FBで氷室神社の大宮守人宮司が紹介していた京終の春日講(別称に充てる漢字が親日講;しんにちこう)のトウヤ祭(当屋祭)。
春日講中は9軒ほどのようだ。
春日講は春日曼荼羅や鹿曼荼羅、春日赤童子像などの掛軸を掲げて春日信仰する講中である。
江戸時代、奈良町界隈には、すべてではないが町ごとに春日講があったようだ。
やがて近年になって解散した講中もあり、ご本尊の掛軸や古文書などを奈良国立博物館、奈良市教育委員会史料保存館に寄託、大切に保管・保存されている。
京終の春日講を始めて知ったのは随分前のことだ。
平成20年1月21日に取材された奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた映像を拝見させてもらった。
その映像にはトウヤ(当屋)家の床の間に掲げた鹿曼荼羅図もあれば、傍にはヤカタも置いてあった。
その場は杉の葉で覆った竹の垣を設えていた。
しかも、だ。
それは下にもあれば上にもある珍しい形態に感動したものだ。
なんとなく奈良市大柳生の廻り明神の頭屋家で拝見した垣とよく似ていたが、大柳生は床の間の上だけだった。
昨年の平成27年10月5日に訪れた奈良市北京終町の京終天神社。
花切祭に奉納された梅の枝花を本殿に奉ってあると大宮守人宮司がFBで紹介していた。
一度は拝見しておこうと思って立ち寄ったのだ。
花切祭を務めたのは当座(当家座)であるが、たまたま神社に来られた男性の話題提供から知るに、京終の春日講(しんにちこう)の講中は、同神社周辺に住む人らのようだった。
もしかとすれば、であるが、何人かは春日講の籍もあれば当座(当家座)でもある可能性が高いと思われた。
聞き取りはしたかったが、仮停車した車のことが気がかりでやむなく断念したことを覚えている。
大宮守人宮司がFBで紹介していた史料に「史料保存館」の名があった。
館の所在地はならまち界隈の脇戸町にある。
南に少し歩けば鳴川町。
サンハライ念仏踊りでお世話になった徳融寺がある筋道にある。
実は史料保存館の館長は存じている方だ。
なにかと気にかけてもらって私が調査している民俗に関する史料を提供してくださる。
展示に関するお話しが聴けたらと思って施設を探して歩いた。
扉は自動扉。
手で触れたら開く。
一歩、足を踏み込んだら受付があった。
お声をかけて入館料はおいくらですか、と尋ねたら無料の返答。
そうだったのだ。
かくかくしかじかで企画展の展示物を拝見したいとお願いしたら、学芸員が下りて来られた。
まさかと思った館長さんは写真家のご主人ともよく存じているKさんだった。
企画展示物は壁に掲げた春日曼荼羅や鹿曼荼羅などであるが、いずれも撮影された複製もの。
本物は寄託された奈良国立博物館にある。
展示コーナーに置かれた列品は古文書。
ガラス越しに拝見する。
K館長は今回の企画展に際して京終の春日講行事を取材していたという。
企画展に春日講を推薦したのは市教育委員会の岩坂七雄さん。
民俗や行事ごとなどに詳しい。
京終の春日講はトウヤ(当屋)の家に講中が集まって垣を作る。
曼荼羅図を掲げて作った垣を設える。
トウヤ祭は氷室神社の大宮守人宮司によるお祓いがある。
それが終われば膳を囲んでしばらくは直会の場。
そして、春日の若宮さんまで出かけてお参りをする。
それから春日大社の神楽殿に行く。
春日大社の巫女さんが舞う神楽を京終の春日講が奉納するのである。
この様子は同行取材していた写真家Kさんからも後日に聞いた。
トウヤ(当屋)の家で上・下の垣作りをして床の間に設営する。
神饌を供えて宮司がお祓いをする。
ささやかに直会を済ませてお参りに出る。
参り始めは鹿煎餅を差し出して鹿に食べてもらう。
神さんの遣いということのようだ。
次は参道。
両脇に並ぶたくさんの灯籠がある。
そのなかに京終が寄進した灯籠がある。
そこを参拝したら春日若宮社へ参る。
次に春日大社へ向かう。
ここでは神楽殿にて春日巫女による神楽奉納する。
参拝を終えたら直会。
場は老舗料亭の菊水楼のようだ。
直会以外の一部始終をとらえたKさんが云うには御供の祭り方に違和感をもったらしい。
この年は垣の内部に御供があったというのだ。
一方、史料保存館が作成した資料写真では御供は垣の外側にある。
奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた平成20年1月21日の映像では御供は垣の内部にある。
もしかとすれば資料保存のときに撮った写真は体裁を考慮して垣の前に並べたのかもしれない。
現在もなお営みをされている春日講は京終以外に2地域がある。
一つは奈良市東城戸会所で行われる東城戸の春日講である。
大国主命神社を併設する会所床の間に奈良国立博物館に寄託されている春日宮曼荼羅の掛軸を掲げてお参り。
そして氏神さんの御霊神社に参る。
要件は別だったと思うが、ネットで若干ふれていたブログで拝見した。
それはいつしかどこにあったのか判らなくなった。
再び、東城戸の春日講を知ったのは平成25年3月17日のことだ。
奈良市今市に私は居た。
その日にされると知った今市のコネンブツだ。
場所が判らず、池周りを歩いていた。
ある家の前で二人の老婦人が居られた。
場所を探していたチバミ墓地を尋ねれば、今からそこへ行くという。
もう一人の婦人はその家の知人。
たまたま出合ったその人とも伝統的な行事を調査していると話せば、その婦人が云った。
婦人の住まいは今市ではなく、奈良市東城戸だった。
今でも会所に寄り合って春日講を営んでいるというのだ。
お伺いは可能かどうか聞いて見たら、是非と云われた。
S婦人が住まいするのは会所付近の辻の家らしい。
探してみたいが、未だ訪問できずにいる。
現に今でも春日講の行事をしているのは奈良市東九条町の春日元講だ。
東九条町字宮ノ森に鎮座する八幡神社がある。
前年の平成27年10月21日、22日に訪れたことがある。
数年前より斎行されている作宮司を訪ねてでかけたことがある神社だ。
東九条町の八幡神社は、かつて辰市村に鎮座。
奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば八幡神社に宮座があると書かれていた。
左座・右座からなる十二人衆。
年長の者より一﨟(ろう)、二﨟と呼んでいたとある。
座であれば、春日元講も兼ねているかもしれない。
K館長の話しによれば東九条町の春日講は三つあるらしいが、講元までたどり着けずに取材は断念したそうだ。
史料保存館の資料によれば東九条町の春日元講が所有する天正六年(1578)作・春日鹿曼荼羅は奈良国立博物館に預かってもらい大切に保管しているという。
が、である。
講中11軒の営みの日だけは戻してもらって拝んでいるそうだ。
一日限りの礼拝に貴重な鹿曼荼羅に手を合わせるらしい。
館長が云うには、ならまち界隈以外にも県内各地に春日講があるらしいが、担当することもなく調査もされていないようだ。
遠く離れた大和高田市や広陵町にもあったともいう春日講の分布は広い。
私は奈良県内で行われている数々の伝統行事を取材している。
取材対象ではなかった春日講のことをときおり耳にすることが増えていた。
一つは奈良市法蓮町の法蓮会所で行われる。
4月半ばの講中が集まりやすい日を選んで営まれる。
会所の床の間に春日曼荼羅を掲げて講中はタケノコ料理をよばれる。
昭和40年代までは4組もあった春日講は1組に合体して行事をしている。
春日祭は柳生から石田武士宮司に来てもらって神事をしていると法蓮町の人たちが話していた。
ちなみに法蓮町の春日講は平成24年12月現在で68軒(以前は77軒)。
東脇地区、東西の南脇地区、西地区の4講中が5月ころに集まるとか・・・。
二つ目に奈良市佐紀中町に鎮座する釣殿神社の年中行事に新日講の名がある行事がある。
新日講(しんにちこう)は春日講(しゅんにちこう)が訛ったよう行事名だ。
新日講の講中は上・下の六人衆および引退者である。
2月11日に行われる場は神社でなく料理屋である。
掛軸の有無は聞いていないし、料理屋での会食が中心になる取材は講中に迷惑になるであろうと判断して断念した。
三つめに春日神社が鎮座する川西町上吐田がある。
年中行事を執行しているのは宮座の春日講の宮十人衆と五人衆だ。
2月15日に地区で行われる大とんども担っているが、ならまち界隈に見られるような春日講ではないようだ。
四つ目は同じく宮座の春日講に斑鳩町北庄がある。
鎮座する春日神社の年中行事を務めるのは元宮座十人衆。
春日講とも呼んでいる座であるが、ここもまたならまち界隈に見られるような春日講ではない。
五つ目は天理市和爾町北垣内の和爾坐赤坂比古神社のオンダ行事をされていた座中・大老の話しだ。
詳しくは聞いていないが、2月21日辺りの土曜か日曜日に親日講があると話していた。
これもまた春日講(しゅんにちこう)が訛った親日講(しんにちこう)の呼び名である。
六つ目は珠光忌で名高い奈良市菖蒲池町にある称名寺だ。
平成24年5月15日に訪れたときのことだ。

本堂東側に建つ地蔵堂に目がいった。
鰐口を鳴らす垂らした鉦の緒の布に「北市春日講」の文字が書いてあった。
地蔵堂は北市の地蔵尊だった。
真新しいお花を立てていたから今でも北市の人たちが参っているのだろう。
称名寺にはかつて鎮守社の春日社があったようだ。
その証しかどうか判らないが、春日曼荼羅(鹿曼荼羅)が同寺に収められている。
なお、『奈良町コミュニテイ』資料によれば、行事の詳細は判らないが、北市町に北市戎神社が鎮座し、春日講日待ちがあると書かれてあった。
称名寺に建つ地蔵尊との関連性があるのかも知れない。
館長は春日講についてさまざまなことを教えてくださる。
史料保存会に寄託された元興寺町旧蔵の明治三年から記載された『爆竹之日記』の裏表紙に春日講の世話役となる年預(ねんよ)の名前があるそうだ。
史料によれば江戸時代の春日講は新年初参会を皮切りに、新しく町入りする人を在住民に紹介する。
子供の誕生、結婚、代替わり、還暦などの緒祝儀を披露することまでしていた。
春日講の営みだけでなく町の自治や町内運営の集金・費用入用の会計までこなす。
任期は何年か判らないが、今では考えられないくらいの大役である。
企画展には春日大社の参道に建つ灯籠まで紹介していた。
実物は参道に出かけて探さなければならないが、写真で紹介していた。
一つは万治二年(1659)に寄進、東九条村春日社講中が奉納した灯籠だ。
もう一つは元和三年(1617)に寄進、京終町春日講中各々が奉納した灯籠である。
参道に建之された灯籠にはこの二基の他、奈良町界隈の各町や大坂、江戸の名もあるらしい。
同館資料の『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』によれば、井上町の春日講が寄進した灯籠は三基もあるそうだ。
『町中年代記』は延宝二年(1678)より<※ 享保十五年(1730)~宝暦六年(1756)まで欠損>現代まで年寄(ねんよ)と呼ばれる代々の年役が連綿と書き記してきた貴重な史料である。
前述した元興寺町の年預(ねんよ)でも紹介した大役。
井上町の年寄(ねんよ)も同じように、「十分一銀」と呼ぶ新たに家を買って町入りをする際に町へ納めた祝儀や代替わりの「面替り」、元服披露の「刀酒」、婚姻祝儀の「水酒」・「よめ入り」、誕生子披露祝儀の「子酒」、還暦祝儀の「官途」などに記載は興味深い。
最も古いのは寛文四年(1664)。
この灯籠は享保十一年(1726)に再興されたとあり、「御師(おんし)櫟本庄左衛門~燈明料1年分新銀二両宛渡した」とあるそうだ。
一年分の燈明料は春日大社に預けたことは判るが、どなたが灯籠に火を灯していたのか、火点けは毎日だったのか・・・。
寄進した灯籠はもう二基ある。
一つは正徳五年(1716)に寄進された灯籠には24名の講中名が刻まれているそうだ。
二つ目に宝暦十四年(1764)三月に寄進した灯籠である。
『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』に「春日太々神楽(だいだいかぐら)の奉納」が書かれている。
この件についても館長が解説してくださった。
奈良町界隈の町では町ごとの春日講の他に奈良町全体で組まれた大規模な組織体となる春日社神楽講があった。
内侍原町の医師である瀧野梅雲が願主となって同町が講元として安永六年(1777)に始めたそうだ。
春日大社の神前に奉納する神楽は神楽、太神楽(だいかぐら)、太々神楽(だいだいかぐら)の三つだ。
梅本組は太々神楽を奉納していたようだ。
奉納日は決まった日で6月16日。
当番町は毎年交替して務めた。
神楽奉納の後は鳥居横の車舎で直会を催していた。
当番町の役目は奈良町中から大和郡山方面まで出かけて寄進を集めることから始まって、社家の富田家と拝殿五郎左衛門に神楽料を納める。
一方、当番町では祭場を設ける。
臨時というか一時的な鳥居を建てて飾り付けをする。
14日から16日に掲げる提灯を隣町にお願いもする。
文政元年(1818)の記録によれば、祭場周りに柴(しば)で玉垣を巡らし、参拝者に楽しんでもらうため、3ケ所に立山人形を、さらには作りもの<※橿原市八木の愛宕まつりに立てる御供と同じように感じる>を5ケ所に揃えた。
たぶんに手作りと思われる当番町内が製作した立山人形の前には立花を飾って華やかさを演出した。
平成28年1月29日から2月2日までの短期間に平城京跡で行われた奈良県主催冬季誘客イベントの大立山まつりが開催された。
集客は5万人にもなったと県庁発表をニュースが伝えていた。
大立山まつりのメインイベントは造り物の四天王の人形像。
まるで青森ねぷたのような仕組みであったようだ。
製作費は税の2億円。
その造り物をとらえるカメラマンも多かったようだ。
県初の大イベントは厄祓いが主旨とかをどなたかが云ったというようだが真相は判らない。
ところがだ、会場の一角、といっても会場門外の片隅にあった本物の「立山」があった。
広陵町三吉・大垣内が製作した立山が展示していたそうだ。
それを紹介していたのは名高いカメラマンの今駒清則氏だった。
三つの展示は今回の大イベントに合わせて作ったそうだ。
三つの内訳は「天平の貴族」、「あまのいわと」に広陵町らしい町の伝説を表現した「かぐやひめ」だった。
大立山まつりは江戸時代から続く地域の伝統行事を足蹴りするように展示をしつつ、メインの四天王の人形像が映える会場作りをした。
「立山」の主旨も意味合いもまったく違うことが江戸時代にあったのに、である。
立山を今尚継承してきた地域は御所市東名柄、広陵町三吉、橿原市八木町、の3ケ所である。
田原本町以外はニュースなどで取り上げられることもある。
私は未だ拝見していないが、津島神社の氏子の話しによれば、その昔に「立山」と呼ばれる世相をおもしろおかしく表現した人形の造りものがあった。
本町、材木町、市町などの町内ごとに立山の世話人が、空き家を利用して子どもらと一緒に作って飾っていた。
今でもしている可能性があると思っていたが・・・どうやら平成20年ころに途絶えたようなことをネットで公開している記事を拝見して愕然としたことがある。
かつて立山があった地域に住んでいた人たちの聞き取り調査である程度が判ってきた。
仕事柄、送迎している患者さんたちの声によれば、大和郡山市の横田町、天理市の櫟本町・南六条町・二階堂などである。
櫟本町では氏神の和爾下神社の祇園祭のときだ。
川沿いに並んだ店の数か所に立てた。
南六条町では鎮守社の杵築神社の秋のマツリだ。
二階堂は街道筋の民家の広い場に設えていた。
横田町では横田町に鎮座する治道の和爾下神社前の電器屋や南の辻など5か所に立てていた。
いずれも80歳以上の老婦人が子供のころを思いだされた記憶にある。
横田町の村人たちが記憶する様相はよく判る。
祇園さんの祭りとも称さる夏祭りだ。
青年団があった50年以上も前、村の辻々に提灯を掲げて立山を行っていたという。
5軒ほどの納屋を開放して、ムギワラで人形を作り飾ってその年の世相を表現した。
舞台を組んで芝居もしていた。
それを見に行くのが楽しみだったと子どものころの様相を懐かしそうに話されたことを思いだす手作りの立山はだいたいが夏祭りだったようである。
立山は盆地平坦だけでなく山間地にもあった。
『やまぞえ双書』によれば大字箕輪にあったと伝わる。
9月12日に行われていた村行事の毘沙門会式に若衆(若中)が工夫を凝らして作った立山を披露していたようだ。
同村には女子部があり、箕輪組、八丁組、堂前組のそれぞれが競い合っていた。
戦時中に途絶えた立山(山づくり)は昭和22年に一時的に復活。
再び長らく途絶えて平成3年に復活するも続かずにこの年を最後に途絶えた。
なお、吉野町にも立山がありそうだ。
実見はしていないので何とも言えないが、日程は7月末の土曜日、吉野町上市の花火大会の日である。
平成26年に行われた資料がインターネットにあった。
後日に消えてしまった興味ある情報だった。
場所は上市の六軒町の金川工業所辺りになるようだ。
その場であるのかどうか判らないが、その日は祭文踊りもあるようやに、書いていた。
この件については実態調査をする考えにある。
あれば県内事例に数えられる貴重な立山行事である。
平成28年7月末の土曜日。
探した六軒町の立山は実際にされていたのである。
ここでは詳しく触れまいが、たしかにあったことを先に書いておく。
『井上町 町中年代記の世界』の編集後記に「年代記を書き継いだ人々」と題して次のことがかかれている。
「宝暦七年(1757)、町役になった美濃屋喜右衛門は年代記の引継ぎに、一、年代記にいたみのあるところを修理して箱を新調、二、年代記、券文借家請状などは箱に納めて年役に廻す、三、珍しい出来事は何によらず年代記に記録、四、火事のときは第一に年代記に気を配る、五、年代記の書き込みが延引したり、年号や日付が前後する場合であっても、また聞き伝えなども含めて記録、以上のことを踏まえて書きおくことは後のために役立つときもあるだろう、と書き残している」の記述があった。
まことに示唆される未来に亘って永く続けて書かれていくことを願った文だ。
私の民俗探訪記は村人の代理人の立場になって、後世に伝え、役立てられるものを、と思って取材・執筆してきた。文だけではなく、写真も、である。
写真も後世に伝えたい記録である。
還暦を迎えて5年。
身体的、年齢的にも動ける範囲は限られるようになったが、今後も一歩、一歩、取材地へ足を運びたいと思っている。
(H28. 2. 4 SB932SH撮影)
春日講中は9軒ほどのようだ。
春日講は春日曼荼羅や鹿曼荼羅、春日赤童子像などの掛軸を掲げて春日信仰する講中である。
江戸時代、奈良町界隈には、すべてではないが町ごとに春日講があったようだ。
やがて近年になって解散した講中もあり、ご本尊の掛軸や古文書などを奈良国立博物館、奈良市教育委員会史料保存館に寄託、大切に保管・保存されている。
京終の春日講を始めて知ったのは随分前のことだ。
平成20年1月21日に取材された奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた映像を拝見させてもらった。
その映像にはトウヤ(当屋)家の床の間に掲げた鹿曼荼羅図もあれば、傍にはヤカタも置いてあった。
その場は杉の葉で覆った竹の垣を設えていた。
しかも、だ。
それは下にもあれば上にもある珍しい形態に感動したものだ。
なんとなく奈良市大柳生の廻り明神の頭屋家で拝見した垣とよく似ていたが、大柳生は床の間の上だけだった。
昨年の平成27年10月5日に訪れた奈良市北京終町の京終天神社。
花切祭に奉納された梅の枝花を本殿に奉ってあると大宮守人宮司がFBで紹介していた。
一度は拝見しておこうと思って立ち寄ったのだ。
花切祭を務めたのは当座(当家座)であるが、たまたま神社に来られた男性の話題提供から知るに、京終の春日講(しんにちこう)の講中は、同神社周辺に住む人らのようだった。
もしかとすれば、であるが、何人かは春日講の籍もあれば当座(当家座)でもある可能性が高いと思われた。
聞き取りはしたかったが、仮停車した車のことが気がかりでやむなく断念したことを覚えている。
大宮守人宮司がFBで紹介していた史料に「史料保存館」の名があった。
館の所在地はならまち界隈の脇戸町にある。
南に少し歩けば鳴川町。
サンハライ念仏踊りでお世話になった徳融寺がある筋道にある。
実は史料保存館の館長は存じている方だ。
なにかと気にかけてもらって私が調査している民俗に関する史料を提供してくださる。
展示に関するお話しが聴けたらと思って施設を探して歩いた。
扉は自動扉。
手で触れたら開く。
一歩、足を踏み込んだら受付があった。
お声をかけて入館料はおいくらですか、と尋ねたら無料の返答。
そうだったのだ。
かくかくしかじかで企画展の展示物を拝見したいとお願いしたら、学芸員が下りて来られた。
まさかと思った館長さんは写真家のご主人ともよく存じているKさんだった。
企画展示物は壁に掲げた春日曼荼羅や鹿曼荼羅などであるが、いずれも撮影された複製もの。
本物は寄託された奈良国立博物館にある。
展示コーナーに置かれた列品は古文書。
ガラス越しに拝見する。
K館長は今回の企画展に際して京終の春日講行事を取材していたという。
企画展に春日講を推薦したのは市教育委員会の岩坂七雄さん。
民俗や行事ごとなどに詳しい。
京終の春日講はトウヤ(当屋)の家に講中が集まって垣を作る。
曼荼羅図を掲げて作った垣を設える。
トウヤ祭は氷室神社の大宮守人宮司によるお祓いがある。
それが終われば膳を囲んでしばらくは直会の場。
そして、春日の若宮さんまで出かけてお参りをする。
それから春日大社の神楽殿に行く。
春日大社の巫女さんが舞う神楽を京終の春日講が奉納するのである。
この様子は同行取材していた写真家Kさんからも後日に聞いた。
トウヤ(当屋)の家で上・下の垣作りをして床の間に設営する。
神饌を供えて宮司がお祓いをする。
ささやかに直会を済ませてお参りに出る。
参り始めは鹿煎餅を差し出して鹿に食べてもらう。
神さんの遣いということのようだ。
次は参道。
両脇に並ぶたくさんの灯籠がある。
そのなかに京終が寄進した灯籠がある。
そこを参拝したら春日若宮社へ参る。
次に春日大社へ向かう。
ここでは神楽殿にて春日巫女による神楽奉納する。
参拝を終えたら直会。
場は老舗料亭の菊水楼のようだ。
直会以外の一部始終をとらえたKさんが云うには御供の祭り方に違和感をもったらしい。
この年は垣の内部に御供があったというのだ。
一方、史料保存館が作成した資料写真では御供は垣の外側にある。
奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた平成20年1月21日の映像では御供は垣の内部にある。
もしかとすれば資料保存のときに撮った写真は体裁を考慮して垣の前に並べたのかもしれない。
現在もなお営みをされている春日講は京終以外に2地域がある。
一つは奈良市東城戸会所で行われる東城戸の春日講である。
大国主命神社を併設する会所床の間に奈良国立博物館に寄託されている春日宮曼荼羅の掛軸を掲げてお参り。
そして氏神さんの御霊神社に参る。
要件は別だったと思うが、ネットで若干ふれていたブログで拝見した。
それはいつしかどこにあったのか判らなくなった。
再び、東城戸の春日講を知ったのは平成25年3月17日のことだ。
奈良市今市に私は居た。
その日にされると知った今市のコネンブツだ。
場所が判らず、池周りを歩いていた。
ある家の前で二人の老婦人が居られた。
場所を探していたチバミ墓地を尋ねれば、今からそこへ行くという。
もう一人の婦人はその家の知人。
たまたま出合ったその人とも伝統的な行事を調査していると話せば、その婦人が云った。
婦人の住まいは今市ではなく、奈良市東城戸だった。
今でも会所に寄り合って春日講を営んでいるというのだ。
お伺いは可能かどうか聞いて見たら、是非と云われた。
S婦人が住まいするのは会所付近の辻の家らしい。
探してみたいが、未だ訪問できずにいる。
現に今でも春日講の行事をしているのは奈良市東九条町の春日元講だ。
東九条町字宮ノ森に鎮座する八幡神社がある。
前年の平成27年10月21日、22日に訪れたことがある。
数年前より斎行されている作宮司を訪ねてでかけたことがある神社だ。
東九条町の八幡神社は、かつて辰市村に鎮座。
奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば八幡神社に宮座があると書かれていた。
左座・右座からなる十二人衆。
年長の者より一﨟(ろう)、二﨟と呼んでいたとある。
座であれば、春日元講も兼ねているかもしれない。
K館長の話しによれば東九条町の春日講は三つあるらしいが、講元までたどり着けずに取材は断念したそうだ。
史料保存館の資料によれば東九条町の春日元講が所有する天正六年(1578)作・春日鹿曼荼羅は奈良国立博物館に預かってもらい大切に保管しているという。
が、である。
講中11軒の営みの日だけは戻してもらって拝んでいるそうだ。
一日限りの礼拝に貴重な鹿曼荼羅に手を合わせるらしい。
館長が云うには、ならまち界隈以外にも県内各地に春日講があるらしいが、担当することもなく調査もされていないようだ。
遠く離れた大和高田市や広陵町にもあったともいう春日講の分布は広い。
私は奈良県内で行われている数々の伝統行事を取材している。
取材対象ではなかった春日講のことをときおり耳にすることが増えていた。
一つは奈良市法蓮町の法蓮会所で行われる。
4月半ばの講中が集まりやすい日を選んで営まれる。
会所の床の間に春日曼荼羅を掲げて講中はタケノコ料理をよばれる。
昭和40年代までは4組もあった春日講は1組に合体して行事をしている。
春日祭は柳生から石田武士宮司に来てもらって神事をしていると法蓮町の人たちが話していた。
ちなみに法蓮町の春日講は平成24年12月現在で68軒(以前は77軒)。
東脇地区、東西の南脇地区、西地区の4講中が5月ころに集まるとか・・・。
二つ目に奈良市佐紀中町に鎮座する釣殿神社の年中行事に新日講の名がある行事がある。
新日講(しんにちこう)は春日講(しゅんにちこう)が訛ったよう行事名だ。
新日講の講中は上・下の六人衆および引退者である。
2月11日に行われる場は神社でなく料理屋である。
掛軸の有無は聞いていないし、料理屋での会食が中心になる取材は講中に迷惑になるであろうと判断して断念した。
三つめに春日神社が鎮座する川西町上吐田がある。
年中行事を執行しているのは宮座の春日講の宮十人衆と五人衆だ。
2月15日に地区で行われる大とんども担っているが、ならまち界隈に見られるような春日講ではないようだ。
四つ目は同じく宮座の春日講に斑鳩町北庄がある。
鎮座する春日神社の年中行事を務めるのは元宮座十人衆。
春日講とも呼んでいる座であるが、ここもまたならまち界隈に見られるような春日講ではない。
五つ目は天理市和爾町北垣内の和爾坐赤坂比古神社のオンダ行事をされていた座中・大老の話しだ。
詳しくは聞いていないが、2月21日辺りの土曜か日曜日に親日講があると話していた。
これもまた春日講(しゅんにちこう)が訛った親日講(しんにちこう)の呼び名である。
六つ目は珠光忌で名高い奈良市菖蒲池町にある称名寺だ。
平成24年5月15日に訪れたときのことだ。

本堂東側に建つ地蔵堂に目がいった。
鰐口を鳴らす垂らした鉦の緒の布に「北市春日講」の文字が書いてあった。
地蔵堂は北市の地蔵尊だった。
真新しいお花を立てていたから今でも北市の人たちが参っているのだろう。
称名寺にはかつて鎮守社の春日社があったようだ。
その証しかどうか判らないが、春日曼荼羅(鹿曼荼羅)が同寺に収められている。
なお、『奈良町コミュニテイ』資料によれば、行事の詳細は判らないが、北市町に北市戎神社が鎮座し、春日講日待ちがあると書かれてあった。
称名寺に建つ地蔵尊との関連性があるのかも知れない。
館長は春日講についてさまざまなことを教えてくださる。
史料保存会に寄託された元興寺町旧蔵の明治三年から記載された『爆竹之日記』の裏表紙に春日講の世話役となる年預(ねんよ)の名前があるそうだ。
史料によれば江戸時代の春日講は新年初参会を皮切りに、新しく町入りする人を在住民に紹介する。
子供の誕生、結婚、代替わり、還暦などの緒祝儀を披露することまでしていた。
春日講の営みだけでなく町の自治や町内運営の集金・費用入用の会計までこなす。
任期は何年か判らないが、今では考えられないくらいの大役である。
企画展には春日大社の参道に建つ灯籠まで紹介していた。
実物は参道に出かけて探さなければならないが、写真で紹介していた。
一つは万治二年(1659)に寄進、東九条村春日社講中が奉納した灯籠だ。
もう一つは元和三年(1617)に寄進、京終町春日講中各々が奉納した灯籠である。
参道に建之された灯籠にはこの二基の他、奈良町界隈の各町や大坂、江戸の名もあるらしい。
同館資料の『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』によれば、井上町の春日講が寄進した灯籠は三基もあるそうだ。
『町中年代記』は延宝二年(1678)より<※ 享保十五年(1730)~宝暦六年(1756)まで欠損>現代まで年寄(ねんよ)と呼ばれる代々の年役が連綿と書き記してきた貴重な史料である。
前述した元興寺町の年預(ねんよ)でも紹介した大役。
井上町の年寄(ねんよ)も同じように、「十分一銀」と呼ぶ新たに家を買って町入りをする際に町へ納めた祝儀や代替わりの「面替り」、元服披露の「刀酒」、婚姻祝儀の「水酒」・「よめ入り」、誕生子披露祝儀の「子酒」、還暦祝儀の「官途」などに記載は興味深い。
最も古いのは寛文四年(1664)。
この灯籠は享保十一年(1726)に再興されたとあり、「御師(おんし)櫟本庄左衛門~燈明料1年分新銀二両宛渡した」とあるそうだ。
一年分の燈明料は春日大社に預けたことは判るが、どなたが灯籠に火を灯していたのか、火点けは毎日だったのか・・・。
寄進した灯籠はもう二基ある。
一つは正徳五年(1716)に寄進された灯籠には24名の講中名が刻まれているそうだ。
二つ目に宝暦十四年(1764)三月に寄進した灯籠である。
『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』に「春日太々神楽(だいだいかぐら)の奉納」が書かれている。
この件についても館長が解説してくださった。
奈良町界隈の町では町ごとの春日講の他に奈良町全体で組まれた大規模な組織体となる春日社神楽講があった。
内侍原町の医師である瀧野梅雲が願主となって同町が講元として安永六年(1777)に始めたそうだ。
春日大社の神前に奉納する神楽は神楽、太神楽(だいかぐら)、太々神楽(だいだいかぐら)の三つだ。
梅本組は太々神楽を奉納していたようだ。
奉納日は決まった日で6月16日。
当番町は毎年交替して務めた。
神楽奉納の後は鳥居横の車舎で直会を催していた。
当番町の役目は奈良町中から大和郡山方面まで出かけて寄進を集めることから始まって、社家の富田家と拝殿五郎左衛門に神楽料を納める。
一方、当番町では祭場を設ける。
臨時というか一時的な鳥居を建てて飾り付けをする。
14日から16日に掲げる提灯を隣町にお願いもする。
文政元年(1818)の記録によれば、祭場周りに柴(しば)で玉垣を巡らし、参拝者に楽しんでもらうため、3ケ所に立山人形を、さらには作りもの<※橿原市八木の愛宕まつりに立てる御供と同じように感じる>を5ケ所に揃えた。
たぶんに手作りと思われる当番町内が製作した立山人形の前には立花を飾って華やかさを演出した。
平成28年1月29日から2月2日までの短期間に平城京跡で行われた奈良県主催冬季誘客イベントの大立山まつりが開催された。
集客は5万人にもなったと県庁発表をニュースが伝えていた。
大立山まつりのメインイベントは造り物の四天王の人形像。
まるで青森ねぷたのような仕組みであったようだ。
製作費は税の2億円。
その造り物をとらえるカメラマンも多かったようだ。
県初の大イベントは厄祓いが主旨とかをどなたかが云ったというようだが真相は判らない。
ところがだ、会場の一角、といっても会場門外の片隅にあった本物の「立山」があった。
広陵町三吉・大垣内が製作した立山が展示していたそうだ。
それを紹介していたのは名高いカメラマンの今駒清則氏だった。
三つの展示は今回の大イベントに合わせて作ったそうだ。
三つの内訳は「天平の貴族」、「あまのいわと」に広陵町らしい町の伝説を表現した「かぐやひめ」だった。
大立山まつりは江戸時代から続く地域の伝統行事を足蹴りするように展示をしつつ、メインの四天王の人形像が映える会場作りをした。
「立山」の主旨も意味合いもまったく違うことが江戸時代にあったのに、である。
立山を今尚継承してきた地域は御所市東名柄、広陵町三吉、橿原市八木町、の3ケ所である。
田原本町以外はニュースなどで取り上げられることもある。
私は未だ拝見していないが、津島神社の氏子の話しによれば、その昔に「立山」と呼ばれる世相をおもしろおかしく表現した人形の造りものがあった。
本町、材木町、市町などの町内ごとに立山の世話人が、空き家を利用して子どもらと一緒に作って飾っていた。
今でもしている可能性があると思っていたが・・・どうやら平成20年ころに途絶えたようなことをネットで公開している記事を拝見して愕然としたことがある。
かつて立山があった地域に住んでいた人たちの聞き取り調査である程度が判ってきた。
仕事柄、送迎している患者さんたちの声によれば、大和郡山市の横田町、天理市の櫟本町・南六条町・二階堂などである。
櫟本町では氏神の和爾下神社の祇園祭のときだ。
川沿いに並んだ店の数か所に立てた。
南六条町では鎮守社の杵築神社の秋のマツリだ。
二階堂は街道筋の民家の広い場に設えていた。
横田町では横田町に鎮座する治道の和爾下神社前の電器屋や南の辻など5か所に立てていた。
いずれも80歳以上の老婦人が子供のころを思いだされた記憶にある。
横田町の村人たちが記憶する様相はよく判る。
祇園さんの祭りとも称さる夏祭りだ。
青年団があった50年以上も前、村の辻々に提灯を掲げて立山を行っていたという。
5軒ほどの納屋を開放して、ムギワラで人形を作り飾ってその年の世相を表現した。
舞台を組んで芝居もしていた。
それを見に行くのが楽しみだったと子どものころの様相を懐かしそうに話されたことを思いだす手作りの立山はだいたいが夏祭りだったようである。
立山は盆地平坦だけでなく山間地にもあった。
『やまぞえ双書』によれば大字箕輪にあったと伝わる。
9月12日に行われていた村行事の毘沙門会式に若衆(若中)が工夫を凝らして作った立山を披露していたようだ。
同村には女子部があり、箕輪組、八丁組、堂前組のそれぞれが競い合っていた。
戦時中に途絶えた立山(山づくり)は昭和22年に一時的に復活。
再び長らく途絶えて平成3年に復活するも続かずにこの年を最後に途絶えた。
なお、吉野町にも立山がありそうだ。
実見はしていないので何とも言えないが、日程は7月末の土曜日、吉野町上市の花火大会の日である。
平成26年に行われた資料がインターネットにあった。
後日に消えてしまった興味ある情報だった。
場所は上市の六軒町の金川工業所辺りになるようだ。
その場であるのかどうか判らないが、その日は祭文踊りもあるようやに、書いていた。
この件については実態調査をする考えにある。
あれば県内事例に数えられる貴重な立山行事である。
平成28年7月末の土曜日。
探した六軒町の立山は実際にされていたのである。
ここでは詳しく触れまいが、たしかにあったことを先に書いておく。
『井上町 町中年代記の世界』の編集後記に「年代記を書き継いだ人々」と題して次のことがかかれている。
「宝暦七年(1757)、町役になった美濃屋喜右衛門は年代記の引継ぎに、一、年代記にいたみのあるところを修理して箱を新調、二、年代記、券文借家請状などは箱に納めて年役に廻す、三、珍しい出来事は何によらず年代記に記録、四、火事のときは第一に年代記に気を配る、五、年代記の書き込みが延引したり、年号や日付が前後する場合であっても、また聞き伝えなども含めて記録、以上のことを踏まえて書きおくことは後のために役立つときもあるだろう、と書き残している」の記述があった。
まことに示唆される未来に亘って永く続けて書かれていくことを願った文だ。
私の民俗探訪記は村人の代理人の立場になって、後世に伝え、役立てられるものを、と思って取材・執筆してきた。文だけではなく、写真も、である。
写真も後世に伝えたい記録である。
還暦を迎えて5年。
身体的、年齢的にも動ける範囲は限られるようになったが、今後も一歩、一歩、取材地へ足を運びたいと思っている。
(H28. 2. 4 SB932SH撮影)