マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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倉橋の水口まつりのカヤススキ

2021年01月05日 10時56分40秒 | 民俗あれこれ
吉野町山口に滞在していた時間帯は午前中いっぱい。

樹木に囲まれる神社境内は日陰。

気温の上昇は感じなかったが正午を過ぎたとたんに暑さが厳しくなった。

気象庁の発表によれば前日の21日に続く夏日。

気温は30度に達していた。

正午時間に入っていた時間帯。

吉野町山口の苗代田に、この日の行事である高鉾神社の御田祭に奉った護符はまだ立てることはない。

立てたとしても夕方近くになると判断して場を離れた。

山口から登っていった新鹿路トンネルを抜けたら桜井市の倉橋に出る。

ここでじっくり拝見したい苗代のマツリがある。

往路に見た苗代に何かを立てていた。

その何かを調査するために停車した倉橋。

畑地に車を停められそうな場がある。

田主の家と思って呼び鈴を押してみたが反応はなかった。

さて、その苗代に不思議を見る。

なんと、数本のカヤススキを直立不動のような姿で立てていた。

苗代に存在するカヤススキの情景に不思議を感じる。

この苗代は以前も拝見したことがある。

平成28年5月2日に見た苗代に立てていたのはイロバナだけだったが、カヤススキは初見である。

よくよく見たカヤススキの軸は4本。

家族の人数であろうか。

実は、前日の21日に田主と思われる男性が苗代つくりをしているところを見ていた。

その日は吉野町喜佐谷・桜木神社の春祭りの取材があった。

往路、復路とみに選んだ車道は本日と同じコース。

往路に通った時間帯は午前10時半ころ。

そのときは苗床作業をされていたが、苗代つくりの作業姿を見たのは復路の時間帯。

午後4時半ころだった。

21日は日曜日。

作業のできる休日にされた苗代つくり。

午後4時半以降にカヤススキを立てたようだ。



田主が見つからないから場を離れて帰路に車を走らせた。

カヤススキだけがあった苗代田からほど遠くないところに見た苗代立てのイロバナ。

ここにもあった。

かれこれ何度も通っている桜井と吉野を結ぶ県道37号線。

カヤススキの苗代地から1kmも満たない地にイロバナがある。

Uターンできる場を求めて少し走る。

ここら辺りは何度も取材に来たことがあるから、すぐに判断できるUターンの場。

イロバナは逃げることもないから慌てることもないのだが、なぜか焦る。

と、いうのも通り過ぎた苗代はイロバナ以外に何かを見た。

その正体を早く見たくなる希少なもの。

ここはバス停がある地。

バス停は桜井市のコミュニテイバス路線の倉橋停留所。

車を停めるに相応しくない場。

ちゃっちゃと撮ってすぐに離れるようにしたい。



田園に民家棟が美しいからつい入れたくなる風景。

その向こうは小高い丘のように見える。



苗代そのものは水口から少し離れたところにある。

むしろそれが正しい水口の位置に立てたイロバナに十数本もあるカヤススキ。

萎れた雰囲気のないイロバナ。

たぶんに先ほどに立てた、そう思うくらいに新鮮味のあるイロバナである。

苗代の土手すぐ近くにある白くオヒネリのような形のそれを金銀の水引で括って崩れないようにしている。

半紙に包んで、水引で括るくらいだから、たぶんに御供。

洗米、それとも餅であろうか。

落ち着いて観察するわけにもいかないから映像をとらえたらすぐに場を離れる。

そう思って乗り込んだ愛車。

ドアを閉めたとたんに何かがバタバタと現れた。

黒い物体すぐにわかった野鳥のカラス。

なんと、その御供を外そうとしている。

水引を解いたのかどうかわからなかったが、口に銜えたカラス・・・。

さっと嘴で摘まんでゲット・・・。

直に目撃したのは初めてである。

見事にゲットした盗人カラス。

田主が不在になるまで、屋根の上から見ていたのでは・・・と思った。



苗代田の向こう岸に一旦は着地。



御供は塩梅に解けていなかった。



フロントガラス越しに見ていたカラスの仕業を追跡したいと思って車を降りた。

そろり、そろりとドアを閉める。

音も気配も消すような具合で車から離れてシャッターを切る。



その音でバサバサと飛んでいったカラス。

御供を銜えたまま飛んでいった。

どことなく田主は向かいに建つ家ではなさそうだ。

なぜにわかるのか。

建物の雰囲気でわかった非農家(辻呉服店)である。

そういえば、ここは存じている家がある。

12年前の平成19年の10月14日に行われたマツリ講の当家を務めたHさんである。

その後の平成26年の8月7日である。

昭和32年に発刊した『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」行事のことが載っていた。

聞き取りに訪れた家は平成18年9月24日にオカリヤ作りをしていたN家。

若い人よりも経験のありそうな高齢者に、と紹介してくれたH家である。

庭にカンピョウを干していたH家。

その日は8月7日。

お盆の前にしておく仏壇の掃除。

金属製の仏具の磨きにこうしておくとピカピカに輝いてくれるんだ、と嬉しそうな顔で話していた。

「むさいな」行事なら記憶があると思い出され、Hさんが声をかけて集まってくださった2人とともに記憶を語ってもらった「倉橋のむさいな」行事である。

いわば回想法そのものを実施した平成26年の8月14日

お盆真っただ中に回想してもらった3人の記憶を村の記録の日だった。

お盆真っただ中に回想してもらった3人の記憶を村の記録に残す。

“むさいな”とは何だったのか、ほぼ意味がわかった纏め文をマツリ講取材のお返しに提供したことを思い出す。

回想法の場は、崇峻天皇陵のすぐ手前に建つ金福寺だった。

廊下に吊ってあった太鼓を思い出す。

そのHさん、久しぶりに顔を見たくなって表敬訪問した。

庭先に動きがあったので、声をかけたら若嫁さんがお相手してくださった。

Hさんは夕方までは戻ってこないからと話してくださるが、先に伝えてくれたマツリ講のこと。

苗代つくりにイロバナ飾りにカヤススキを立てていたのは地区の人だという。

その人は13年前に取材させてもらったお家。

平成17年の12月3日に拝見した作りたての神饌を拝見したお家。

当家を務めるOさんだった。

そのマツリ講は宮講とも呼ぶ5軒営みの倉橋の座である。

うちの子供もそうであったが、マツリ講を継ぐ意思はなかった。

他家の座中も同じ意思。

若い人は継がなくなったから、と決めたマツリ講の中断である。

前年の秋祭りからマツリ講はオカリヤ造りなどもしなくなった。

深夜に参るいのこ祭とも呼ばれる九頭龍王行事も中断したというから、平成29年が最後になる。

お義父さんのHさんも座中だった。

次世代は継ぐことなくマツリ講行事は中断したが、元気に走り回っているというから、お義母さんも、ですか、と。

カンピョウ干しもされているのだろうと思って聞けば、前年の平成30年4月に亡くなられたという。

今年も庭に咲くように、昨年も大きな花を咲かせた芍薬で思い出す、と。

ずっとカンピョウ干しをしてはったお義母さんの後を継ぐことはなかった。

カンピョウ好きでもないし、朝6時までに収穫して皮剥きするなど、作業がたいへんだから継ぎはしなかったが、プチプチビニールを巻きつけて干したカンピョウがくっつかないように工夫していた竿は一応残している、と見せてくださった。

で、カラスが御供を銜えて飛んでいった苗代つくりのことである。

田主をご存知でしたら、と聞けば、前述したかつて当家を務めたOさんだった。

御供はしていないが、うちもイロバナ飾りにカヤススキを立てているという。

若嫁さんが云うには、嫁入りしてからもずっとしているという苗代の祭り方。

1月15日の小正月。

朝に炊いた小豆粥を食べる箸である。

そこらに生えているカヤススキを採ってきて箸代わりに使う。

一口(二口?)食べて口をつけたカヤススキの箸は神棚や水神さん、臼、仏壇など、9カ所に祭る。

うち数本は、春になるまで雨のかからない屋外の水屋に保存して残しておく。

そのカヤススキは苗代作りを終えてから水口に祭っているという。

うちの苗代田は、道路側でなく、奥に入る。



かつてマツリ講がお渡りに向かう道。

急坂を登っていけば倉橋神社に着く。



その手前にあったH家の水口まつりの場である。

O家と同様にきちっと水口の傍に立てている。

H家のカヤススキ習俗を撮影してから尋ねたO家。

呼び鈴を押したら懐かしいお顔を見せてくれたが、ご本人は私のことを覚えていない。

10年以上も前のことだけに仕方のないことだが、平成19年の10月14日に行われた行事の出発前の記念写真に並んだOさんもNさんもおられるので間違いない。

苗代のカヤススキを教えてもらいたく伺ったと伝えて聞き取りをする。

苗代つくりを終えてイロバナ、カヤススキに御供をおましたのはつい先ほどのこと。

自宅に戻られた直後に私が到着したようで、カラスが持ち去ったことを伝えたら「そうだろ、カラスが見ていたんだ」と話す。

御供の中身は煎り米だった。

カヤススキの本数は3、5、7本のいずれかで特に固定していないが奇数を守っているなどと話してくださったが、Hさんからは「むさいな行事」纏めの件は聞いていない、という。

掲示板に貼ってあった村の行事である「大師祭り」を聞いてみる。

大師祭りは前日の4月21日。

午後の時間帯に金福寺で行われる。

「大師祭り」は毎年の4月21日に行われる大師講の寄合。

かつてはお家の料理を食べていたが今はパック料理・集まる人も少なくなって・・と、いう「大師祭り」であるが、できれば早いうちの来年に取材をお願いした。

ちなみに、最初に見た4本立てのカヤススキの田主は倉橋神社近くに住むUさんがしているはずだという。

これまで取材したことのある小正月のカヤススキ習俗。

小正月にとんど焼きをする地域は多方面に亘るほどに程に多い。

焼けた炭火、或いは火を移した提灯火を持ち帰っておくどさん(竈)の火点けに用いるとんど火。

朝に炊くのが小豆粥。

一口食べる箸の代わりにカヤススキの軸を用いる。

一口つけたカヤススキは荒起こしを済ませた苗代に立てる。

立てる日は小正月の朝であるが、倉橋の事例は苗代つくりを終えたその日に行う春習俗の水口まつりである。

小正月に使った一口喰いのカヤススキは保管しておいて苗代に立てるという事例で思い出すのが、天理市豊井町で発見した小正月の苗代地に立てるカヤススキ

五條市の上之町にも見たことがあるカヤススキ

御所市の佐味でも聞いたカヤススキ

「ずいぶん昔にそんなことしてたなぁ・・」と、高齢者が思い出す小正月の話題であるが、苗代つくりの際に立てるのは倉橋以外にあるのだろうか。

もう一つの事例は京都府南山城町北大河原住む70歳くらいの非農家女性である。

堤防などに自生する穂のあるカヤススキを採取してきて、小正月の朝に、家で炊く豆粥を箸代わりに一口食べると話してくれた。

実は、平成28年4月に初午行事に供えられたハタアメが子どもたちの手に移る地域分布を調べたことがある。

長い期間に亘って伝統を継承していたハタアメ。

子どもたちに配られた地域は相当に広かったが、諸般の事情でハタアメの製造元は平成29年に廃業されたようだ。

その結果、奈良県内の多くの地域に見られたハタアメは一斉に消滅した。

ハタアメ分布を調べていた地域。

ネット調べであるが、「小正月の1月15日の朝はトンドの火で炊いたアズキガユを箸に見立てたススキの茎で食べた。そのススキは苗代の水口に花とともに立てる」と書いていたtとあるブログが見つかった。

想定した地域は下居、若しくは倉橋辺りであろうと判断していた。

今回の発見(※ずっと継承されてきたわけだから、発見といっていいのかどうかは別として)は、まさにその実証ものになっただけに私にとっては大感動ものである。

(H31. 4.22 EOS7D撮影)