マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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新泉野神祭り

2011年06月11日 06時30分33秒 | 天理市へ
N家は4度目のトーヤ(当屋)である。

今年こそまちがいなくヒキドーヤ(曳き当屋)を勤められる。

昨年が最後の行事になろうかとしていた新泉の野神祭り。

子供はたった一人になってしまえば行事が行えなくなるはずだった。

それがだ。

隣家が初の参加を表明されたのだ。

そうなればということで引退しかけたN家の子供たちも参加することになった。

こうして危ぶまれていた行事の存続が救われた。

集落には昨年に生まれた男の子も居る。

当分の間は行事を続けていくことが可能になった新泉の春は今年も巡ってきた。

最後の出番となった中学生の子供は二人。

先日に作られたムギワラ製のウマとウシを抱えて先頭を行く。

兄ちゃんはウマで弟はウシだ。

4年前にイリトーヤ(入り当屋)を勤めてから4度の出番だけにどうにいっている。

一昨年にイリトーヤ(入り当屋)を勤めたMくんは竹製のカラスキを持つ。

初参加の幼児は小さな手でハシゴを掴んでいる。

大和(おおやまと)神社の宮司に村役の総代、宮総代、議員や当屋の親たちがついて素盞鳴(すさのお)神社までお渡りをする。

村役は「ハコメシ」とも呼ばれる「スシ」の二段重ねの御供や神饌に大きなムギワラ製のムカデ(ジャジャウマとも称される)を抱えている。

これも先日に作られた。

「スシ」は蒸し飯を五寸四方と四寸四方、厚さ二寸の大きさに固めたものだ。

新泉では明治時代から伝わる2種類の「御供舛」があり、当屋が保管されているそうだ。

道中は例年のとおり道中の辻ごとにお神酒を供える。



竹筒(竹のゴンゴウと呼ばれていた)を槌で打ち付けて土中に埋め込む。

そこにお酒を注いでいく。

数か所もあることから小さな子供にも替ってその作法を継いでいた。

その作法は神社境内に設えた砂盛りの土俵にも捧げられた。

竹筒はぐるりを取り囲むように三か所である。

「子供のころはもっと大きな土俵だった。

お田植えの行事が行われたあとはここで相撲をとっていた」と60歳ぐらいの男性が話すことからおよそ50年以上も前のことのようだ。

本殿前に祭壇を設えて神事が始まった。

修祓、祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌などの神事は祈年祭(としごいのまつり)だそうだ。



年の初めに豊作を祈る。

初めと言っても五月のことだ。

大正時代から新暦の5月5日の端午の節句に行われていた一本木のオンダだは今では新泉の野神祭りとして紹介されている。

昭和17年、長柄(ながら)に柳本飛行場が作られることになり、神社ごと大和(おおやまと)神社南側に移設され遷座した。

その地は一本木と呼ばれる塚にあったことから当時の行事では「一本木のオンダ」と呼ばれていた。

それだけに神事を終えた所作はまさしく田植え仕事の作法に移る。

本殿前に設えた四角い砂盛り。

それが田んぼに見立てた砂場である。



最初はカラスキを引く牛耕だ。

ウシを抱えた兄ちゃんの視線先は弟が小さな「田んぼ」を耕すカラスキへ。

先頭は小さな子供たちが綱を引く。

これを三周繰り返す作法を行う。

今度は農具をマンガンに替えて田んぼを耕した。

同じように牛が引いて砂場の田を耕して三周したが、幼児は親が抱っこしての所作となった。

そしてハシゴをマンガンに取り付けて深く田んぼを耕した。

それを終えるとウマの出番だ。



4人はワラウマとともに土俵廻りまで勢いよく走り回っていく。

この作法も三周する。

かつてはその後に相撲を取り組む真似ごとをしていたらしい。

今年の豊作を願うオンダの所作を終えた双子子供のヒキドーヤは中学2年生でめでたくトーヤを卒業していった。

翌年は小さな二人の子供に委ねられた一本木のオンダはこうして数年間は続いていくことだろう。

地区にとって重要な行事を勤めた子供たちはお田植え仕事のねぎらいに当屋の家で慰労をもてなす直会がある。



主役を勤めた子供たちは頭屋の家の座敷にあがり宮司とともに会食をする。

「ごちそう」と呼ばれているお膳には箸に幼児も食べやすいようにスプーンも置かれている。

大きなタケノコは丸太から炊きあげた。

その大きな椀にはトロロコンブがある。

「よろこぶ」の意味があるという。

タマゴの炊き合わせにコーヤドーフとフキの煮物が添えてある。

しょうゆとミリンで味付けているそうだ。

小さな椀はチシャ(菜)とタケノコを木の芽とゴマを味噌で和えたもの。

皿にはカツオのナマブシ(ナワブシともいう)。

膳には載らないが巻きずしもある。

コーヤドーフ、カンピョウとミツバを巻いたシンプルな巻き方だ。

数は7切れと決まっている。

セキハン(赤飯)や7個のモチもある。



これらは昔から決まっている献立だ。

「こんなけやけど、子供の口にあうのか食べられしませんね」と当屋の姑さんは話す。

これらの料理は「ひとつずつ炊きますやろ、そやから手間かかります」とも話された。

※昭和52年の書き留めたメモでは「頭屋」が「頭家」と書かれていたが現在は「当屋」の字が充てられている。

(H23. 5. 3 EOS40D撮影)