マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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豊浦町・北外れの狸地蔵に数珠繰り地蔵盆

2021年07月09日 10時14分20秒 | 大和郡山市へ
『奈良のむかし話』だったか、それとも『大和の民話』であったのか、記憶は遠い彼方に・・。

幼児だったころの息子たちに、暮らす地元に残る説話の一つでも、と思って買った小さな装丁の絵本。

今じゃ、どこに行ったやら・・。

不確かな記憶であるが、大和郡山市内の旧村の一つに揚げられる豊浦町に伝わる昔話がある。

「豊浦のたぬき」に登場する狸の住まいは、集落北東200メートルも離れた地。

生い茂った木斛(※モッコク)の木に柿の木。

その北向こうに近鉄電車の橿原線がある。

長閑な田園地に走る列車を撮ってみたくもなる景観地

遠目でもわかるその場所。

夏場であれば、青々繁る稲作地。

稲の葉が揺れる様は、まるで緑の海のようだ。

ぽっかり浮いているかのように見える樹木。

その下に覆いかぶさるようにひっそり佇む地蔵堂がある。

こおりやま民話絵本の会代表・中田光子が出版元の『大和郡山の語り伝えたいふるさと民話』。

その一話に藤戸輝子絵・文の「豊浦のたぬき」がある。

そのクロが住んでいたとされる地蔵堂。

悪戯好きな狸のクロが、常日頃かわいがっていた豊浦の村の人たち。

その恩に報いるために得意の「化かし」で、戦から村を守った、という昔話が伝わる

狸と村人が、醸し出す人情味あるほのぼの話が絵本に・・。

ヤンチャ狸のクロ」のタイトルで紹介する絵本文。

「豊浦の北の外れにクロ狸がすんでいて、他愛ないいたずらを繰り返していました。しかし間抜けないたずらばかりなので村人はとくに狸を憎むということはしませんでした。ところがある日、戦がはじまってしまいました。両軍にらみ合いの緊迫した中、クロは戦を止めようと金色の山車に化けました。両軍の大将は不思議な気持ちになって戦をやめてしまいました。戦は止まりましたが、クロ狸は化けることに精を使ったので死んでしまいました。村人はその骸を丁重に地蔵堂に葬りました」。

狸と村人の人情話が、今も伝わる豊浦の地である。

奉る地蔵尊に、当番の人たちは、毎月交替で花を供え、8月24日に地蔵盆を行っている。

その日の夜。

陽も落ちた時間帯に行われる数珠繰り地蔵盆である。



そのことを教えてくださった人は、豊浦の地に住まいするNさん。

4年前の平成26年。Nさんが公開していたFB記事に紹介された。

実は、Nさんは、豊浦の年中行事取材に知り合った豊浦の人。

地蔵堂が建つ場を訪れたのは、Nさんに地蔵盆を教えてもらってからの平成28年8月24日

前々から存じていたが、足を運んだのは、この日の昼間だった。

取材したい豊浦の地蔵盆であるが、先に予定が入っていた県内各地の地蔵盆取材の数々がある。

桜井市箸中・下垣内愛宕地蔵尊祭りをはじめ、宇陀市榛原町・篠楽(ささがく)の地蔵さん聞き取り、吉野町柳・上柳の地蔵盆、大淀町増口(ましくち)・下ノ町および上ノ町の地蔵盆、吉野町丹治・向丹治の地蔵盆、同町・丹治上第一垣内の地蔵盆、大淀町中増(なかまし)の地蔵盆、大淀町西増(にしまし)の地蔵盆、吉野町香束(こうそく)の地蔵盆、吉野町山口の地蔵盆・・。

それはさておき、集落内にある氏神社は八幡神社である。

本瓦葺きの三間社流造り。

屋根に千鳥破風は二つ載った珍しい建物は、県の指定文化財になっている。

貴重な無形民俗文化財があった。

マツリに奉る竹製で組んだ家形の仮屋。

その仮屋は、トーヤ(※当家)の屋根、つまり2階部分の1階屋根瓦(※下屋の差し掛け屋根の瓦)に据えていた、県内でも珍しい形態

しかも、そこに梯子を架け、八幡神社の分霊を祀った仮屋に、トーヤ(※当家)は、その梯子に足をかけて登り、ローソクを灯し、酒、水、塩を供える

豊浦の年中行事を初めて拝見したのは、平成16年9月26日に伺った仮屋建て。

翌年の平成17年最後に、以降の秋例祭に行われる遷し廻しの仮屋は、組み立て式・家形木製に替わった。

さて、前置きが長くなってしまった。

数珠繰り法要する場にシートを敷いて、布地マットをその上に・・。

地蔵尊前の場は砂利道。

厚さのあるシートにマットを敷いて冷たくないようにしておく。

実は、そのシートマットのいちばん下に敷いたのは”みしろ”。

”みしろ”は、”むしろ”(充てる漢字は筵)が訛った言葉。

奈良県内事例に、よく耳にする”みしろ”。なぜか、私も訛って、”みしろ”と、つい、口にしてしまうことがある。どうやら口癖がついたようだ。

男の子、女の子の名前を書いた提灯の数は多く、2段に22張りも並ぶ。

今流の名前だけに新調しなおしたのだろうか。



提灯吊りの仕掛けは青竹。

伐った3本の竹。

葉を落として、節取り。

すべすべの青竹は、水平に据えた竿。

提灯を吊るす箇所をpp紐で括っていた。

提灯下に並べたお供えの数も多い。

集まった人たちは女性ばかりの12人。

うち女児は2人。

導師を務める2人は、前の席に就いて伏せ鉦を打つ。

もう一人は、数取りを担う。

私が到着した時間帯は、すぐにでも始まりそうな時間帯の午後6時半過ぎ。

取材に待っていたNさん。

これまで行われてきた豊浦の年中行事のときの様相が蘇ってくる。

豊浦の大とんども取材したことがある。

朝の早い時間帯に行われる豊浦の大とんど。

住まいする地元行事にあるが、なかなか行けなかった大とんど。

拝見した年は、平成25年の2月3日だった。

元々は2月1日に行っていた大とんどは、現在第一日曜Bに移しているニノ正月のとんど。

ここ豊浦の他に、小南町、丹後庄町、番条町、井戸野町、稗田町、大江町、白土町、天井町、長安寺町、筒井町、柏木町、美濃庄町、額田部町、矢田町(南垣内・寺坂深谷垣内・清水垣内・横山)など、大和郡山市に多数見られるニノ正月のとんどである。

神社行事に直接は入っていないが、神社役の年当番にあたる本当家(ほんとーや)に相当家(あいとーや)の二人が準備し、組み立てる。

豊浦の戸数は20軒であるが、年中行事にかかわる旧村戸数は15軒。

6年に一度の廻りに当番する家が2軒ずつ。

二人の当家が、役に就く。

軒数と一致しない当番の廻り。

諸事情を鑑み、地域あげて対応されているのだろう。

場に数珠を設え、当番の人は提灯に火を灯す。



一つ、二つ、三つ・・・灯りが増えるにつれて、地蔵盆に相応しい風情を描いてくれる。

撮る位置を替えて、集落西に鎮座する八幡神社のモリが見える。

気持ちも高ぶってくる時間帯に、また一つ、二つ、三つと増えていく提灯の灯り。

なんとも言葉が出ない幽玄な情景。

一気に暗くなってきた。

午後7時。

さあ、始めましょうか、と前に座った導師が伝えた。

カン、カン、カン、カン・・・・。撞木(しゅもく)で打つ鉦の速度は、早いほうに思えた。

周りは、長閑な田園地。



カン、カン、カン、カン・・・と聞こえる甲高い音色。

田園一帯に拡がる音色は、どこまで聞こえるのだろうか。

カン、カン、カン、カン・・・に合わせて数珠を繰る。

右に、右へと数珠を繰る。

大人も子供も同じ。

右に、右へと数珠を繰る。

1分ほど経ったころの音色。



打ち方は、先ほどからの打ち方から、速度を緩めた。

落ち着きを取り戻したかのように思えた、鉦打ちの調子。

カン、カン、カン、カン・・・の音色は、収録していてもわかる、甲高さのある鉦の音。

カン、カン、カン、カン・・・よりも、キン、キン、キン、キン・・・の音色に近い高音だ。

数珠繰りする皆さんは、調子に合わせて唱えるお念仏。

「なんまいだぶ~ なんまいだぶ~ なんまいだぶ~ なんまいだぶ~」の念仏は、耳にはいらない。

甲高い音色は、収録した動画であっても、念仏は聞こえない。

高音に、お念仏がかき消される。

県内各地にある伝統行事の鉦念仏は、いずこも同じようにかき消される。

数珠繰りに、鉦念仏撮影に集中していたとき、ふと視線を落としたローソクの灯り。

一人の女性の動きを見つめていた。

ローソクを立てている道具は、一斗缶を半分に切ったものだろう。



その内部に据えた1本のローソク。

風に吹かれることなく、煌々と・・。

金属製の一斗缶。

内部反射したローソクの灯りによって輝いていた。

そのローソクに近づける1本のお線香。

火点けをした線香は、どこへ持っていく。

導師の右手に置いた灰を盛った線香立てであろう。

実は、火点けしたこの線香は数珠繰りの数を数える数取り道具である。

数取り道具の数々を見てきた事例に、この形式は初めてである。

暗い屋外に数珠繰りする回数を数える灯りの数。

工夫を凝らした数取り道具は、感動もんだ。

民俗に、さまざまな形はあるが、ここ豊浦町以外に、同様事例はあるのだろうか。

数取りに線香は使うことは多々ある、と思うが、昼間。それも屋内で行われる行事ならば、電灯の明かりが用を足す。

ここ豊浦は、街灯のない、闇夜の田園地。

光る線香の火をみて数を知る百万遍数珠繰り。

尤も、実際に百万遍もしている地域はないだろう。

ここ豊浦では、「ひゃっぺん」する、という数珠繰り。



県内各地で行われている数珠繰り。

百篇も数珠繰りするのは、年寄りにとってはもう無理など、と云って、50回。

いつしか10回に落としたという講中もある。

高齢化した講中では、それが現状なんです、という地域も少なくない。

上から覗き込んだ手つくりの線香立て。

線香の火が、点々・・。

その様相は、まるで宇宙だ。

星座が拡がる銀河のように・・・。

これで100本。



数珠が一周するたびに房を数え、そして灯した線香の灯り。

この日の夜に、星座は見られなかったが、ここに小宇宙があった。



カン、カン、カン、カン・・・の念仏鉦が止まったのは、数珠繰りが始まってから35分も経ってからだ。

百万遍ならぬ、ひゃっぺん繰り返した数珠繰りを終えた数珠は、数珠箱に収める前にもう一つのお役目がある。

念仏を唱えて数珠繰りしていた人たちすべてに身体堅固。

導師さんは、数珠を束ねて背中をさする。

上から下へ丸めた背中にあててご加持する数珠に、ありがたく手を合わせる。

一人、一人の背中にご加持の身体堅固。



数珠繰りで繋ぐ身体堅固のように思えた。

これより沢山の御供を配られる。

参加できなかった人たちにも配られる御供。

受け取ったお家もまた御供下げにご加護を受けるのだろう。

平成23年から27年当時の私は、接骨鍼灸院に通院される患者さんを送迎する仕事に就いていた。

ここ豊浦にも患者さんを送迎していた。

杖をついて送迎車が停車する場までやってくる。

ご家族も付くことはあるが、お一人の場合もある当時95歳のNさん。

しっかりした記憶に、聡明なNさんもかつては数珠繰りをしていたお一人。

今夜は、お家で待って御供を受け取られることだろう。

提灯の灯りが消される前にお願いした念仏鉦。

刻印の有無を確認したく、承諾いただいたNさんともに判読した文字は、「西岡乙松 梅岡常□ 吉岡忠太郎 豊田宗平二 北川総松吉 西岡岩松 □□□□川西彦治郎 豊浦村 観音講中」。



年代はわからないが、7人とも姓、名がある。

判読できないまったく不明な四つの字を田文字のように固めたものも、ある。

おそらく川西彦治郎氏が、伏せ鉦をつくったときの施主であろう。

7人の名前で思い出した「豊浦八軒」。

昭和62年5月、ぎょうせい刊・大和郡山市文化財審議会編の『ふるさと大和郡山歴史事典』に書いてあった「豊浦八軒」である。

「小泉初代藩主の片桐貞隆が死去した寛永四年(1627)10月。
貞隆の子、貞昌が家督を相続したが、弟の勝七郎貞晴に三千石を分知。その三千石の内、二百十六石を豊浦村に。貞昌が、屋敷造営に銀七百匁を支出し、この地に屋敷を設けた貞晴は、分家として永く続いた(※原文をわかりやすく要約した)」とある。

屋敷から馬に乗った貞晴は、小泉城に日参していた・・。

初めて豊浦の行事取材をしたとき、本当家を務めたYさんから聞いたような記憶がある。

豊浦集落南に東西を往来する現在の県道大和郡山環状線を、馬に乗って闊歩していた小泉の殿さん。

ここ豊浦から真っすぐ西ではないが、直線距離にして片道2.8km。

遠いといえば、遠い距離を毎日往復していたのだろう。

たぶんに、その時代のころだと思われる推定年代。

村の人口は、増えもせず、減りもしない豊浦村。

大和郡山では、最も小さい村を形成していたとされ、そのことから「豊浦八軒」と呼ばれていた。

その豊浦も、明治21年の町村制施行のころの戸数は16戸、86人の集落になっていたようだ。

伏せ鉦にあった刻印名・過去帳から、当時の伏せ鉦・観音講の年代から推定できるかもしれない。

ちなみに今日は晴の日だったが、雨天もここで、というわけにいかず、その場合は公民館に集まって数珠繰りをしているそうだ。

(H30. 8.24 EOS7D撮影)