マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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矢田丘陵周辺の遺跡と農耕儀礼にふれる

2011年06月21日 12時17分52秒 | 民俗を語る
先月から始まった県立橿原考古学研究所附属博物館春季特別展の「弥生の里-くらしといのり―」。

ふとしたことから行事の写真で協力することになった。

それは3月11日に遡る。

そう、大地震があったその日だ。

初めて訪れた博物館でK・Y両学芸員と打合せをした。

その際にお聞きしていた遺跡巡りツアー。

大和郡山で発掘された弥生時代の古墳、遺跡を巡るというのだ。

そこでは遺跡だけでなく展示しているものとリンクして現代における農作業、暮らしの中における弥生の祈りを見ていくというものだ。

それは苗代を作った際に農家の風習として行われている水口祭。

弥生時代にはそれが存在していたかどうか判らないが、かつての情景を醸し出すかもしれない。

場所はといえば地元そのもの。

またとない機会だけに是非協力させていただきたいと申しでたのだ。

そんなことで先週はその水口祭を営まれている個所を探していたのである。

巡るコースにそれが存在してあれば参加者も関心をもつのでは、ということだ。

集合場所はJR大和小泉駅。

集まった人たちは友史会を中心に約100人。

普段のツアーならその倍にもなるという。

当日の遺跡見学地は小泉遺跡、小泉大塚古墳、六道山古墳、田中垣内遺跡、割塚古墳などと矢田町周辺の水口祭を経て県立民俗博物館(企画展「モノまんだら2 太鼓とカネ」)の拝観であった。

遺跡見学会は11kmを歩くコースだ。

小泉駅から街道を抜けて最初に到着したのが小泉大塚古墳だ。

歩いてきたコースはかつて大にぎわいだった松尾寺へ向かう参道である。

ほぼ直線的な道だ。

富雄川を渡る個所には地蔵さんがある。



「市場の楠地蔵」さんだ。

大昔、富雄川の下流から逆に流れついたとされる楠の化石と俗称されている六字名号碑と石地蔵。

それぞれ天正二年(1574年)、天明八年(1788年)のものだという由緒書きがある。

ツアー参加者は考古学博物館の関係者、まっしぐらに遺跡を目指していく。

この地蔵に興味を示す人はごく僅か。

この先の水口祭ではどうなるのか、ちと心配する。



小泉大塚古墳は発掘された当時、現説に行ったことを覚えている。

割れた鏡が数枚あった。

1996年というから平成8年。

たったそんな前だったか。

そのころから奈良の行事を撮影しに行くようになった時期だけにターニングポイントになった遺跡かもしれない・・・。

解説によれば葺き石、埴輪はなく、7面の銅鏡が発見されたそうで古き古墳の様相を示しているという。

そこから西の地域に小泉遺跡がある。

現在は現代住居があるので面影は見られないが円筒が3基、弥生後半期の竪穴住居が4基も見つかったそうだ。

弥生人が集落をかまえて生活を営んでいたと想定されるが発掘区域は小規模だっただけに水田跡は見つかっていない。

ここは高台の丘陵地。

当時の見晴らしは良かったのだろう。

慈光院の駐車場から眺める六道山古墳。



小泉大塚古墳とも前方部は潰されてない。

同様に葺き石はなかったが様相は異なるらしい。

異なるといわれても私にはよく判らない。

ここも弥生後期の古墳だそうだ。

ここからはやたら歩く、歩く。

富雄川沿いにあるサイクリングロードを歩く。



そして福寿橋を渡り、目指すは平成16年にオープンしたアピタショッピングセンターだ。



開発前に畑地を発掘された田中垣内遺跡。

弥生後期から古墳前期に亘って何層も出土された。

竪穴住居が20基に円形(環状)の溝が発掘された。

それは排水のためだったのだろう。

水路があって集落に水を集めていく様相と西へ向かって流れていく構造のようで、溝は「溜め」要素だという。

それは長方形の深い穴から溝に行く。

上澄みが流れ水田へとむかったのではという説があるらしい。

らしいというのは、まだ未発掘であるため現状では明白ではないということだ。

そのときに発掘された土器類はアピタの1階と中2階段にガラス越しで展示されている。

アピタ前をぬう大和中央道でも発掘された東城(ひがしんじょ)遺跡もあるが今回は時間的な制約もあることから、ここで1時間の昼食やトイレ休憩を済ませて割塚古墳を目指す。

それは千日町にある。

地域一帯は新興住宅地。

そのなかに突如として浮かびあがった巨艦。

ではなくて径49m、高さほぼ5mの円噴をもつ古墳公園。



塚の中央辺りがⅤ字方に割れていたことからその名がついたそうだ。

横穴式石室が発見されたそうだ。

6世紀前半の築造というから弥生時代ではなく、その当時の馬具や須惠器が発掘されたそうだ。

そこからは一路矢田山を目指す。

確認はしているものの水口祭の跡があるのかどうかドキドキする。

というのは、それは農家の風習だけに決まりごとはない。

祭りごとを終えればお札は取り払う場合もあるし、服忌であればそれをしない。

なければ・・・どうしようかと辻を曲がれば。

あった。

学芸員から紹介されて、ここで解説をする。

大声でもいけるのだがマイクを持った。

苗代の祭りごとと行事を絡ませて説明する。

そのお札は見えないので発刊された県立民俗博物館で展示された「大和郡山の祭りと行事」展の図録を提示してしゃべった。

この図録は当博物館で販売されている。

40ページものの図録の価格は350円。



その12ページ目には金剛山寺矢田寺や矢田坐久志玉比古神社のお札を載せている。

苗代に供えられたお札は拝見できないのでそのページを広げて解説した。

当地ではここを入れて3か所が集中してお札がみつかる。

いずれもお花を添えてある。

それぞれの文字は判読できないが金剛山寺矢田寺の修正会の加持祈祷札か、これから向かう矢田坐久志玉比古神社のお札であろう。

これらのお札は田植えが始まれば畦に寄せられる場合もあるし捨てられる場合も。

場合によってはとんどで燃やされることもあるから土中には残らない。

洪水で埋もれてしまわない限り残らないモノだけに弥生時代にあったかどうかの痕跡はない。

ましてお札は仏教伝来後だけに弥生時代にはそもそもありえない。



こうして神社参拝を経て民俗博物館に到着した。

65歳以上は無料、以下であれば団体扱いで200円のところ150円になる。

年齢別に分かれて入館したがちょうど半分ぐらいの人数になった。



館内でおよそ1時間の拝観。

なんでか、企画展の補助解説までしてしまった。

この日は国際博物館の日記念事業でもある。

参加者のみなさま方、博物館のみなさま方、丸一日の遺跡巡りにお疲れさまでした。

全コースを歩いた歩数は15800歩だった。

(H23. 4.17 スキャン)
(H23. 5. 8 SB932SH撮影)