山添村北野の在所の一つに津越(つごえ)がある。
大正二年までは京都石清水八幡宮から分霊を賜った八幡神社があった。
廃校となった北野小学校の裏の山の中だったそうだ。
神社は北野の美統(みすまる)神社に合祀された。
その記録である津越組の八幡参宮講人名帳が残されている。
それによると石清水八幡宮で神符札を授かってくる代参の人の名が記されている。
一回目が大正八年一月をはじめにその後も毎年のごとく代参者が決められていることが記されている。
その代参参りをする人は1月5日に行われる西村(津越と腰越)の初祈祷の日に、茶碗に入れられたコヨリ籤を振り上げるフリアゲ神事によって決められている。
現在の津越は11軒。
年中行事は形式を維持しつつ現在もなお続けられてきた。
朝早くから二人の年預が八幡宮の提灯をぶら下げた薬師堂に集まってきた。
昼から氏子たちが召される八幡祭の京の飯作りだ。
京の飯と呼ばれる御供メシは一軒につき八合と決められていた。
八幡さんの祭りやさかいといって数字は八。
とてもじゃないが食べきれないと意見がでて、最近は五合になった。
五升半のメシは大釜で炊きあげる。
それができたら昔から使われている桝に入れて押しメシにする。
形は真四角だ。
その上には茶碗によそったメシを積み上げる。
丸と四角の二段のメシになった。
「キョウ」のメシと呼ばれている。
石清水の八幡さんを祭っているので「京」の字が充てられている。
四角い押しメシは下田鹿島神社のカクメシ、長引八王神社のキョウメシ(ツノメシ)、下永東・西城のスシメシ、箸中ノグチサンのツノメシ、新泉子供頭屋の押しご飯などを拝見したことはあるが、二段構造は拝見したことがなく珍しい形であろう。
なぜにこのような形になったのかは未だに判らないと氏子たちは話す。
一方ではキョウの膳に添えられるクルミを作っていく。
炊事場は年預の奥さんが任された。
十丁のコンニャクは短冊切り。
袋入り30gのヒジキのアラメは八袋。予め水で戻しておく。
豆は大豆だ。水に浸したものを鍋で茹でる。
大量の豆はミキサーで挽いていく。
昔は石臼で挽いていたのであろう。
現代の機械でも少しずつしかできない。
おばあちゃんから「大豆は炊きすぎてもあかん。少し固めでないとあかん」と、やいやい言われたことを思い出した奥さん。「その塩梅が難しいんよ」と話しながらミキサーを挽いている。
コンニャクとヒジキは醤油、砂糖、味醂で味付けする。
それを挽いた豆と和えるのだ。
クルミ和えと呼んでいる料理は二種類作る。
一つは豆とコンニャク。
もう一つはヒジキと豆のクルミ和え。豆そのものの味がぷうんと香る。
味は薄めで「これでいいのだ」と年預は肯いた。
添え物はもう一品あって、ヒジキそのものである。
これらは氏子たちが家から持ってきた膳に盛られるのだ。
形大きさは違えども料理の膳は同じだ。
一つ一つ丁寧に膳に盛る。
本来は京の飯にきな粉が塗されるのだが、味を好まない注文が増えたことから袋入りになった。
面倒だが少しずつ袋に入れる年預。
4、5年に一回は回ってくる。
「前回の支度は忘れてしまうなあ」と話しながら作っていった。
およそ3時間半もかかった京の膳作り。
六粒の大豆を膳脇に置いてできあがった。
昼の時間をとることも難しく僅かな時間をこさえて腹ごしらえした4人。
席に岩清水八幡から授かった神符を添えて支度が調った。
丁度そのころに氏子たちがやってきた。
阿弥陀さんや十二神将などが整然と並ぶ横の祠は薬師如来。
寛政七年に新調された斗帳の幕を開けて八幡さんと同じように京の膳を供えられた。
傍らにはフシの木で作った長短二膳の箸が添えられる。
神さん仏さんにも食べてもらう御供さんだ。
始めましょうかの合図で一同は八幡さんに向かって座る。
祝詞を奏上するのは神道の家の人。
祓えの詞を述べて拝礼する。
神事はしごく簡単に終わった。
早速始まった京の膳喰い。
ビールサーバーから注がれた生ビールに乾杯。
酒も飲んで賑やかな宴になった。
昨晩は八幡さんの宵宮。この夜もたらふく飲んだが今日も飲む。
一般的には神事後の直会だが津越の八幡祭は京の膳が主役のような気がする。
合祀される前から行われていたかどうか定かでないが、たらふく食べることに意味があったのではないだろうか。
適度な時間が過ぎて宴もたけなわ。
長老が汁を出せと言われてからナスのすまし汁が運ばれる。
そのころには供えられた京の飯は御供(ごく)さんだと言って配膳される。
自分の膳の京の飯は箸をつけることもなく持って帰るそうだ。
時代を引き継ぐ息子たちはこの伝統行事を引き継いでくれるだろうかと語られた。
(H22. 9.12 EOS40D撮影)
大正二年までは京都石清水八幡宮から分霊を賜った八幡神社があった。
廃校となった北野小学校の裏の山の中だったそうだ。
神社は北野の美統(みすまる)神社に合祀された。
その記録である津越組の八幡参宮講人名帳が残されている。
それによると石清水八幡宮で神符札を授かってくる代参の人の名が記されている。
一回目が大正八年一月をはじめにその後も毎年のごとく代参者が決められていることが記されている。
その代参参りをする人は1月5日に行われる西村(津越と腰越)の初祈祷の日に、茶碗に入れられたコヨリ籤を振り上げるフリアゲ神事によって決められている。
現在の津越は11軒。
年中行事は形式を維持しつつ現在もなお続けられてきた。
朝早くから二人の年預が八幡宮の提灯をぶら下げた薬師堂に集まってきた。
昼から氏子たちが召される八幡祭の京の飯作りだ。
京の飯と呼ばれる御供メシは一軒につき八合と決められていた。
八幡さんの祭りやさかいといって数字は八。
とてもじゃないが食べきれないと意見がでて、最近は五合になった。
五升半のメシは大釜で炊きあげる。
それができたら昔から使われている桝に入れて押しメシにする。
形は真四角だ。
その上には茶碗によそったメシを積み上げる。
丸と四角の二段のメシになった。
「キョウ」のメシと呼ばれている。
石清水の八幡さんを祭っているので「京」の字が充てられている。
四角い押しメシは下田鹿島神社のカクメシ、長引八王神社のキョウメシ(ツノメシ)、下永東・西城のスシメシ、箸中ノグチサンのツノメシ、新泉子供頭屋の押しご飯などを拝見したことはあるが、二段構造は拝見したことがなく珍しい形であろう。
なぜにこのような形になったのかは未だに判らないと氏子たちは話す。
一方ではキョウの膳に添えられるクルミを作っていく。
炊事場は年預の奥さんが任された。
十丁のコンニャクは短冊切り。
袋入り30gのヒジキのアラメは八袋。予め水で戻しておく。
豆は大豆だ。水に浸したものを鍋で茹でる。
大量の豆はミキサーで挽いていく。
昔は石臼で挽いていたのであろう。
現代の機械でも少しずつしかできない。
おばあちゃんから「大豆は炊きすぎてもあかん。少し固めでないとあかん」と、やいやい言われたことを思い出した奥さん。「その塩梅が難しいんよ」と話しながらミキサーを挽いている。
コンニャクとヒジキは醤油、砂糖、味醂で味付けする。
それを挽いた豆と和えるのだ。
クルミ和えと呼んでいる料理は二種類作る。
一つは豆とコンニャク。
もう一つはヒジキと豆のクルミ和え。豆そのものの味がぷうんと香る。
味は薄めで「これでいいのだ」と年預は肯いた。
添え物はもう一品あって、ヒジキそのものである。
これらは氏子たちが家から持ってきた膳に盛られるのだ。
形大きさは違えども料理の膳は同じだ。
一つ一つ丁寧に膳に盛る。
本来は京の飯にきな粉が塗されるのだが、味を好まない注文が増えたことから袋入りになった。
面倒だが少しずつ袋に入れる年預。
4、5年に一回は回ってくる。
「前回の支度は忘れてしまうなあ」と話しながら作っていった。
およそ3時間半もかかった京の膳作り。
六粒の大豆を膳脇に置いてできあがった。
昼の時間をとることも難しく僅かな時間をこさえて腹ごしらえした4人。
席に岩清水八幡から授かった神符を添えて支度が調った。
丁度そのころに氏子たちがやってきた。
阿弥陀さんや十二神将などが整然と並ぶ横の祠は薬師如来。
寛政七年に新調された斗帳の幕を開けて八幡さんと同じように京の膳を供えられた。
傍らにはフシの木で作った長短二膳の箸が添えられる。
神さん仏さんにも食べてもらう御供さんだ。
始めましょうかの合図で一同は八幡さんに向かって座る。
祝詞を奏上するのは神道の家の人。
祓えの詞を述べて拝礼する。
神事はしごく簡単に終わった。
早速始まった京の膳喰い。
ビールサーバーから注がれた生ビールに乾杯。
酒も飲んで賑やかな宴になった。
昨晩は八幡さんの宵宮。この夜もたらふく飲んだが今日も飲む。
一般的には神事後の直会だが津越の八幡祭は京の膳が主役のような気がする。
合祀される前から行われていたかどうか定かでないが、たらふく食べることに意味があったのではないだろうか。
適度な時間が過ぎて宴もたけなわ。
長老が汁を出せと言われてからナスのすまし汁が運ばれる。
そのころには供えられた京の飯は御供(ごく)さんだと言って配膳される。
自分の膳の京の飯は箸をつけることもなく持って帰るそうだ。
時代を引き継ぐ息子たちはこの伝統行事を引き継いでくれるだろうかと語られた。
(H22. 9.12 EOS40D撮影)