毎年4月21日は大和郡山市番条町集落一帯で祭られるお大師さんの日。
江戸時代末のころに始まったと伝えられている。
昭和8年(1933)に残された由来書によれば文政13年(1830)に村で流行病いコレラが広く発症した。
そのことがあり申し合わせた当時の村人は弘法大師を信仰することになった。
四国八十八カ所巡りをした際に本尊を貰い帰り村に奉納して奉った。
村落は88軒あったことから1軒ずつ弘法大師を奉るようになったとか。
明治15年(1882)の村誌によれば95軒が真言宗派と記されているそうだ。
いきさつは判らないが、家で奉っているお大師さんをこの日の朝に厨子ごと玄関前に移動する。
祭檀は煌びやかで鮮やかな文様のはいった敷物を掛ける。
無地もあるがそれなりに美しい。
5品の椀物の膳は各家の料理であろう、煮物のアブラゲ、シイタケ、マメ、ナスビ、コンニャク、ニンジンなど多種多様な精進料理は吸い物や酢物も。
シイタケ、ズイキ、ミツバ、フキ、名の花など季節の野菜はそのままの生調理で、果物、お果子も盛られている。
なかには水引で括っているものもある。
アズキゴハンにタケノコ、コーヤドーフはつきものだがその家の持ち味が設えられている。
ときには奈良漬物や大きなサツマイモに魚の干物もある。
特段の決まりもない膳で高ツキで盛られる家もある。
「うちはこうしているけど、他の家はどうしているんやろ」と他家(北垣内)の膳を確かめに巡拝を兼ねて歩く住民もいる。
同町に伝わる話によれば『村から引っ越しをされようとした家があった。村を出て橋の袂まで来たが引っぱる牛が動かなくなった。尻を叩いても動じない牛だった。荷車に積んでいた引っ越しの所帯道具のうち、お大師さんの厨子を下した途端に牛が歩き始めた。それ以来、村を離れる際にはお大師さんを親戚や隣近所、阿弥陀院、大師堂で預かるようになった。』という。そうした預かりのお大師さんを並べて出開帳をされている家が数軒みられる。
酒造りの家人が昭和51年(1976)に書き記された「我が家の年中行事」によれば、この日は春祭りで「お大師さんの連座(れんど)」とも言って招待した親戚じゅうが集まったという。
前日に搗いたヨモギダンゴをコウジブタに入れてお参りする人に供養としてもらっていただく。
集まった親戚には手料理で御馳走をして甘酒を振舞った。
婚礼があった家では新しい親戚を案内して近所のお大師さんを参ってもらった。
毎年来られる人は顔なじみになるので「今年もお参りに来ました」と挨拶することもありなんともいえない風情だったと書かれている。
お大師さんの祭壇には一束のコウヤマキが供えられていた。
それぞれの家人の話では「当家で置いたものではない。参拝者の人が置いていった」という。
それは各家ともにあった。
今年はじめてのことだという。
コウヤマキは高価な木。
明日からヨシ屋根を葺き替える大和棟の住民は随分前に下市の広橋から買ってきたコウヤマキが育って大きくなったという。
そのコウヤマキでないことは確かだと話す。
一束ずつ供えられたのは志があったのだろうと酒造りの当主が話す。
それはオンダ祭で見られる松苗のようだ。
当番で交替してきた大師堂では発見された弘法大師座像の刷り札も箱に仕舞われ、密教法具のひとつである三鈷杵(さんこしょ)を組み合わせた文様が見られる幕(柳裏住民の寄進)も下ろされた。
朝から出開帳されていた各家のお大師さんもそろそろ終い時間に移っていった。
(H23. 4.21 EOS40D撮影)
江戸時代末のころに始まったと伝えられている。
昭和8年(1933)に残された由来書によれば文政13年(1830)に村で流行病いコレラが広く発症した。
そのことがあり申し合わせた当時の村人は弘法大師を信仰することになった。
四国八十八カ所巡りをした際に本尊を貰い帰り村に奉納して奉った。
村落は88軒あったことから1軒ずつ弘法大師を奉るようになったとか。
明治15年(1882)の村誌によれば95軒が真言宗派と記されているそうだ。
いきさつは判らないが、家で奉っているお大師さんをこの日の朝に厨子ごと玄関前に移動する。
祭檀は煌びやかで鮮やかな文様のはいった敷物を掛ける。
無地もあるがそれなりに美しい。
5品の椀物の膳は各家の料理であろう、煮物のアブラゲ、シイタケ、マメ、ナスビ、コンニャク、ニンジンなど多種多様な精進料理は吸い物や酢物も。
シイタケ、ズイキ、ミツバ、フキ、名の花など季節の野菜はそのままの生調理で、果物、お果子も盛られている。
なかには水引で括っているものもある。
アズキゴハンにタケノコ、コーヤドーフはつきものだがその家の持ち味が設えられている。
ときには奈良漬物や大きなサツマイモに魚の干物もある。
特段の決まりもない膳で高ツキで盛られる家もある。
「うちはこうしているけど、他の家はどうしているんやろ」と他家(北垣内)の膳を確かめに巡拝を兼ねて歩く住民もいる。
同町に伝わる話によれば『村から引っ越しをされようとした家があった。村を出て橋の袂まで来たが引っぱる牛が動かなくなった。尻を叩いても動じない牛だった。荷車に積んでいた引っ越しの所帯道具のうち、お大師さんの厨子を下した途端に牛が歩き始めた。それ以来、村を離れる際にはお大師さんを親戚や隣近所、阿弥陀院、大師堂で預かるようになった。』という。そうした預かりのお大師さんを並べて出開帳をされている家が数軒みられる。
酒造りの家人が昭和51年(1976)に書き記された「我が家の年中行事」によれば、この日は春祭りで「お大師さんの連座(れんど)」とも言って招待した親戚じゅうが集まったという。
前日に搗いたヨモギダンゴをコウジブタに入れてお参りする人に供養としてもらっていただく。
集まった親戚には手料理で御馳走をして甘酒を振舞った。
婚礼があった家では新しい親戚を案内して近所のお大師さんを参ってもらった。
毎年来られる人は顔なじみになるので「今年もお参りに来ました」と挨拶することもありなんともいえない風情だったと書かれている。
お大師さんの祭壇には一束のコウヤマキが供えられていた。
それぞれの家人の話では「当家で置いたものではない。参拝者の人が置いていった」という。
それは各家ともにあった。
今年はじめてのことだという。
コウヤマキは高価な木。
明日からヨシ屋根を葺き替える大和棟の住民は随分前に下市の広橋から買ってきたコウヤマキが育って大きくなったという。
そのコウヤマキでないことは確かだと話す。
一束ずつ供えられたのは志があったのだろうと酒造りの当主が話す。
それはオンダ祭で見られる松苗のようだ。
当番で交替してきた大師堂では発見された弘法大師座像の刷り札も箱に仕舞われ、密教法具のひとつである三鈷杵(さんこしょ)を組み合わせた文様が見られる幕(柳裏住民の寄進)も下ろされた。
朝から出開帳されていた各家のお大師さんもそろそろ終い時間に移っていった。
(H23. 4.21 EOS40D撮影)