1月14日の明くる日がどんどだという。
その朝早くどんどで燃やした灰を田んぼに持っていく。
その際に「ホイ、ホイ、ホイ」と言って灰を撒くそうだ。
灰は三つかみ。正確に言えば「ホイ」と言って畑の隅に一回撒く。
次も「ホイ」と言って撒く。
これを三連続一挙にするから「ホイ、ホイ、ホイ」とお囃子のように聞こえる。
ただ、実際には「撒く」という行為は「盛る」の様そうらしい。
どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。
それで夕ご飯を炊いた。
ぜんざいのようなおかゆだそうでモチを入れるという。
アズキ粥というから小豆も入っているお粥。
そのアズキ粥は柿の木が二股になった処に置く。
そこにナタで傷を付ける切り口。
そうして興味深い言葉を発する。
「なるか、ならんか」と言えば「なります、なります」と答える。
「ならぬ」という答えはないそうだ。
アズキ粥を切り口に置くのは消毒なのだと話される行為はとても不思議なものであるが昔のことだと言った。
また、ある家ではアズキ粥を食べる箸が一風変わっているそうだ。
枯れたカヤを刈ってきてそれを箸にするのだという。
これは現在でも家の作法として継承されていると語る婦人。
15日の朝にお粥に小さなモチを入れてカヤの箸でよばれるようだ。
なお家の庭に植えていた柿の木の品種はフユガキだそうだ。
9月から10月にかけて行っていたのがイモ名月、クリ名月、マメ名月。イモ名月は中秋の名月の日。
ズイキイモの皮を剥いだものを12個供える。
三方に載せてススキやハギを添える。
これは各家でしているという。
その夜はイモたばりをしていた。
子供がよその家に行って盗ってくる風習だ。
子供もおらんので盗られることがないという。
マメ名月に供えるのは枝付きの茹でたエダマメだ。
旧暦の名月にはそれらの風習が残されているようだ。
昔はあったと話されたのがヒナアラシ。
3月3日だったと思い出されたヒナアラシの風習。
ヨモギで作ったヒシモチ。
炒ったキリコモチを添えていた。
それを盗りにくるさかいに置いていたという。
女の子の楽しみやったヒナアラシにはセリのおひたしもあったそうだ。
山の神もある垣内の行事。
それは11月7日やったという人と1月7日だという人とに別れた。
1月の人は山の仕事の休みで山に入ったらあかん日だと言った。
川上村だと思うと前置きして話した。
そこは注連縄を張ってカマやナタを飾っているという。
東吉野村のことであろうか。
それならば拝見したことがある。
川上村にも現存しているなら調査しなければならない。
もう一人の男性は11月派。
山の神は家の近くにある石だそうだ。
洗い米や塩、野菜などを供える。
そこに細い竹を筒にしたカケゴを供えるという。
カケゴの竹筒は二つ。
その間は細く切って折り曲げている。
形状から推察するには柳生で行われている形と同じのようである。
カケゴはもうひとつある。
藁束を編んで後ろの一方をぐるりと反転させる。
その中にはジャコを入れておく。
陽があがる頃といえば時間は早い。
その供えものを作ったらカヤの木に引っかけるそうだ。
藁束は吉野町小名で祭られたホデと同じであろう。
木に掛ける行為は各地の山の神で行われるおなじみの様そうと思われる。
青面金剛童子像が描かれている掛け図がある。
それを掲げて三ヶ月に一回拝んでいたのは昔のこと。
以前は9軒で営んでいたそうだ。
1軒は下に降りたので今は8軒。
庚申の日だった。
閏年のときは般若心経を唱えて数珠繰りをしているという。
念仏講では阿弥陀さんの来迎図もある。
これは女性だけで営まれている。
当番の家の営みなので立ち入ることはできない。
薬師寺からさらに登ったところに行者さんや大日さんがある。
標高700mの西山岳にあたるそうだ。
龍王神社は池を濁したら雨が降ると伝えられている。
14、5年前のことだと思い出された雨乞い。
田んぼの水がすけないときに太鼓や鉦を叩いて登って雨乞いをしたそうだ。
その山が経ヶ塚山だという。標高880mの高い山だ。
大和ご回在は毎年10月14日(10時)だそうだ。
また、実家の関戸(せきど)では地蔵盆のときに石仏の地蔵さんを抱えて遊んだという。
シカのアジゴハンを作って。
(H22. 9.15 EOS40D撮影)
その朝早くどんどで燃やした灰を田んぼに持っていく。
その際に「ホイ、ホイ、ホイ」と言って灰を撒くそうだ。
灰は三つかみ。正確に言えば「ホイ」と言って畑の隅に一回撒く。
次も「ホイ」と言って撒く。
これを三連続一挙にするから「ホイ、ホイ、ホイ」とお囃子のように聞こえる。
ただ、実際には「撒く」という行為は「盛る」の様そうらしい。
どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。
それで夕ご飯を炊いた。
ぜんざいのようなおかゆだそうでモチを入れるという。
アズキ粥というから小豆も入っているお粥。
そのアズキ粥は柿の木が二股になった処に置く。
そこにナタで傷を付ける切り口。
そうして興味深い言葉を発する。
「なるか、ならんか」と言えば「なります、なります」と答える。
「ならぬ」という答えはないそうだ。
アズキ粥を切り口に置くのは消毒なのだと話される行為はとても不思議なものであるが昔のことだと言った。
また、ある家ではアズキ粥を食べる箸が一風変わっているそうだ。
枯れたカヤを刈ってきてそれを箸にするのだという。
これは現在でも家の作法として継承されていると語る婦人。
15日の朝にお粥に小さなモチを入れてカヤの箸でよばれるようだ。
なお家の庭に植えていた柿の木の品種はフユガキだそうだ。
9月から10月にかけて行っていたのがイモ名月、クリ名月、マメ名月。イモ名月は中秋の名月の日。
ズイキイモの皮を剥いだものを12個供える。
三方に載せてススキやハギを添える。
これは各家でしているという。
その夜はイモたばりをしていた。
子供がよその家に行って盗ってくる風習だ。
子供もおらんので盗られることがないという。
マメ名月に供えるのは枝付きの茹でたエダマメだ。
旧暦の名月にはそれらの風習が残されているようだ。
昔はあったと話されたのがヒナアラシ。
3月3日だったと思い出されたヒナアラシの風習。
ヨモギで作ったヒシモチ。
炒ったキリコモチを添えていた。
それを盗りにくるさかいに置いていたという。
女の子の楽しみやったヒナアラシにはセリのおひたしもあったそうだ。
山の神もある垣内の行事。
それは11月7日やったという人と1月7日だという人とに別れた。
1月の人は山の仕事の休みで山に入ったらあかん日だと言った。
川上村だと思うと前置きして話した。
そこは注連縄を張ってカマやナタを飾っているという。
東吉野村のことであろうか。
それならば拝見したことがある。
川上村にも現存しているなら調査しなければならない。
もう一人の男性は11月派。
山の神は家の近くにある石だそうだ。
洗い米や塩、野菜などを供える。
そこに細い竹を筒にしたカケゴを供えるという。
カケゴの竹筒は二つ。
その間は細く切って折り曲げている。
形状から推察するには柳生で行われている形と同じのようである。
カケゴはもうひとつある。
藁束を編んで後ろの一方をぐるりと反転させる。
その中にはジャコを入れておく。
陽があがる頃といえば時間は早い。
その供えものを作ったらカヤの木に引っかけるそうだ。
藁束は吉野町小名で祭られたホデと同じであろう。
木に掛ける行為は各地の山の神で行われるおなじみの様そうと思われる。
青面金剛童子像が描かれている掛け図がある。
それを掲げて三ヶ月に一回拝んでいたのは昔のこと。
以前は9軒で営んでいたそうだ。
1軒は下に降りたので今は8軒。
庚申の日だった。
閏年のときは般若心経を唱えて数珠繰りをしているという。
念仏講では阿弥陀さんの来迎図もある。
これは女性だけで営まれている。
当番の家の営みなので立ち入ることはできない。
薬師寺からさらに登ったところに行者さんや大日さんがある。
標高700mの西山岳にあたるそうだ。
龍王神社は池を濁したら雨が降ると伝えられている。
14、5年前のことだと思い出された雨乞い。
田んぼの水がすけないときに太鼓や鉦を叩いて登って雨乞いをしたそうだ。
その山が経ヶ塚山だという。標高880mの高い山だ。
大和ご回在は毎年10月14日(10時)だそうだ。
また、実家の関戸(せきど)では地蔵盆のときに石仏の地蔵さんを抱えて遊んだという。
シカのアジゴハンを作って。
(H22. 9.15 EOS40D撮影)