マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

西木辻・八軒町の地蔵まつり

2021年01月15日 09時35分29秒 | 奈良市へ
八軒町に地蔵盆があると知った。

平成29年の5月30日、訪れた奈良市教育委員会史料保存館。

前期企画の展示は「奈良まちの信仰・講の行事とその史料」展だった。

興味深く拝見した「富士講・山上講」が所有していた祭壇道具に見惚れていた。

その日、たまたま訪れていた西木辻に住まいするならまち住民と話す機会があった。

5月5日に行われる西木辻中町・聖天堂の件もあるが、7月23日にしているという八軒町の地蔵盆。

地蔵堂の前で行われる珠数繰りも、と云っていたが・・。

興味をもった奈良市西木辻町。

八軒町の地蔵盆があるという場だけでも確認しておこう、と思って車を走らせた。

カーナビゲーションにセッテイングした西木辻町。

地蔵堂がある地はどこになるのだろうか。

ふと、見上げた陸橋に「奈良市八軒町(はちけんまち)」の文字があった。

これ幸いに前列の車は横入りする車のために停車した。

そのあおりを受けて愛車も停車。

一瞬に撮った陸橋の表記に誘われるように左折した。

北に向かって車を走らせたどんつきの三差路。

手前に人だかりを発見。

そこが八軒町の地蔵堂だった。

到着した時間は午後4時45分。

地区代表のS自治会長に自己紹介並びに取材主旨を伝えてお話を伺う。



「八軒町」の読みは「はちけんまち」。

ここら辺りは、水路があった。

東西道路の道幅は狭く、拡幅工事の際に地蔵堂を、現在地に移した。

三差路の通りも水路だったが、暗渠構造に転換。

実は、その角地にあった、という。

地蔵堂の移転とともに指標の石塔も移したので、指標に若干のずれは見られるが、概ね方角的には左が「かうやみち(※高野道」」こ、右は「古おり山道(※郡山道)」に変わりない。

八軒町の地蔵盆は、今も変わらぬ毎年の7月23日、24日。

本日は、午前10時から、お寺さんに来てもらって法要をしていた、という。

23日の夕刻から24日は地区の地蔵盆まつり。

24日は公民館内で行う、というから数珠繰りはしてないようだ。

気になったのは、法要に打っていたと思われる伏鉦(※ふせがね)である。



自治会長らに承諾してもらって拝見した伏鉦の裏面。

「天下一常陸大掾宗味(※てんかいちひたちだいじょうむねあじ)作」記銘がある。

横から見れば、紐を通す耳がある。

紐を通した伏鉦。肩架け、或いは紐をもち、吊るした状態で鉦を打つ六斎鉦のような気がする。

さて、伏鉦の脚である。

三本脚に特徴があった。

よくよく見た鉦の脚に、あれぇ?である。

“宗味“文字間に脚があるではないか。

この構造、どうみても後から付け足したように思える。

作者が記した記名刻印。

打ち終わってから、ふと気づかれた。

台座に載せた伏鉦は、撞木をもって鉦の音を出す。

脚がなければ、底部分に空間がなくなり、音に広がりがなくなり無音近い、というか濁った音になる。

空間があってこそ成り立つ伏鉦の音色はキン、キン、キン・・・。

慌てて脚を後付けしたのではないだろうか。



ちなみに、「天下一常陸大掾宗味作」記銘の伏鉦は、他所でも拝見したことがある。

平成25年4月1日に行われた「ちゃんちゃん祭」である。

天理市・大和神社で行われる春の大祭。

拝見した場所は、御旅所

翌年の平成26年は、渡御の途中、小字馬場で長岳寺山主を迎えた地である。

渡御の先駆けを勤めていた年預が持つ脚のない平鉦にあった同記銘の「天下一常陸大掾宗味作」。

「常陸」の国の「大掾宗味」と名乗る同一作者に違いない。

ちなみに、「天下一」の称号は、織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものであり、手鏡などに「天下一」の刻印があることはよく知られている。

やがて江戸時代ともなれば新しく生みだされた鋳造法によって大量生産されるようになり、鏡師のほとんどが、我も我もと刻印した天下一。

乱用を防ぐために、五代目将軍の徳川綱吉が、天和二年(1682)に「天下一」称号の使用禁止令を出した。

と、いうことは、「天下一常陸大掾宗味作」の制作年代は、天和二年以前。

単純計算したら、337年以上も前になる八軒町の「天下一常陸大掾宗味作」伏鉦に違いないです、と自治会役員にお伝えしたら、たいへん驚かれた。

取材中に訪れて参拝する地域の人たち。



お参りの時間は特に決まっていない。

通りすがりに手を合わせる人もいる。

この日に行われる地域の地蔵盆は、とても多い。

ここ、八軒町周辺にも多くあるといわれたが、次に向かう取材地が決まっている。

仕方なく場を離れるが、役員さんたちには、来年もお伺いしますので、よろしくお願いします、と告げて場を離れた。

ちなみに“南都興福寺”のころの木辻村は、浄言寺町、中町、瓦町、五軒町、八軒町、十三軒町に綿町だった。

おそらく、各地区それぞれに地蔵さんを安置し、手を合わせて供えていたのであろう。

(H30. 7.23 SB932SH撮影)
(H30. 7.23 EOS7D撮影)