雨が降って昼間の温度からぐっと下がった大宇陀の夜。
かつて仏母寺(ぶつもじ)があったとされる野依の社務所は村の人たちが集まった。
農作業を営む人も多く田植え作業も忙しかったというから今夜の集まりは正月に比べてやや少ない。
本尊の前の祭壇に神饌を供えて村からの御供も置かれた。
ローソクに火を灯して線香をくゆらせた。
導師は村の長老。
木魚を叩いて早めの調子で般若心経1巻を唱えた。
座布団の席には参列者が座り唱和する。
引き続いて西国三十三番の御詠歌を唱えていく。
今度はゆったりしたリズムで鉦打ちだ。
1番の詠歌、2番の詠歌と途切れることなく唱和が続く。
村の田んぼではカエルも合唱している。
途中の休憩もなく50分でそれを終えた。
観音講といえば一般的にはご婦人の集まりが多い。
野依の観音講はその組織の講中でなく村の行事であるだけに男性、女性がまじった形だ。
その混声した唱えはカエルとともに共鳴するかのようだ。
33番を終えれば宇陀西国三十三ケ所 第二十九番 大和国宇陀郡 大念仏衆 野依仏母寺 十一面観世音の御詠歌の「はなくさの よりて たをりて みほとけの ははと てらへと いざや たむけん」と唱えられた。
この宇陀西国三十三ケ所は大宇陀、榛原、菟田野、室生に分布する霊場として始められたようだがその起こりは判っていない。
ただ、江戸時代後期には活発に巡礼が行われていたようで御詠歌集が作られている。
明治時代以降に廃れたようだが、野依では今夜の観音講の営みで唱和されたように村人たちによって継承されてきたのであろう。
もっとも野依で営まれた社務所は仏母寺であった。
本尊の観音仏像を安置する厨子は1月、5月、9月の観音講と際に扉を開かれる。
その厨子の扉には阿弥陀さん、それとも観音さんかと思われる菩薩像が立ち並んでいる。
左の扉だけを目にしたがそれは五人の像だった。
それは空から降りてくるような図柄であることからお練りの25菩薩聖衆来迎(しゅうじゅらいごう)図と思われる。
上部には大きな太鼓と思えるものが。
一人はデンデン太鼓を持ち一人は笛のようなものを持っている。
楽器を奏でながら死者を迎える来迎の姿ではないだろうか。
下部には僧侶の顔が見えるのは弔い法要であるのか、果たして・・・。
右側の扉は確認できなかったがこちらも五人であったろう。
納められている観音さんは十一面の金色色。
厨子のほうが古く、おそらく後年に入れ替わったものと考えられる。
光り輝く仏像は美しくも眩しい。
人々を救済するために観音さまは33体もの姿に変化したという。
その姿であろうか扉に描かれた浮彫図絵。
若干の剥離がみられるものの色落ちも少なく鮮やかで、思わず見惚れてしまうお姿だ。
その作風は古色の風合いを醸し出す。
調べてみなければいけないがおそらく江戸時代後期以前だと思われるが、これもまた果たして・・・。
この夜は満月だった。
夕方に降った雨はやみ雲間から大きな丸い形が現れた。
水が張られて田植えを済ませた田んぼは天上の満月を映し出した。
(H23. 5.17 EOS40D撮影)
かつて仏母寺(ぶつもじ)があったとされる野依の社務所は村の人たちが集まった。
農作業を営む人も多く田植え作業も忙しかったというから今夜の集まりは正月に比べてやや少ない。
本尊の前の祭壇に神饌を供えて村からの御供も置かれた。
ローソクに火を灯して線香をくゆらせた。
導師は村の長老。
木魚を叩いて早めの調子で般若心経1巻を唱えた。
座布団の席には参列者が座り唱和する。
引き続いて西国三十三番の御詠歌を唱えていく。
今度はゆったりしたリズムで鉦打ちだ。
1番の詠歌、2番の詠歌と途切れることなく唱和が続く。
村の田んぼではカエルも合唱している。
途中の休憩もなく50分でそれを終えた。
観音講といえば一般的にはご婦人の集まりが多い。
野依の観音講はその組織の講中でなく村の行事であるだけに男性、女性がまじった形だ。
その混声した唱えはカエルとともに共鳴するかのようだ。
33番を終えれば宇陀西国三十三ケ所 第二十九番 大和国宇陀郡 大念仏衆 野依仏母寺 十一面観世音の御詠歌の「はなくさの よりて たをりて みほとけの ははと てらへと いざや たむけん」と唱えられた。
この宇陀西国三十三ケ所は大宇陀、榛原、菟田野、室生に分布する霊場として始められたようだがその起こりは判っていない。
ただ、江戸時代後期には活発に巡礼が行われていたようで御詠歌集が作られている。
明治時代以降に廃れたようだが、野依では今夜の観音講の営みで唱和されたように村人たちによって継承されてきたのであろう。
もっとも野依で営まれた社務所は仏母寺であった。
本尊の観音仏像を安置する厨子は1月、5月、9月の観音講と際に扉を開かれる。
その厨子の扉には阿弥陀さん、それとも観音さんかと思われる菩薩像が立ち並んでいる。
左の扉だけを目にしたがそれは五人の像だった。
それは空から降りてくるような図柄であることからお練りの25菩薩聖衆来迎(しゅうじゅらいごう)図と思われる。
上部には大きな太鼓と思えるものが。
一人はデンデン太鼓を持ち一人は笛のようなものを持っている。
楽器を奏でながら死者を迎える来迎の姿ではないだろうか。
下部には僧侶の顔が見えるのは弔い法要であるのか、果たして・・・。
右側の扉は確認できなかったがこちらも五人であったろう。
納められている観音さんは十一面の金色色。
厨子のほうが古く、おそらく後年に入れ替わったものと考えられる。
光り輝く仏像は美しくも眩しい。
人々を救済するために観音さまは33体もの姿に変化したという。
その姿であろうか扉に描かれた浮彫図絵。
若干の剥離がみられるものの色落ちも少なく鮮やかで、思わず見惚れてしまうお姿だ。
その作風は古色の風合いを醸し出す。
調べてみなければいけないがおそらく江戸時代後期以前だと思われるが、これもまた果たして・・・。
この夜は満月だった。
夕方に降った雨はやみ雲間から大きな丸い形が現れた。
水が張られて田植えを済ませた田んぼは天上の満月を映し出した。
(H23. 5.17 EOS40D撮影)