会所でナンマイダを唱えながら数珠繰りをすると話していた杉町のT婦人。
前月に行われた八幡神社夏祭りの御湯を持ち帰ったご婦人だ。
「アツケにならんように持ち帰って、お湯を冷やして飲んでいる。昔はみんなそうしていた」と云って母家にも持っていった。
「お湯は藁に浸けてお腹に巻く。枕元に置いてとけば安産になる」とも話す母家の婦人。
その人と共にやってきた会所は水利組合の集会所。
神社を新しくしたときに社務所も建て替えた。
組合も集まりはそこでするようになったが会所は温存している。
阿弥陀像を祀る会所でもある。
この日は杉町の地蔵盆。
地蔵尊は会所の外側に安置されている。
当番の人は花を飾って提灯を掲げておく。
そうして待つこと暫く。
一人、二人と参集した。
地蔵尊への直接のお供えは洗い米などだが会所の縁側に並べた小袋。
一つ、一つに包まれている。
本来なら地蔵尊の前に並べるのだが、夏の西日に直接当てるわけにはいかないとこうしているという。
当番は3人。
花当番ともいう。
仏さんや地蔵さんにお花を添える花当番は23軒で回っているから一年に一度はそれにあたるという。
夏は暑い。
会所はクーラーも利いているが、この日は南側の扉を開けての数珠繰り。
導師が中に入って鉦を叩く。
「なむあんだー なむあみだー」を唱えながら50回も繰り返す数珠繰りだ。
汗が流れてほんの少しは小休止。
しばらくすれば再開して延々20分間の数珠繰りである。
それを終えれば患部にあてて身体堅固。
ありがたい数珠に求める婦人たちであった。
地蔵盆の数珠繰りを終えれば木箱に納めて仕舞う。
その箱の蓋には名が記されていた。
「平七、慶師、為○、丈○、佐○、重助、弥○郎」の七人。
名字が見られないことから明治時代の始めに寄進されたのであろうか。
「重助」の名は明治十一年三月十五日の日付けが記された棟札にあった名と同じだ。
その家系にあたるS婦人が話すには、代々が「杉村の重助」と名乗って継いでいたそうだ。
棟札と同一人物か、それとも江戸時代に暮らしていた先祖なのか判らないが、検めて見た木箱に杉町の歴史を感じたと話す婦人たち。
ちなみに叩いていた鉦には「室町住出羽大掾宗味作」の刻印がある。
白土町の子供のチャンチャンコで使われていた鉦と同じ作者である。
その鉦は貞享伍年(1688)の作と判明しているが、杉町の鉦は年代が判らない。
奈良市の南田原町で行われたボザイノサケも同じく「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった鉦だ。
この鉦も時代は不明だ。
調べてみれば「出羽大掾宗味作」の鉦は日本全国のあちこちにあるようだ。
ネットで調べてみれば、大分県中津市の中津祇園では、「宝永七庚寅年(1710)三月」という字と、作者とみられる「室町住出羽大掾宗味作」の名が刻まれていた。
愛媛県仲組観音堂の念仏用の鉦には「宝永八年卯年二月(1711)作室町住出羽大掾宗味作」とあるそうだ。
また、摂州住吉郡平野郷と云えば大阪市内の平野区。
融通念仏宗の大本山大念佛寺がある地だ。
この地の流口地蔵尊には「京室町住出羽宗昧藤原誠定作」の鉦があるそうだ。
「安永六丁酉年(1777)七月廿四日」の刻印の年代は離れているが作者名が同一。
時代を経ても同じ作者名が継承されてのではないだろうか。
それはともかく、こうした状況を考えれば杉町も南田原も古くから使われていたことが想定できよう。
(H24. 8.23 EOS40D撮影)
前月に行われた八幡神社夏祭りの御湯を持ち帰ったご婦人だ。
「アツケにならんように持ち帰って、お湯を冷やして飲んでいる。昔はみんなそうしていた」と云って母家にも持っていった。
「お湯は藁に浸けてお腹に巻く。枕元に置いてとけば安産になる」とも話す母家の婦人。
その人と共にやってきた会所は水利組合の集会所。
神社を新しくしたときに社務所も建て替えた。
組合も集まりはそこでするようになったが会所は温存している。
阿弥陀像を祀る会所でもある。
この日は杉町の地蔵盆。
地蔵尊は会所の外側に安置されている。
当番の人は花を飾って提灯を掲げておく。
そうして待つこと暫く。
一人、二人と参集した。
地蔵尊への直接のお供えは洗い米などだが会所の縁側に並べた小袋。
一つ、一つに包まれている。
本来なら地蔵尊の前に並べるのだが、夏の西日に直接当てるわけにはいかないとこうしているという。
当番は3人。
花当番ともいう。
仏さんや地蔵さんにお花を添える花当番は23軒で回っているから一年に一度はそれにあたるという。
夏は暑い。
会所はクーラーも利いているが、この日は南側の扉を開けての数珠繰り。
導師が中に入って鉦を叩く。
「なむあんだー なむあみだー」を唱えながら50回も繰り返す数珠繰りだ。
汗が流れてほんの少しは小休止。
しばらくすれば再開して延々20分間の数珠繰りである。
それを終えれば患部にあてて身体堅固。
ありがたい数珠に求める婦人たちであった。
地蔵盆の数珠繰りを終えれば木箱に納めて仕舞う。
その箱の蓋には名が記されていた。
「平七、慶師、為○、丈○、佐○、重助、弥○郎」の七人。
名字が見られないことから明治時代の始めに寄進されたのであろうか。
「重助」の名は明治十一年三月十五日の日付けが記された棟札にあった名と同じだ。
その家系にあたるS婦人が話すには、代々が「杉村の重助」と名乗って継いでいたそうだ。
棟札と同一人物か、それとも江戸時代に暮らしていた先祖なのか判らないが、検めて見た木箱に杉町の歴史を感じたと話す婦人たち。
ちなみに叩いていた鉦には「室町住出羽大掾宗味作」の刻印がある。
白土町の子供のチャンチャンコで使われていた鉦と同じ作者である。
その鉦は貞享伍年(1688)の作と判明しているが、杉町の鉦は年代が判らない。
奈良市の南田原町で行われたボザイノサケも同じく「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった鉦だ。
この鉦も時代は不明だ。
調べてみれば「出羽大掾宗味作」の鉦は日本全国のあちこちにあるようだ。
ネットで調べてみれば、大分県中津市の中津祇園では、「宝永七庚寅年(1710)三月」という字と、作者とみられる「室町住出羽大掾宗味作」の名が刻まれていた。
愛媛県仲組観音堂の念仏用の鉦には「宝永八年卯年二月(1711)作室町住出羽大掾宗味作」とあるそうだ。
また、摂州住吉郡平野郷と云えば大阪市内の平野区。
融通念仏宗の大本山大念佛寺がある地だ。
この地の流口地蔵尊には「京室町住出羽宗昧藤原誠定作」の鉦があるそうだ。
「安永六丁酉年(1777)七月廿四日」の刻印の年代は離れているが作者名が同一。
時代を経ても同じ作者名が継承されてのではないだろうか。
それはともかく、こうした状況を考えれば杉町も南田原も古くから使われていたことが想定できよう。
(H24. 8.23 EOS40D撮影)