前月に訪れた奈良市の「ならまち」。
建ち並ぶ町屋のそこらじゅうに赤色の消火用バケツがあった。
経年劣化であろうか、バケツは日射によって色落ちしたと思われるやや薄桃色に変色しているものもある。
消火用バケツはブリキ製もあればポリバケツ製もあった。
置いてある場は門塀前もあれば、建屋、或はガレージ扉などなどだ。
あるお家の女性が話すには隣組、それとも隣町から出火したことがあり、その後において火災が発生すれば類焼しないように消火用バケツを置くようになったと話していた。
消火用バケツを置いてある町屋はどれほどあるのか、あるとすればどこまでの範囲なのか、この日に訪れる奈良町資料館に行くついでに調べることにした。
前回は平日だった。
時間帯もあるが、行き交う人はそれほど多くはなかった。
この日は日曜日。
「ならまち」を散策する人はまあまあ多い。
闊歩する人は間違いなく観光客であろう。
町屋を改築したフアッショナブルなお店や飲食店など、どこに落ち着こうかと散策していた。
通りがかる人はお店を見るが、私が求める消火用バケツには目がいかない。
まったくといっていいほど気がつかない。
ここにもある、あそこにもある。
見つけてはしばし立ち止まって町屋の景観を見る。
主役の消火用バケツを配してバックに町屋を置く。
観光客が闊歩する状況も画面説明上に写し込む。
狙い日は雨の日だった。
しとしと降る雨に傘をさす人を配置する。
そんな状況を撮りたかったが、降ったのは夜になってからだった。
消火用バケツは置いているが、他所に医院を構えたお家にも消火用バケツがある。
真横にもう一つのバケツもある。
それは甘味処のお店屋さん。
暖簾に気がつく観光客はいるが、バケツは目もくれない。
その場でシャッターを押していたら扉がガラガラと開いた。
少し開けた扉からお顔をだしたのは老婦人。
たしか、前月に訪れたときは赤いポリバケツがあったように思えた。
老婦人がいうには奥に移したという。
婦人は大正11年12月生まれの94歳。
生まれも育ちもこの町屋。
今でこそ北行き一方通行になっている町屋筋が目の前にある。
若いころは馬車が通っていたと思いだされた町屋筋はとても狭い道。
消防車が入れなければ火災は広がることになる。
そういうことで一方通行になった町屋筋であるが、家ごとに置いてある消火用バケツは初期消火が役目だ。
婦人が生まれたときから消火用バケツがあったわけではない。
女学生を経て大学生になった。
20年どころか、30年前。
ずいぶん前のことだ。
戦後の何年か、経ったころに隣組でボヤ火災が発生した。
類焼は免れたが、大火になれば町内に広がる恐れもあると判断されて消火用バケツを置くことにした。
決断されたのは老婦人の父親。
町内会の会長を務めていたときにボヤ騒ぎがあったと話す。
当時は町内会の会費を捻出してバケツを買ったそうだ。
水溜めをしているバケツは長年経過するうちに色落ち、穴あき、破損などで買い替えしていたが、軒数が多いだけに費用もかかる。
いつしか個人対応になったようだ。
それぞれの家が買い換えるようになれば、好みによってバケツの形状も変わる。
それが現在の状況になったようだと話すS婦人。
奥行きは拝見しなかったが300坪にもあるという。
週に何日間は茶道の稽古をされている。
とはいっても先生は婦人ではなく、若い男性だ。
普段はひっそりしているが、この日は稽古をする人で茶室が賑わうらしい。
それがいちばん嬉しいのですという高御門の住民に元気をもらった。
そこより南下する町屋筋。
ほぼ、どの家であっても消火用バケツがある。
そこより東へ抜ける町屋筋がある。
商売するお店にも供えていた。
西新屋町の奈良町資料館より南下する。
そこら辺りもバケツがあった。
日が暮れる時間帯が近づいてきた。
範囲はある程度判ってきたが、本日はこれまでだ。
ところでこの日は奈良町資料館で展示されている「私かとらえた大和の民俗~衣~」のサテライト展示状況を拝見するためである。
主たる担当は県立民俗博物館の学芸員。
初の展示会場に苦労したというから激励する意味もある。
会場の背景は黒っぽいから作品が映えるように見える。
落ち着き感もあってとても良い会場だと思った。
そう思っていたら施設管理者の南哲朗館長さんが声をかけてくださった。
なんでも秋に展示ブースの一部が空くらしい。
そこに写真などを展示してはどうかというお誘いである。
学芸員も本気になりかけたが時期的にも本業が目白押し。
併用するには荷が重いと断られたが・・。
何日間も悩んで私一人で受けることにしたのはほぼ二週間も経った17日だった。
(H28. 3. 6 EOS40D撮影)
建ち並ぶ町屋のそこらじゅうに赤色の消火用バケツがあった。
経年劣化であろうか、バケツは日射によって色落ちしたと思われるやや薄桃色に変色しているものもある。
消火用バケツはブリキ製もあればポリバケツ製もあった。
置いてある場は門塀前もあれば、建屋、或はガレージ扉などなどだ。
あるお家の女性が話すには隣組、それとも隣町から出火したことがあり、その後において火災が発生すれば類焼しないように消火用バケツを置くようになったと話していた。
消火用バケツを置いてある町屋はどれほどあるのか、あるとすればどこまでの範囲なのか、この日に訪れる奈良町資料館に行くついでに調べることにした。
前回は平日だった。
時間帯もあるが、行き交う人はそれほど多くはなかった。
この日は日曜日。
「ならまち」を散策する人はまあまあ多い。
闊歩する人は間違いなく観光客であろう。
町屋を改築したフアッショナブルなお店や飲食店など、どこに落ち着こうかと散策していた。
通りがかる人はお店を見るが、私が求める消火用バケツには目がいかない。
まったくといっていいほど気がつかない。
ここにもある、あそこにもある。
見つけてはしばし立ち止まって町屋の景観を見る。
主役の消火用バケツを配してバックに町屋を置く。
観光客が闊歩する状況も画面説明上に写し込む。
狙い日は雨の日だった。
しとしと降る雨に傘をさす人を配置する。
そんな状況を撮りたかったが、降ったのは夜になってからだった。
消火用バケツは置いているが、他所に医院を構えたお家にも消火用バケツがある。
真横にもう一つのバケツもある。
それは甘味処のお店屋さん。
暖簾に気がつく観光客はいるが、バケツは目もくれない。
その場でシャッターを押していたら扉がガラガラと開いた。
少し開けた扉からお顔をだしたのは老婦人。
たしか、前月に訪れたときは赤いポリバケツがあったように思えた。
老婦人がいうには奥に移したという。
婦人は大正11年12月生まれの94歳。
生まれも育ちもこの町屋。
今でこそ北行き一方通行になっている町屋筋が目の前にある。
若いころは馬車が通っていたと思いだされた町屋筋はとても狭い道。
消防車が入れなければ火災は広がることになる。
そういうことで一方通行になった町屋筋であるが、家ごとに置いてある消火用バケツは初期消火が役目だ。
婦人が生まれたときから消火用バケツがあったわけではない。
女学生を経て大学生になった。
20年どころか、30年前。
ずいぶん前のことだ。
戦後の何年か、経ったころに隣組でボヤ火災が発生した。
類焼は免れたが、大火になれば町内に広がる恐れもあると判断されて消火用バケツを置くことにした。
決断されたのは老婦人の父親。
町内会の会長を務めていたときにボヤ騒ぎがあったと話す。
当時は町内会の会費を捻出してバケツを買ったそうだ。
水溜めをしているバケツは長年経過するうちに色落ち、穴あき、破損などで買い替えしていたが、軒数が多いだけに費用もかかる。
いつしか個人対応になったようだ。
それぞれの家が買い換えるようになれば、好みによってバケツの形状も変わる。
それが現在の状況になったようだと話すS婦人。
奥行きは拝見しなかったが300坪にもあるという。
週に何日間は茶道の稽古をされている。
とはいっても先生は婦人ではなく、若い男性だ。
普段はひっそりしているが、この日は稽古をする人で茶室が賑わうらしい。
それがいちばん嬉しいのですという高御門の住民に元気をもらった。
そこより南下する町屋筋。
ほぼ、どの家であっても消火用バケツがある。
そこより東へ抜ける町屋筋がある。
商売するお店にも供えていた。
西新屋町の奈良町資料館より南下する。
そこら辺りもバケツがあった。
日が暮れる時間帯が近づいてきた。
範囲はある程度判ってきたが、本日はこれまでだ。
ところでこの日は奈良町資料館で展示されている「私かとらえた大和の民俗~衣~」のサテライト展示状況を拝見するためである。
主たる担当は県立民俗博物館の学芸員。
初の展示会場に苦労したというから激励する意味もある。
会場の背景は黒っぽいから作品が映えるように見える。
落ち着き感もあってとても良い会場だと思った。
そう思っていたら施設管理者の南哲朗館長さんが声をかけてくださった。
なんでも秋に展示ブースの一部が空くらしい。
そこに写真などを展示してはどうかというお誘いである。
学芸員も本気になりかけたが時期的にも本業が目白押し。
併用するには荷が重いと断られたが・・。
何日間も悩んで私一人で受けることにしたのはほぼ二週間も経った17日だった。
(H28. 3. 6 EOS40D撮影)