マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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本郷薬師さんの数珠繰り

2010年10月22日 07時35分29秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
宇陀市の本郷といえば、特に名高い又兵衛桜を誇る景勝地だ。

その桜の地から奥の山を登りつめた山麓に山寺とおぼしき薬師寺が建つ。

稲刈りが始まっている段々畑を抜けて登る山道は急勾配だ。

集落を過ぎれば杉木立に囲まれた地帯に入り込む。

道はさらに急勾配になった。

この山道は集落の墓地へ行くための地区の道路であることから、道路維持の観点から通過するには使用料が伴う。

その墓地の真上は開けた土地。

狭い境内には似つかないほどの大きな堂宇。それが薬師寺であった。

標高は630mにもなるという薬師山だ。

周囲にある山で一番高い山は経ヶ塚山で標高880m。まだ低いほうだという。

早朝から集まってきた地区の人たち。

道返寺(どうへんじ)垣内の7人だ。

本堂に着くとまずは鉦打ちだ。呼び出しの鉦は2回打つ。

祭壇にお米や塩、季節の野菜を供えた。

お花は種から栽培したケト(ケイトウ)やシオンなど。

秋の彩りを添えて飾られた本尊の石仏薬師如来が微笑む。

脇侍は日光、月光。ともに石仏である。さらに十二神将が並んで立つ。



一方、もう一人の長老は墓石に付近にあったシキビの枝葉を墓前に飾った。

なんでも後藤又兵衛の墓であると伝えられている墓だ。

墓石には延享2年(1745年)8月と刻まれていた。

その名は薬師寺の中興であろう。開基水貝五代俊(友)氏とある。

とすればだ。関ヶ原で戦い、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で敗れた後藤又兵衛の時代ではなくその後になる。

それも130年も経過した後になる。

伝説の墓は他にあるのだろうか。

本堂の前には燈籠がある。

そこには宝暦5年(1755年)が刻まれている。墓石建立の10年後だ。

薬師さんの数珠繰りの営みは導師を勤める長老のお念仏で行われる。

線香をくゆらして灯明に火が点けられた。

導師の周りに座った村の人たち。



「始めましょう」の合図に導師はお念仏(しんどんがん)を唱えだした。

地区の安穏や五穀豊穣を祈るお念仏だ。

融通念仏、なむまみだぶー、なむあみだぶつと身体堅固、無病息災を願う。

次は般若心経だ。

木魚を叩いて唱える念仏は堂内の空間を響かせる。



そして始まった数珠繰り。

導師の座る席は中央。その周りを円座になって座る。

鉦が叩かれお念仏が唱えられた。

数珠を繰る回りは左回転。なんまいだーと数珠を繰る。

大珠が目の前に現れると頭を下げる。

数珠繰りは12回転される。

数取りはマッチ棒だ。

一年が健康でおられるよう併せて五穀豊穣を願った。

それが終われば数珠を束ねて身体の患部をなでてもらう。

「私はここを頼むで」といって肩や腰、足などを数珠でさすってもらった。

直会といえば供えたカップラーメンをよばれる。

先日の12日に行われた十二薬師さんも同じだったそうだ。

(H22. 9.15 EOS40D撮影)