かつては旧暦の5月5日に行われていた野依白山神社の御田植祭。
田植え時期の真っ最中で、神様の田植えとされる当日は作業をしてはならない、牛を使ってもならないとされていた。
それでは不都合だと大正時代の初めごろに新暦で営まれるようになった。
5月5日の節句だけに「節句オンダ」と呼ばれるようになった。
この日は女性の休息日で、田植え前の予祝行事として始まったとされる。
県内で見られるオンダ祭には牛耕の所作が約半数ある。
その牛もなく奉仕者の男たちが神役となって舞や詞章(唄)とともにオンダの所作を行う形式はたいへん珍しい。
御田植祭は神事であるが神職は存在しない。
集まってきた人たちがそれぞれの神役を担って行われるのだ。
翁の能面をつけた男神の大頭(だいとう)、姥の能面をつけた女神の小頭(しょうとう)はともに烏帽子を被り直衣(のうし)姿。
翁は腰に杵と茣蓙(ゴザ)をぶら下げ、手に蛇の目傘を持つ。
履物は高下駄で田主を勤める。
姥は間水桶(けんずいおけ)を背負って田主のおばあさん役を勤める。
田んぼの土を大きく掘り起こす荒鍬(あらくわ)役、水を張った田んぼの土を均す萬鍬(まんぐわ)役、田植えがし易いように田んぼの隅々を仕上げる小鍬(こくわ)役、早苗に見立てたウツギの苗を田んぼに配る苗うち役、田植えを勤める植女(しょとめ)と呼ばれる早乙女は菅笠を持つ。
囃子方は音頭取りの大太鼓打ち1人と大太鼓持ち2人に小太鼓打ちで間水(けんずい)配りの大勢だ。
三人の植女はご婦人の手によって化粧が施され、座敷に座って机にお酒が配膳される。
神事は始めに神酒をいただく。
この所作は「シモケシ」と呼んでいる。
祭りごとを始めるにあたり身を清めるというシンプルな儀式である。
舞の神事は数か所に亘って繰り返し所作される。
初めに植女の舞を社務所で練習をする。
囃子唄は1番に「今年のホトトギスは何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と大太鼓、小太鼓の音とともに囃す。
2番は「西の国の雨降り舟は何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃す。
3番に「白山権化の舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか左に舞回る。
4番が「やよの舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか右に舞回る。
次に社務所前で、境内中央の大杉前、境内西の角、境内の鳥居前と続く。
次は場所を本殿の前に移す。
足元を見ればなんびと(人)も素足だ。
神役の人たちはこれまでの所作を裸足で演じていたのだ。
これはすべてを終えるまでそうしている。
野依のさまざまなマツリの際に本殿に上がる。
そのときも裸足になる。
神さんへの敬意を表するといことであろうか。
そこでは植女の舞のあとに大頭が登場する。
「田主どんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに左足から一歩いでて傘を広げる。
一歩引いて傘をすぼめる。
次に荒鍬が登場して「荒鍬はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに掘り起こす所作をする。
次は萬鍬の登場。
「萬鍬かきさんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに土を均す所作をする。
さらに小鍬も登場して「小鍬さんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに仕上げの所作をする。
そして苗籠を担いだ苗うちが登場し苗に見立てたウツギの小枝を蒔いていく。
再び登場した植女たち。
今度は一人ずつ登場する。
囃子は「植女はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」である。
このように詞章はいずれも演者を主役に米作の豊作を願う祈りが込められている。
一連の所作を終えれば石積階段を下りて、再び境内の鳥居前に場を移した。
そこで登場したのが行事の邪魔をする子供たちだ。
演者一人ずつに群がる子供たちははしゃぎまわる。
境内西の角に転じたときにはお櫃を中に入れた間水桶を背負う小頭が社務所から現れた。
ようやく回ってきた出番だ。
間水役はそこからお櫃としゃもじを取り出して食事をする所作をする。
その際は参拝者も交えて間水が行われる。
「このコメ(米)はハクサンゴンゲのマイ(米)というて、これを食べたら一年中健康にすごせます。みなさんにも配りますのでワッというてください」と伝える。
マイは米であって「白山権化の舞・やよの舞」に通じる洒落詞でもあろうか。
間水役は大頭から神役へ、盛ったお椀に見えないご飯をしゃもじついで口元に差し出す。
そうすると「ワッ」と声をあげる。
一般観客へも同じように配られるけんずいの所作はお腹が一杯になったという返答の意思表示だそうだ。
それを終えたら再び演者の舞が続く。
一度動き出した子供たちは演者の邪魔師。
衣装を掴んだり所作を止めたりする。
そうした所作を終えるのを見届けて小頭は社務所に戻っていった。
その後も白山権化の舞・やよの舞が演じられる。
境内中央の大杉前で、そして、屋根にヨモギとショウブを乗せた社務所前で舞って仕舞の田植えの幕を閉じた。
まことにユーモラスなオンダ祭である。
境内には祭りのあとのウツギが残っていた。
こうして野依の田んぼの苗代は生育していくことであろう。
その傍らにはお札が挿してある。
これは正月の日に社務所で頭家が版木で刷って朱印を押したもので、3月15日の涅槃会で奉られた。
梵字のような文字だが何を書かれているのか判らない。
その日に配られたお札は「降三世(ゴーサン)」と呼んでいる。
充てる漢字は難解だがまぎれもない牛玉宝印のお札であろうが朱印の向きは上下逆であろう。
かつては仏母寺と呼ばれる神宮寺があったそうだ。
間水桶の裏には「飯桶・明治三年・野寄邑仏母寺」と墨書されているのがその証しだ。
現在はお寺が存在しないがオコナイの営みがあったことが伺えるお札は苗代の成長を見守っている。
(H23. 5. 5 EOS40D撮影)
田植え時期の真っ最中で、神様の田植えとされる当日は作業をしてはならない、牛を使ってもならないとされていた。
それでは不都合だと大正時代の初めごろに新暦で営まれるようになった。
5月5日の節句だけに「節句オンダ」と呼ばれるようになった。
この日は女性の休息日で、田植え前の予祝行事として始まったとされる。
県内で見られるオンダ祭には牛耕の所作が約半数ある。
その牛もなく奉仕者の男たちが神役となって舞や詞章(唄)とともにオンダの所作を行う形式はたいへん珍しい。
御田植祭は神事であるが神職は存在しない。
集まってきた人たちがそれぞれの神役を担って行われるのだ。
翁の能面をつけた男神の大頭(だいとう)、姥の能面をつけた女神の小頭(しょうとう)はともに烏帽子を被り直衣(のうし)姿。
翁は腰に杵と茣蓙(ゴザ)をぶら下げ、手に蛇の目傘を持つ。
履物は高下駄で田主を勤める。
姥は間水桶(けんずいおけ)を背負って田主のおばあさん役を勤める。
田んぼの土を大きく掘り起こす荒鍬(あらくわ)役、水を張った田んぼの土を均す萬鍬(まんぐわ)役、田植えがし易いように田んぼの隅々を仕上げる小鍬(こくわ)役、早苗に見立てたウツギの苗を田んぼに配る苗うち役、田植えを勤める植女(しょとめ)と呼ばれる早乙女は菅笠を持つ。
囃子方は音頭取りの大太鼓打ち1人と大太鼓持ち2人に小太鼓打ちで間水(けんずい)配りの大勢だ。
三人の植女はご婦人の手によって化粧が施され、座敷に座って机にお酒が配膳される。
神事は始めに神酒をいただく。
この所作は「シモケシ」と呼んでいる。
祭りごとを始めるにあたり身を清めるというシンプルな儀式である。
舞の神事は数か所に亘って繰り返し所作される。
初めに植女の舞を社務所で練習をする。
囃子唄は1番に「今年のホトトギスは何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と大太鼓、小太鼓の音とともに囃す。
2番は「西の国の雨降り舟は何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃す。
3番に「白山権化の舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか左に舞回る。
4番が「やよの舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか右に舞回る。
次に社務所前で、境内中央の大杉前、境内西の角、境内の鳥居前と続く。
次は場所を本殿の前に移す。
足元を見ればなんびと(人)も素足だ。
神役の人たちはこれまでの所作を裸足で演じていたのだ。
これはすべてを終えるまでそうしている。
野依のさまざまなマツリの際に本殿に上がる。
そのときも裸足になる。
神さんへの敬意を表するといことであろうか。
そこでは植女の舞のあとに大頭が登場する。
「田主どんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに左足から一歩いでて傘を広げる。
一歩引いて傘をすぼめる。
次に荒鍬が登場して「荒鍬はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに掘り起こす所作をする。
次は萬鍬の登場。
「萬鍬かきさんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに土を均す所作をする。
さらに小鍬も登場して「小鍬さんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに仕上げの所作をする。
そして苗籠を担いだ苗うちが登場し苗に見立てたウツギの小枝を蒔いていく。
再び登場した植女たち。
今度は一人ずつ登場する。
囃子は「植女はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」である。
このように詞章はいずれも演者を主役に米作の豊作を願う祈りが込められている。
一連の所作を終えれば石積階段を下りて、再び境内の鳥居前に場を移した。
そこで登場したのが行事の邪魔をする子供たちだ。
演者一人ずつに群がる子供たちははしゃぎまわる。
境内西の角に転じたときにはお櫃を中に入れた間水桶を背負う小頭が社務所から現れた。
ようやく回ってきた出番だ。
間水役はそこからお櫃としゃもじを取り出して食事をする所作をする。
その際は参拝者も交えて間水が行われる。
「このコメ(米)はハクサンゴンゲのマイ(米)というて、これを食べたら一年中健康にすごせます。みなさんにも配りますのでワッというてください」と伝える。
マイは米であって「白山権化の舞・やよの舞」に通じる洒落詞でもあろうか。
間水役は大頭から神役へ、盛ったお椀に見えないご飯をしゃもじついで口元に差し出す。
そうすると「ワッ」と声をあげる。
一般観客へも同じように配られるけんずいの所作はお腹が一杯になったという返答の意思表示だそうだ。
それを終えたら再び演者の舞が続く。
一度動き出した子供たちは演者の邪魔師。
衣装を掴んだり所作を止めたりする。
そうした所作を終えるのを見届けて小頭は社務所に戻っていった。
その後も白山権化の舞・やよの舞が演じられる。
境内中央の大杉前で、そして、屋根にヨモギとショウブを乗せた社務所前で舞って仕舞の田植えの幕を閉じた。
まことにユーモラスなオンダ祭である。
境内には祭りのあとのウツギが残っていた。
こうして野依の田んぼの苗代は生育していくことであろう。
その傍らにはお札が挿してある。
これは正月の日に社務所で頭家が版木で刷って朱印を押したもので、3月15日の涅槃会で奉られた。
梵字のような文字だが何を書かれているのか判らない。
その日に配られたお札は「降三世(ゴーサン)」と呼んでいる。
充てる漢字は難解だがまぎれもない牛玉宝印のお札であろうが朱印の向きは上下逆であろう。
かつては仏母寺と呼ばれる神宮寺があったそうだ。
間水桶の裏には「飯桶・明治三年・野寄邑仏母寺」と墨書されているのがその証しだ。
現在はお寺が存在しないがオコナイの営みがあったことが伺えるお札は苗代の成長を見守っている。
(H23. 5. 5 EOS40D撮影)