っていた老婦人。
笹竹を立てた左隣りの小屋には愛宕祭の催しである立山(たてやま)が造られた。
それが楽しみで腰掛けて待っていた。
今年の造り山は大河ドラマを反映して龍馬の立ち姿だ。
今まさに舟に乗ろうとする映像が小屋に現れた。
遠近感のある大海原。
「この絵はうちの嫁が書いたのです」と話した。
祠と思われる神社には提灯を掲げ、神饌などを供えて「阿太古祀符火迺要慎」と書かれたお札や愛宕大神の掛け軸を祀っている。
中世以来、戦火に巻き込まれてきた八木は、火事に見舞われないように火防(ひぶせ)の神さんとして崇められた京都の愛宕さんを信仰してきた。
近世江戸時代は火事が多くなり町家庶民に信仰が広まった。
県下、各地域に愛宕さんを信仰する愛宕講が存在する。
それは数軒規模ではなく地域ぐるみとして行われていると思われる。
少ない事例だが、見聞きしたそれらはすべて地域ぐるみだった。
1軒の火事は風に煽られて類焼、そして大火となれば町を焼き尽くす。そんな被害を受けたくないから愛宕さんにすがった。ということではないだろうか。
地域に根付く愛宕信仰は十数軒ごとの隣組で組織された愛宕講で営まれる八木の町。
初日の23日はそれぞれの神社(祠)で神事が執り行われる。
昭和31(1956)年、橿原市制が施行され新しい歴史を歩み始めた。
平成18年には50周年を迎えた市だ。
およそ50年前、衰退していた八木の愛宕祭を盛り返そうと市が立山のコンクールをしたそうだ。
旧町ごとに造っていた。
市の補助金もでたらしく、競い合って造ったそうだ。
特に北八木は賑やかだったのだと話す役員たち。
今は文化会館になっているが元は中学校。
そのころは商工会も協賛し、文化会館になっても盆踊りには大勢が踊っていた。
平成の初めのころ、突如として事件が起こった。
バイクに乗ったカミナリ族がやってきて交番が襲撃された。
警察は検挙に走った。
「それからだ。急激に衰えてしまって、現在はたったの1カ所になった」と話す旧高愛町の祭り役員たち。
田原本町の祇園祭で数カ所の立山が飾られている。
それは八木の立山の造り山をモデルにして造ったものだと田原本町に住む住民から聞いた。
時代はといえば戦後のことだ。
フジヤマのトビウオで名高い古橋選手。
ラジオから流れてきた日本でロンドンオリンピック(1948年)と同時並行で行われた日本選手権。
あたかもオリンピックに選手として出場している様子になった実況放送があった昭和23年のことだとMさんは話す。
JR線を越えて下ツ道を南下した。
中之山町では二つの造り山が飾られていた。
ひとつは動きも工夫した四神降臨。
龍が口を開けて大きく睨む。
夕陽が差し込み赤く染まる朱雀。
白虎は大人しいが、玄武はくねくねと左右に首を振る。
舞台裏は廃車の自転車。
自慢の作品はそこを見て欲しいと言われた。
もうひとつは2010ワールドカップサッカー競技場だ。
札の辻を西に行った柳町の造りものは平城遷都祭を舞台にした。
復元された大極殿が威容を誇る。
工夫を凝らした立山に見入る人も多いなか愛宕さんにお参りする人も少なくない。
さて祠はといえばだ。
JR線を越える直前の家屋。
ガレージの奥に祀られていた祭壇に特徴あるオソナエが目に入った。
ユバを背にコーヤドーフや野菜を串刺ししたお供えだ。
線路を越えた街道の外れ。
新しい祠のなかには飾り付けが見事なオソナエがある。
提灯には南八木町3丁目の春日会とある。
掛け軸は愛宕さんでなく天照皇大神だ。
再び街道を南下した。
風格のあるむしこ窓の町家。
笹竹を立てた格子窓の向こうに灯りが見える。
愛宕さんの祭壇には大きなズイキ。
その前はやはり串にさした野菜のオソナエ。
これをゴゼンと呼んでいる。
漢字を充てれば御膳であろうか。
旧地名が北三木町と呼ばれていた南八木町2丁目だ。
M家の奥さんの話では10軒で愛宕講を営んでいるという。
おばあちゃんから引き継いで祀っている愛宕さん。
当番の人は代参参りしてお札をもらってくる。
笹を手に入れるのが難しくなったと話すMさん。
町内では愛宕祭を終えた翌日の26日にもお祭りがあるという。
それは風日待ちだという。
愛宕祭を同じようにお供えもする。
コンブ、スルメの神饌は必須。
横向きの笹竹だけがないだけでほとんど同じ様そうらしい。
ただし祭神はアマテラスノカミの掛け軸に替わる。
これが終わるまでは夏が終わらないという。
線路際に祀られていたのはまさしく風日待ちオソナエである。
線路から南は古くは南木(みなぎ)町と呼ばれていた。
この筋だけでも4カ所でゴゼンが供えられていた。
そのうちのひとつは下駄屋さん。
大きな下駄はシンボルのように目立っている。
すべてを見たわけではないので断定はできないが、北と南の様そうが異なる。
何らかの事情があったのだろうか。
ゴゼンの形式は寺会式で供えられる造りもののお供えとよく似ている。
八木愛宕神社では縁日も出されている。
お札を拝受する神社でもある。
帰りの道は下ツ道より西へ一筋向こうを巡った。
家の軒先に提灯を点して祀られた祠が点在していた。
ここでも数か所でゴゼンを供えていた。
(H22. 8.24 EOS40D撮影)
東西が横大路で南北は下ツ道になる。
格子や2階のむしこ窓が見られる町家の景観は歴史的な町並みを形成している。
注視すれば屋根の上にある煙出しや2階の袖壁も目につく。
そういった伝統的な町家が並ぶ街道は生活道路。
通り抜ける車も少なくない。
8月23日から3日間、その下ツ道の街道沿いで愛宕祭の祠が祀られている。
建物景観は普段(ケ)の姿が消えてハレ(祭り)に転じた。
街道には夜店がずらり。
親子連れや子供たちが往来し、賑やかなハレの界隈を見せる。
北の端から南へ約1km。
途中には近鉄線とJR線の踏切がある。
そのJR線を境に北側を北八木、南側は南八木の町に分かれる。
旧地名が高愛(こうあい)町と呼ばれていた北八木町3丁目は北の端。
愛宕神社の開扉を待っていた老婦人。
笹竹を立てた左隣りの小屋には愛宕祭の催しである立山(たてやま)が造られた。
それが楽しみで腰掛けて待っていた。
今年の造り山は大河ドラマを反映して龍馬の立ち姿だ。
今まさに舟に乗ろうとする映像が小屋に現れた。
遠近感のある大海原。
「この絵はうちの嫁が書いたのです」と話した。
祠と思われる神社には提灯を掲げ、神饌などを供えて「阿太古祀符火迺要慎」と書かれたお札や愛宕大神の掛け軸を祀っている。
中世以来、戦火に巻き込まれてきた八木は、火事に見舞われないように火防(ひぶせ)の神さんとして崇められた京都の愛宕さんを信仰してきた。
近世江戸時代は火事が多くなり町家庶民に信仰が広まった。
県下、各地域に愛宕さんを信仰する愛宕講が存在する。
それは数軒規模ではなく地域ぐるみとして行われていると思われる。
少ない事例だが、見聞きしたそれらはすべて地域ぐるみだった。
1軒の火事は風に煽られて類焼、そして大火となれば町を焼き尽くす。そんな被害を受けたくないから愛宕さんにすがった。ということではないだろうか。
地域に根付く愛宕信仰は十数軒ごとの隣組で組織された愛宕講で営まれる八木の町。
初日の23日はそれぞれの神社(祠)で神事が執り行われる。
昭和31(1956)年、橿原市制が施行され新しい歴史を歩み始めた。
平成18年には50周年を迎えた市だ。
およそ50年前、衰退していた八木の愛宕祭を盛り返そうと市が立山のコンクールをしたそうだ。
旧町ごとに造っていた。
市の補助金もでたらしく、競い合って造ったそうだ。
特に北八木は賑やかだったのだと話す役員たち。
今は文化会館になっているが元は中学校。
そのころは商工会も協賛し、文化会館になっても盆踊りには大勢が踊っていた。
平成の初めのころ、突如として事件が起こった。
バイクに乗ったカミナリ族がやってきて交番が襲撃された。
警察は検挙に走った。
「それからだ。急激に衰えてしまって、現在はたったの1カ所になった」と話す旧高愛町の祭り役員たち。
田原本町の祇園祭で数カ所の立山が飾られている。
それは八木の立山の造り山をモデルにして造ったものだと田原本町に住む住民から聞いた。
時代はといえば戦後のことだ。
フジヤマのトビウオで名高い古橋選手。
ラジオから流れてきた日本でロンドンオリンピック(1948年)と同時並行で行われた日本選手権。
あたかもオリンピックに選手として出場している様子になった実況放送があった昭和23年のことだとMさんは話す。
JR線を越えて下ツ道を南下した。
中之山町では二つの造り山が飾られていた。
ひとつは動きも工夫した四神降臨。
龍が口を開けて大きく睨む。
夕陽が差し込み赤く染まる朱雀。
白虎は大人しいが、玄武はくねくねと左右に首を振る。
舞台裏は廃車の自転車。
自慢の作品はそこを見て欲しいと言われた。
もうひとつは2010ワールドカップサッカー競技場だ。
札の辻を西に行った柳町の造りものは平城遷都祭を舞台にした。
復元された大極殿が威容を誇る。
工夫を凝らした立山に見入る人も多いなか愛宕さんにお参りする人も少なくない。
さて祠はといえばだ。
JR線を越える直前の家屋。
ガレージの奥に祀られていた祭壇に特徴あるオソナエが目に入った。
ユバを背にコーヤドーフや野菜を串刺ししたお供えだ。
線路を越えた街道の外れ。
新しい祠のなかには飾り付けが見事なオソナエがある。
提灯には南八木町3丁目の春日会とある。
掛け軸は愛宕さんでなく天照皇大神だ。
再び街道を南下した。
風格のあるむしこ窓の町家。
笹竹を立てた格子窓の向こうに灯りが見える。
愛宕さんの祭壇には大きなズイキ。
その前はやはり串にさした野菜のオソナエ。
これをゴゼンと呼んでいる。
漢字を充てれば御膳であろうか。
旧地名が北三木町と呼ばれていた南八木町2丁目だ。
M家の奥さんの話では10軒で愛宕講を営んでいるという。
おばあちゃんから引き継いで祀っている愛宕さん。
当番の人は代参参りしてお札をもらってくる。
笹を手に入れるのが難しくなったと話すMさん。
町内では愛宕祭を終えた翌日の26日にもお祭りがあるという。
それは風日待ちだという。
愛宕祭を同じようにお供えもする。
コンブ、スルメの神饌は必須。
横向きの笹竹だけがないだけでほとんど同じ様そうらしい。
ただし祭神はアマテラスノカミの掛け軸に替わる。
これが終わるまでは夏が終わらないという。
線路際に祀られていたのはまさしく風日待ちオソナエである。
線路から南は古くは南木(みなぎ)町と呼ばれていた。
この筋だけでも4カ所でゴゼンが供えられていた。
そのうちのひとつは下駄屋さん。
大きな下駄はシンボルのように目立っている。
すべてを見たわけではないので断定はできないが、北と南の様そうが異なる。
何らかの事情があったのだろうか。
ゴゼンの形式は寺会式で供えられる造りもののお供えとよく似ている。
八木愛宕神社では縁日も出されている。
お札を拝受する神社でもある。
帰りの道は下ツ道より西へ一筋向こうを巡った。
家の軒先に提灯を点して祀られた祠が点在していた。
ここでも数か所でゴゼンを供えていた。
(H22. 8.24 EOS40D撮影)