マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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専門学校

2009年08月23日 07時14分26秒 | ぽつりと
今年の4月から平日は毎日出かけるようになった次男。

どうやら学校に行っているらしい。

朝は8時に家を出て16時半ころには帰ってくる。

電車で通学している学校は奈良県立高等技術専門学校だ。

一年前ぐらいになるだろうか。

木工の技術を身につけようと一旦は申し込んだ専門学校。

やっぱりやめとくと言って断った。

その後はちょこちょことバイトの身。

なにやら考えることがあって思い返したのであろう。

つい先日、図面を広げてこれ何と思うといってきた。

正面、側面の展開図だ。いずれも斜めになっている。

なぞ解きをしても判らない。

これは鐘堂の柱の図面だという。

斜めの角度は微妙な傾き。

それが4本揃って鐘堂を安定させるのだという。

木板を4枚重ねた漏斗も同じような角度。

上下は逆になっても同じ斜角度。

木造家屋は梁をして倒れないようにしている。

なぜに鐘堂は柱だけなのか。

答えは簡単。

梁や塀があったら鐘が見えなくなるからさといった。

いい勉強をしている。

鐘堂を見る目が変わった私も勉強になった。

(H21. 7.28 記)

これが成果物の手作りイスだ。

角度は見た目では判らないという次男。

荒削りな部分もあるが見事な出来栄えに感心する。



(H21. 9. 5 SB912SH撮影)

土田お峯山の神水取り

2009年08月22日 07時18分53秒 | 大淀町へ
橿原市の畝火山口神社の祭礼に、大阪の住吉大社が「土」と「水」に深く関わっている。

「土」は、住吉大社で行われる三月の祈年祭、11月の新嘗祭に際して使われる祭器となる神酒壷の主材料の埴土を畝傍山へ取りにいく。

一方の「水」は7月28日にお峯山の神さんに供えられる畝火山口神社のでんそそ祭の神水だ。

神水は橿原から山を隔て、遠く離れた清らかな吉野川で採取される。

大淀町土田(つった)には推定樹齢700年とされる大木のケヤキ(大淀町指定文化財)がある。

土田の役員らは(「火」の使いと言えるのでしょうか)畝火山口神社の宮司を迎えて、2本の笹竹を立てて注連縄を張った河原で水汲みの神事を執り行う。

かつて大木ケヤキの真下で採取していた神水。

現在は川幅が狭くなった河原の砂地から川に石を並べて神事の場としている。

祓えの儀を終えると用意した一升瓶を清流に沈めて水を汲んでいく。

前夜に降った雨で水かさが増し、勢い強い流れの吉野川の清流はさほど濁っていない。

神水取りの神事は雨乞い祈願だと囁かれるが定かではない。

神水を汲み終えた宮司は住吉神社の御輿を祓い浄めに向かって行った。

この神水取りが行われる直前、土田の住吉神社に参る。

現在の住吉神社は妙見宮の傍らに鎮座しているが、近鉄電車が土田浦のケヤキの傍を通ることになり、そこから遷座されたものだ。

突然降り出した雨は止まない。

宮司、宮守さん、地区の役員は、神饌を供え、傘を差しての祭礼が行われた。

河原の水取り前、住吉神社にその「お断り」を祝詞奏上される。

例年なら梅雨も明けて夏空が広がる日だが、降雨、止雨の願いが通じたのでしょうか、水取りの際には小止みになっていた。

住吉神社に参る前、宮司は吉野へ抜ける伊勢南街道筋のIさん方の一軒の家に滞在する。

かつて「ハリマサマ」と呼ばれた水取りの一行は、ケヤキを目印に元旅籠だった当家に泊まっていた。

橿原から隊列を組んで壷坂峠を越えてきた。

明治維新の前は、「大谷播磨守」と名乗った宮司神職は十二人ものお供を連れてきたという。

亡くなられた先代大谷宮司が「今は電車に揺られて行くのだが、その前は馬に乗って行ったのだ」と話されたことを思い出した。

(H21. 7.26 Kiss Digtal N撮影)

奈良口地蔵尊オソナエ

2009年08月21日 07時53分23秒 | 大和郡山市へ
昭和28年代の写真には奈良口から秋篠川北辺りの県道は地道だった。

周囲には人家もない。

その秋篠川を跨ぐ柳橋の南袂は大和郡山市の奈良口町になる。

奈良口の街道は南に新道ができるまではバスが走っていた。

ときおり屋根瓦にあたったこともあったが誰も文句は言わなかったという。

城下町が形成される以前、街道辺りは墓地だったそうだ。

それはともかく、柳橋の南側には東に大神宮、西に大きな耳をもつ地蔵さんが祀られている。

前夜の地蔵尊夏祭は朝に法要、夜は宝くじ抽選会(以前は宝探し)にかき氷が催される。

地元住民の楽しみで夜遅くまで賑わっている。

今日は朝から自治会の班当番の人が傍の公民館で訪れる参拝者を待っている。

地蔵さんは大きな石仏で、立派な福耳が特徴的なお顔だ。

その前には半切りのカボチャに串で挿した色とりどりの野菜が目に付く。

ニンジン、ピーマン、インゲン、トーモロコシ、ゴーヤにミニトマトが並ぶ。

三本の串に挿した作りものの野菜に名前はない。

オソナエには違いないと思われる野菜の「飾り」は、天理市上入田や奈良市小倉で祭事される九月の会式、或いは正暦寺の冬至祭で供えられるモノに似ている。

特徴あるオソナエは昭和40年代に建立された戦没者慰霊碑にも供えられる。

(H21. 7.24 Kiss Digtal N撮影)

下三橋の民俗行事

2009年08月20日 07時15分03秒 | 楽しみにしておこうっと
下三橋町の南側に鎮座する風(かぜ)神社。

20年に一度は本殿を建て直しする「ゴソク」が行われている。

「ゴソク」とはどんな漢字を充てるのであろうか。

「御足」とも思われるが、「御造宮(ゴゾウク)」が訛ったものと考えられる。

神社祭祀を司るのは宮座の十六人衆。

秋祭りは10月1日だったが集まりやすい体育の日に移された。

その前日の早朝は宵宮で10時ころに神主を迎えて神事を行う。

翌日は本祭で18時ころ。

大和太鼓の皆さんが奉納太鼓を演じる。

昔はドロイモを炊いて、カキを剥いたものを供えていた。

トーヤは中学生。十五歳になったら村の仲間入りとして認めるという。

7月5日は太神楽がやってくるという。

(H21. 7.23 記)

下三橋の民俗風習

2009年08月20日 07時13分35秒 | 大和郡山市へ
下三橋町の北西を流れる前川の橋の上に石仏が祀られている。

かっては川の北側にあったという。

その石仏の前に亡くなった人が使った布団を燃やしていたという。

茶碗は割った。

帰ってくるなという意思表示なのでしょうか。

法令遵守することになって、現在は燃やすことができなくなった。

その場所はお盆のときにも目印になっている。

13日の夕方4時ころに各戸で迎えたオショウライサン。

玄関口にワラを燃やして、線香をあげて迎える。

いわゆる迎え火だ。

オショウライサンはご先祖さん。

14日にお供えして祀ったオショウライサンは15日に天へ昇っていく。

お盆に供えたオソナエ(アラタナもある)は朝のうちに橋の上の石仏辺りで燃やしていた。

これも昨今の法令遵守の関係で燃やさずに家へ持ち帰るようになった。

焼く行為はできなくなったがお盆の風習は今でも続けられているそうだ。

二体を透かし彫りした石仏は流行映画の影響でしょうか、「オクリビト」と呼ばれている。

(H21. 7.23 Kiss Digtal N撮影)