マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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龍田大社茅の輪作り

2016年05月09日 09時42分44秒 | 三郷町へ
茅刈りを終えれば夏越大祓式に潜られる茅の輪作りが始まる。

龍田大社の境内にブルーシートを広げて刈り取った茅を置く。

置き方は出来上がりの茅の輪を想定して葉は上向き。

下部は芯の部分。左右対称になるように置く。

茅束だけであれば立てたときに崩れてしまう。

それを避けるために心棒が要る。

ベースになる心棒は黒い水道ホース。

バンセンでしっかりと締めて固定する。

下に15束を揃えて見栄え、出来具合を判断して置く位置を調製する。

位置が決まれば心棒のホースを隠すように、上も15束の茅を重ね合して茅束を置いていく。



恰好がついたら荒縄で括ってできあがる。

茅の輪の太さはざっと測って20cm。

全高は270cmにもなった。

茅の輪作りをしていたこの日はお宮参りが多かった。



お宮参りはひと月目。

そんな唄が聞こえてきそうな氏子たち家族の祝いの日。

次から次へと参拝される家族連れ。

赤ちゃんを抱いているのは、だいたいが新郎側の婦人。

つまりは生まれた赤ちゃんから云えば祖母になる。

祖母と云っても、お若い婦人。

書くのも辛い。

お宮参りをされている中の何組かが気になった。

赤ちゃんの祝い着は生んだ新婦の実家が贈るのがならわし。

最近はレンタルも活用しているようだ。

赤ちゃんの正式な祝い着は、肌着の上に白羽二重の内着。

その上から晴れ着の掛け着を羽織る。

首の後ろ辺りにヒモセン(紐銭)をぶら下げる。

我が家もヒモセンを取り付けて宮参りをしたことがあるが、地域によっては張り子の犬とかデンデン太鼓、或はお金そのものをかける風習がある。

龍田大社で見かけたお宮参りの参拝者の何組かが祝いのヒモセンをしていた。

茅の輪作りの僅かな時間帯で参拝された参拝者は五組。

うち二組がヒモセンをしていたことを付記しておく。

さて、だ。出来上がった茅の輪は境内に設えた紅白の支柱に建てるのだ。

茅の輪が支柱の内側になるよう位置決めする。

位置が決まれば支柱を固定する杭を打ち込む。

次は高さだ。

この位置を決めるには作った茅の輪が要る。

梯子を伸ばして数人がかりで茅の輪の中央を抱え込んで高さを測る。

決まれば支柱に印を入れる。

幅や高さ測った茅の輪を下ろして次の作業に移る。



伐採しておいた青竹は水平を保ちながら、印した位置に両端を仮止め。

バンセンでしっかり縛って完成した。



できあがった茅の輪は30日の夏越大祓式が行われる午前中にこの青竹に吊るすように仕掛ける。

その日が来るまでは境内で保管される。

この日より二日間もあることから茅が乾かないように水分を補給しておく。



補給といっても茅全体に水道水をぶっかけておくということだ。

蒸発もしないようにブルーシートを被せてこの日の作業のすべてを終えた。

時間は午後12時半。

作業のすべてを終えた坂根よらん会を慰労する。

大社のご厚意で手配されたお昼の弁当はコロッケにカラアゲ。



豚の塩焼きも美味しくいただいた。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)

龍田大社の茅刈り

2016年05月09日 09時27分28秒 | 三郷町へ
三郷町立野南に鎮座する龍田大社。

6月30日に夏越大祓式をされている神社は数多い。

大祓いは年に二回。

12月末日と6月末日の晦日の日である。

晦日、或は師走の大祓いを大々的に案内する神社は少ないが、夏を健康で無事に越す夏越の大祓は茅の輪の作法もあって特に賑わうし、ニュースなどで取り上げられることもまま増えつつある。

昨今は斎庭に立てる茅の輪の材料集めが難しくなってきている。

材料の茅は大量に採取しなければ参拝者が潜れるような大きな茅の輪にならない。

河川敷、或は緩やかな水流がある砂地にも生える茅はどこにでもあった。

採取は不自由さもなく難なくできたという人も多かった。

ところがだ、いつしか茅が消えてしまった処がある。

護岸工事によって川の流れが変わって消滅した処もある。

茅は何も河川だけでなく、村行事に必要なことから特設の茅場を設けて育てていた地域もあるぐらいだった。

龍田大社の茅の輪は前年の6月30日に潜らせていただいた。

茅を集めて茅の輪を作ると話していた“坂根よらん会”のSさん。

今年は28日の日曜日にすると娘さんが伝えてくれた。

採取の手段、製作などを拝見したいと私の願いに応えてくださった。

集合地は龍田大社だ。

時間ともなれば会の人たちがやってきた。

軽トラの荷台には刈り取る作業に使う鎌などを置いていた。

大社の禰宜さんも作業の一員。

ともに連れだって目的地に向かう。

その場は今でも覚えている大和川の河川敷だ。

平成18年4月3日に行われた瀧祭り。

斉場は磐瀬の杜だ。

磐瀬の杜では放魚祭も行われる。

平成20年4月4日に伺った放魚祭(放生会とも)の主役は大和川に放生する鯉魚だった。

磐瀬の杜は龍田大社の飛び地境内である。

古の杜は大和川の岸辺に広がる豊かな森であったが、河川の氾濫や改修工事などによってすっかり消えて、現在地に遷された。

車を停められる一角はやや広場。

丁度、その場はJR大和路線(関西本線)の列車が走る第3大和川橋梁だ。

磐瀬の杜の前は車が往来する道であるが、元々は関西本線の線路道だった。

社より南に1kmも下れば、「亀の瀬」に辿り着く大阪奈良間の街道だった。

昭和6年に発生した亀の瀬の地滑り大崩落で大和川が埋まった。

昭和7年、南岸へ迂回する線路に付け替えた。

第3大和川橋梁より200m北。

この辺りからは急なカーブを描いて鉄橋は大和川を越えて対岸になった。

亀の瀬の地滑りが発生した時期を遡れば、昭和47年、昭和26年、昭和6年・7年、明治23年、明治36年があった。

昭和34年に地滑り防止区域に指定され、さらには昭和37年に直轄施行区域が指定されて大規模な対策事業工事が始まった。

昭和42年に発生するも、以降、現在まで目に見える規模の地滑りは発生していない。

話しを茅刈りに戻そう。

一昨年は今回と同じ場で茅を刈った。

ところが、降り続けた大雨の影響で茅は泥まみれだった。

水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかった。

その関係もあって、前年の茅刈り場は勢野北口に急遽、切り替えた。

宅地造成で運ばれた土に混ざっていた茅を刈った。

茅は「ヨシ」だったと話していた。

その後の宅地造成進捗もあって茅は業者が刈り取ったらしい。

この年は大雨もなく、河川敷に植生する茅は綺麗に育っていたことから茅刈りの場は本来の地に戻された。

茅場に到着すれば早速作業が始まる。



めいめいは鎌を手にして茅刈り作業。

左手で何本かを掴んで右手でザクっと刈り取る。

刈り取っては屈む。

屈んで根株辺りをザクっと刈る。

これを繰り返す。



刈り取った茅は束にして鉄橋下に運ぶ。

運んでいる間も刈り取り作業が続く。

収穫した茅は一挙に増えて行く。



何度も、何度も抱えて運ぶ。

どちらも力が要る作業だ。



刈り取った茅は10cmぐらいの束にする。

市販の荒縄で括って崩れないようにする。

一定の長さで測った茅束は押し切り機の藁切りで切断する。



押し切り機はぐっと前に押し出すように切る。

一定の長さは葉の先から測って90cmである。

その間も茅の刈り取り作業がある。



橋梁の南側も刈れば、北側も刈る。

作業を始めてからおよそ1時間半。



茅の束を綺麗に揃えて芯の部分を朝紐で縛る。

収穫した茅束は軽トラに乗せて、次の作業場所になる龍田大社へ戻っていった

(H27. 6.28 EOS40D撮影)