大和郡山市内の地蔵盆は7月と8月に行われている。
佐保川から東側はほとんどが7月にある。
そのうちのひとつに挙げられるのが下三橋町の地蔵盆。
延命地蔵大菩薩と書かれた提灯をぶら下げた地蔵覆い屋形に集まってきた自治会役員さん。
参拝される子ども会に配るお菓子を分けておく。
8年前までは23日と翌日に行われていた地蔵盆は、自治会が運営するようになり23日だけになった。
提灯などを納めている箱に詠歌講の文字が残されている。
かっては講衆が集まって営んでいた。
数珠繰りをすることもあったと懐かしいそうに話される役員さんら。
日が暮れなずむころに始まった地蔵盆の営みはご婦人が椅子に座って西国三十三番ご詠歌を唱える。
最初に「オンカガカビ サンマエイ サワカ」とご真言を唱える。
そして、鉦を叩いて1番、2番と唱えていく。
拍子をとるのは年当番の組で1から8班まで順番に替わる。
組によって抑揚、スピードが違うなあと笑った。
番外詠歌、般若心経を唱えて最後に再びご真言で終える。
花火に夢中だった子どもたちを呼んでお下がりのお菓子を配る。
地蔵さんにぺこりと頭を下げてひとつずつもらって帰る。
大きな石仏地蔵菩薩の西側は奈良バイパスを隔てて夕闇に浮かぶ開発中の大型ショッピングセンター。
来年の地蔵盆は大きく景観が変わっていることでしょう。
(H21. 7.23 Kiss Digtal N撮影)
佐保川から東側はほとんどが7月にある。
そのうちのひとつに挙げられるのが下三橋町の地蔵盆。
延命地蔵大菩薩と書かれた提灯をぶら下げた地蔵覆い屋形に集まってきた自治会役員さん。
参拝される子ども会に配るお菓子を分けておく。
8年前までは23日と翌日に行われていた地蔵盆は、自治会が運営するようになり23日だけになった。
提灯などを納めている箱に詠歌講の文字が残されている。
かっては講衆が集まって営んでいた。
数珠繰りをすることもあったと懐かしいそうに話される役員さんら。
日が暮れなずむころに始まった地蔵盆の営みはご婦人が椅子に座って西国三十三番ご詠歌を唱える。
最初に「オンカガカビ サンマエイ サワカ」とご真言を唱える。
そして、鉦を叩いて1番、2番と唱えていく。
拍子をとるのは年当番の組で1から8班まで順番に替わる。
組によって抑揚、スピードが違うなあと笑った。
番外詠歌、般若心経を唱えて最後に再びご真言で終える。
花火に夢中だった子どもたちを呼んでお下がりのお菓子を配る。
地蔵さんにぺこりと頭を下げてひとつずつもらって帰る。
大きな石仏地蔵菩薩の西側は奈良バイパスを隔てて夕闇に浮かぶ開発中の大型ショッピングセンター。
来年の地蔵盆は大きく景観が変わっていることでしょう。
(H21. 7.23 Kiss Digtal N撮影)
おばあちゃん講と呼ばれている尼講は、毎月21日に奈良市池田町の公民館でお大師さんを営んでいる。
彼岸の月はお彼岸の日で数珠繰り。
普段の月は西国三十三番のご詠歌を唱える。
長丁場なので二十四番で休憩をとるのが決まり。
お大師さんの始まる時間は、彼岸を境目に季節毎の暮れる時間に合わせて前後する。
薬師さんの如来さん、かなぶつさん、阿弥陀如来さん、やなぎださんかんぜおんぼさつ、弘ぼう大師さん、千手観音さん、無縁さん、矢田のお地蔵さんにお花を飾って御供を供える。
これは彼岸のときと同じだが座る位置が異なって長机の上に一人ずつ叩く鉦を置いた形式になる。
おばあちゃん講のお勤めはお通夜のとき。
坊さんが帰ったあとでご詠歌を唱える。
公民館での葬儀が多くなり呼ばれることが少なくなった。
活動する場は減るし、70歳以上になったおばあちゃん講に入講する人はいない。
それでもお盆のときにはタイマツの念仏、ショウライサン迎えもある。
たいそうな一日になるんやと仰る。
(H21. 7.21 Kiss Digtal N撮影)
彼岸の月はお彼岸の日で数珠繰り。
普段の月は西国三十三番のご詠歌を唱える。
長丁場なので二十四番で休憩をとるのが決まり。
お大師さんの始まる時間は、彼岸を境目に季節毎の暮れる時間に合わせて前後する。
薬師さんの如来さん、かなぶつさん、阿弥陀如来さん、やなぎださんかんぜおんぼさつ、弘ぼう大師さん、千手観音さん、無縁さん、矢田のお地蔵さんにお花を飾って御供を供える。
これは彼岸のときと同じだが座る位置が異なって長机の上に一人ずつ叩く鉦を置いた形式になる。
おばあちゃん講のお勤めはお通夜のとき。
坊さんが帰ったあとでご詠歌を唱える。
公民館での葬儀が多くなり呼ばれることが少なくなった。
活動する場は減るし、70歳以上になったおばあちゃん講に入講する人はいない。
それでもお盆のときにはタイマツの念仏、ショウライサン迎えもある。
たいそうな一日になるんやと仰る。
(H21. 7.21 Kiss Digtal N撮影)
天理市南六条北の元興蔵寺では毎月21日に大師講が営まれている。
講衆は下が70歳から上は80歳のご婦人方。
寄進された掛け軸の箱(明治41年装幀)には生きていたら百歳になってたであろう先代のおばあちゃん方の名前がずらりと書かれている。
数えてみれば昭和43年ころは16人もいた。
今は半数以下の7人になった。
講に入ったらおばあちゃんと思っている人も多くて、年寄りと感じるせいか入講する人もなく、跡継ぎは途絶えているという。
月当番の二人は、お大師さんの掛け軸二つを掲げて、家でこしらえた二つの「お膳」を供える。
お花を飾り、灯明に火を点してはじまった大師講は百万遍数珠繰り。
中央に当番が座って鉦を叩く。
ナンマイダーブツ、ナンマイダーと繰り返し唱えながら数珠を繰っていく。
一周する度にカズトリ数珠を動かしていく。
100回数珠繰りしていたが今は50回に減らした。
数珠繰りを終えるころに丁度灯明が消えかかる。
最後はお大師さんのお念仏である高野山のご真言を唱えて終わる。
特徴あるお膳は五つの椀に盛られている。
アズキ御飯の椀、シイタケ、ゴボウ、コンニャク、アゲの煮物椀、同じくマメ、コンニャクの煮物椀。
中央の椀にはキュウリ、カニカマボコの酢の物、季節もの椀にはキンカンが盛られている。
私が子どものときは長膳(ながぜん)といってお膳をずらりと並べたものがあった。
そのころは当番の家で行われていて、ゴッツオを作らなあかんかったと八十歳のご婦人は思い出すように話される。
大師講のお勤めはお通夜のとき。
亡くなった家に呼ばれて西国三十三番ご詠歌を唱える。
信仰が薄くなったのか、“きょうび”は断られるようになってしもたわと大和言葉で仰った。
(H21. 7.21 Kiss Digtal N撮影)
講衆は下が70歳から上は80歳のご婦人方。
寄進された掛け軸の箱(明治41年装幀)には生きていたら百歳になってたであろう先代のおばあちゃん方の名前がずらりと書かれている。
数えてみれば昭和43年ころは16人もいた。
今は半数以下の7人になった。
講に入ったらおばあちゃんと思っている人も多くて、年寄りと感じるせいか入講する人もなく、跡継ぎは途絶えているという。
月当番の二人は、お大師さんの掛け軸二つを掲げて、家でこしらえた二つの「お膳」を供える。
お花を飾り、灯明に火を点してはじまった大師講は百万遍数珠繰り。
中央に当番が座って鉦を叩く。
ナンマイダーブツ、ナンマイダーと繰り返し唱えながら数珠を繰っていく。
一周する度にカズトリ数珠を動かしていく。
100回数珠繰りしていたが今は50回に減らした。
数珠繰りを終えるころに丁度灯明が消えかかる。
最後はお大師さんのお念仏である高野山のご真言を唱えて終わる。
特徴あるお膳は五つの椀に盛られている。
アズキ御飯の椀、シイタケ、ゴボウ、コンニャク、アゲの煮物椀、同じくマメ、コンニャクの煮物椀。
中央の椀にはキュウリ、カニカマボコの酢の物、季節もの椀にはキンカンが盛られている。
私が子どものときは長膳(ながぜん)といってお膳をずらりと並べたものがあった。
そのころは当番の家で行われていて、ゴッツオを作らなあかんかったと八十歳のご婦人は思い出すように話される。
大師講のお勤めはお通夜のとき。
亡くなった家に呼ばれて西国三十三番ご詠歌を唱える。
信仰が薄くなったのか、“きょうび”は断られるようになってしもたわと大和言葉で仰った。
(H21. 7.21 Kiss Digtal N撮影)
日々交通安全地蔵と呼ばれるお地蔵さんは外川橋のすぐ傍の道路脇にある。
地蔵盆は毎年8月23日の夕方。
かっては浴衣を着た子どもが親と一緒に参ってくれた。
嫁いだ先からも戻ってきて孫と一緒に参っていたが、近年は子どもだけになっている。
歩道に集まるので往来する車が気にかかって仕方ないとTさんはいう。
そのTさんは集まるころを高台の家から眺めていてそれから出かけるという。
外川町には八幡神社が鎮座している。
秋祭りは本来10月1日だったがサラリーマン家庭が多くなったことから集まりやすい第一土曜日を宵宮にしている。
15時ころから始まって終えるのは21時。
提灯を掲げて、たこ焼きなどの夜店を出して参拝者を迎えている。
翌日の本祭は祭りの片付けになっている。
神社の祭礼は17人の座衆が営んでいる。
そのうちの長老の一団は八人衆(一老から八老)と呼ばれている。
宵宮の神事は夜中に行われる。
御幣、裃衣装や座記録が収められた箱を引き渡す儀式だ。
どんどんと太鼓を打ち鳴らし、無言で次の者の家に持っていく。
2月か3月に行う八人衆の行事は宮算用(みやさんじょ)と呼ぶ会計報告で一年の祭りを締めくくる。
5月にはデンガクメシの行事がある。
トーフに味噌を付けて食べる。
このとき出されるのがスキヤキ。
ごちそうであったスキヤキは今でも座の主食になっている。
また、新入りを八人衆に受け入れる座入りの儀式は秋祭りを終えた後で行われる。
同じようにスキヤキを食べるのが儀式だというのだが季節柄マッタケメシが加わる。
八人衆の儀式はいずれも座衆の都合で日曜辺りに行われる。
いやはや近くに住んでおりながらまったく存知してなかった宮座儀式。
早い内に訪問したいものだ、と思っていたが、叶わなかった。
(H21. 7.22 記)
地蔵盆は毎年8月23日の夕方。
かっては浴衣を着た子どもが親と一緒に参ってくれた。
嫁いだ先からも戻ってきて孫と一緒に参っていたが、近年は子どもだけになっている。
歩道に集まるので往来する車が気にかかって仕方ないとTさんはいう。
そのTさんは集まるころを高台の家から眺めていてそれから出かけるという。
外川町には八幡神社が鎮座している。
秋祭りは本来10月1日だったがサラリーマン家庭が多くなったことから集まりやすい第一土曜日を宵宮にしている。
15時ころから始まって終えるのは21時。
提灯を掲げて、たこ焼きなどの夜店を出して参拝者を迎えている。
翌日の本祭は祭りの片付けになっている。
神社の祭礼は17人の座衆が営んでいる。
そのうちの長老の一団は八人衆(一老から八老)と呼ばれている。
宵宮の神事は夜中に行われる。
御幣、裃衣装や座記録が収められた箱を引き渡す儀式だ。
どんどんと太鼓を打ち鳴らし、無言で次の者の家に持っていく。
2月か3月に行う八人衆の行事は宮算用(みやさんじょ)と呼ぶ会計報告で一年の祭りを締めくくる。
5月にはデンガクメシの行事がある。
トーフに味噌を付けて食べる。
このとき出されるのがスキヤキ。
ごちそうであったスキヤキは今でも座の主食になっている。
また、新入りを八人衆に受け入れる座入りの儀式は秋祭りを終えた後で行われる。
同じようにスキヤキを食べるのが儀式だというのだが季節柄マッタケメシが加わる。
八人衆の儀式はいずれも座衆の都合で日曜辺りに行われる。
いやはや近くに住んでおりながらまったく存知してなかった宮座儀式。
早い内に訪問したいものだ、と思っていたが、叶わなかった。
(H21. 7.22 記)
一昨年のトヤさんの話によると観音寺町では「正月の道」を作るでぇと言っていた。
大晦日に近くなるころ、そろそろ「正月の砂撒き」をせんなんといかんなぁと言って、編んだ竹籠のモッコを持って佐保川の川に砂を採取に出かける。
綺麗な川砂を掬って竹籠に入れる。
川砂は水分を含んでいるので、それを竹籠に入れてしばらくおくと水がきれて軽くなる。
それからモッコを担いで持って帰ってくる。
川砂は氏神さんの神社の本殿前から箕を用いて敷いていく。
末社も同じように砂を一本道のように敷いていく。
手水の処も敷く。
お堂の前も敷く。
それは一本の繋がった砂の道になって鳥居まで続く。
かって、神社のトヤが敷いた道に各家はそれから繋げて砂を敷いていた。
集落全域に亘っていた「正月の道」作りは家の玄関、蔵、納屋の手前まで敷いていた。
家屋の外にあるご不浄の便所までも敷いていた。
正月の道は人が通る全ての道に渡って敷いていた。
正月さんを迎える道は、現実的にいえば家から神社へ参拝する道になっていた。
子どものとき、盛り上がっている正月の道を踏んでいくのが楽しかったという。
この風習は30年ほど前に止めていった。
集落の道が舗装され、雨が降ったら側溝に流れていって始末せなあかんようになった。
集落の道が土だったときは雨が降っても砂が自然にとけ込んでいった。
それが舗装されて道路に砂が残るし、側溝に溜まった砂を掃除せなあかん。
面倒さがでてきたんで止めたという。
昭和58年(1983年)には本殿を建て直した。
そのときは既に集落の正月の道はしてなかったという。
(H21. 7.20 記)
大晦日に近くなるころ、そろそろ「正月の砂撒き」をせんなんといかんなぁと言って、編んだ竹籠のモッコを持って佐保川の川に砂を採取に出かける。
綺麗な川砂を掬って竹籠に入れる。
川砂は水分を含んでいるので、それを竹籠に入れてしばらくおくと水がきれて軽くなる。
それからモッコを担いで持って帰ってくる。
川砂は氏神さんの神社の本殿前から箕を用いて敷いていく。
末社も同じように砂を一本道のように敷いていく。
手水の処も敷く。
お堂の前も敷く。
それは一本の繋がった砂の道になって鳥居まで続く。
かって、神社のトヤが敷いた道に各家はそれから繋げて砂を敷いていた。
集落全域に亘っていた「正月の道」作りは家の玄関、蔵、納屋の手前まで敷いていた。
家屋の外にあるご不浄の便所までも敷いていた。
正月の道は人が通る全ての道に渡って敷いていた。
正月さんを迎える道は、現実的にいえば家から神社へ参拝する道になっていた。
子どものとき、盛り上がっている正月の道を踏んでいくのが楽しかったという。
この風習は30年ほど前に止めていった。
集落の道が舗装され、雨が降ったら側溝に流れていって始末せなあかんようになった。
集落の道が土だったときは雨が降っても砂が自然にとけ込んでいった。
それが舗装されて道路に砂が残るし、側溝に溜まった砂を掃除せなあかん。
面倒さがでてきたんで止めたという。
昭和58年(1983年)には本殿を建て直した。
そのときは既に集落の正月の道はしてなかったという。
(H21. 7.20 記)