マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

バイクパンク

2010年10月21日 08時24分21秒 | いどう
横田町を北に向かっていた夕方。

次の取材地に着いたときだ。

次男からのケータイが鳴った。

乗っていたバイクがパンクしたという。

平端の名阪国道の近くだという。

取材はあきらめて次男が待つ処へ急いだ。

交差するところなら近いはずだ。

もう一度確認すれば大和中央道になるという。

それならまだ西へ行った処じゃないか。

そこは川西町の吐田だった。

すり切れたタイヤ。

数ヶ月前に次男がなんとか修理したタイヤだ。

持ちこたえてきたがとうとう無理がきた。

スクラムに積んで目指すはオートショップ。

対応が自動車であってもパンク修理ができるかと思って尋ねたが案の定。

クルマしかできないという。

それならバイク屋。

その前にガソリン屋で修理ができるかどうか尋ねてみた。

かつて山口県をサイクリングしたことがある。

パンク修理剤は持参していたが付近にあったガソリン屋を訪れた。

うれしいことにすぐさま対応してくれた。

格安だった。

ひょっとしたらと思って尋ねた。

が、修理は可能だがタイヤがないので翌日になるという。

系列店が平群にある。

そこならばタイヤがあるという。

何故に平群は対応できるのかといえば、バイク乗りがとても多いのだそうだ。

需要があれば供給する。当然の生業だ。

ジャスト6300円でと連絡してもらって西へ向かった。

(H22. 9.14 記)

停止したカークーラー

2010年10月20日 07時33分18秒 | いどう
それは7月10日に兆候があった。

突然にカークーラーが「ガ、ガ、ガ」と唸りをあげて温風が出だしたのだ。

とうとうきたかカークーラー。

中古のスクラムはあっちこっちで末期症状をみせる。

その後は再発もしなかったが、十津川へ行った帰りの8月29日にも症状がでてきた。

こういう場合はクーラーを少しばかりの時間を停止すれば復活するのだ。

Sオートサービスの診断では風を送るフアンのモーターが死に体状態に近いという。

いつかはモーターが完全停止するそうだ。

そういうわけで中古品を見つけてもらっていた。

9月12日にはとうとうフアンモーターが絶えた。

さすがにまだまだ暑い夏。

我慢できなくて交換修理した。

次はどんなガタが発生するのだろうかと思いつつ彼岸を迎えたら一挙に涼しい日々になった。

(H22. 9.13 SB932SH撮影)

来迎寺イシキの御膳作り

2010年10月19日 07時20分42秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
9月14日に本尊の善導大師の会式が営まれている都祁来迎寺町来迎寺。

今年、本尊並びに本堂が有形文化財に指定されたお寺だ。

前日は会式に供えられる御膳が当番の人と檀家総代によって作られる。

数は180個にもなるそうだ。

当番の3人は新築の庫裏の炊事場でよせられた野菜を御膳に載せられる大きさに切っていく。

カボチャは太く長いヒラカボチャとアイヅナンキンの二種が用意された。

それを八等分にして切断する。

ヘタは水平にして立てる。

ズイキは幅が広い茎は適度な高さで斜め切りにする。

先の細い部分も斜め切りにするが、そのままでは立てることが困難なのでジャガイモを薄切りした土台に串で挿す。

もう一つはフ(麩)だ。

これもジャガイモに串で挿すのだが形は二つに切断するので山の形になっている。

これらを膳に載せてコメサンを置く。

正方形の平たい板盆は枡ともいう。



それは一度に40枚、50枚とか様々な年代に寄進されたもので、古いものは裏面に寄進された人の名が墨書されていた。

一枚だけが文化十年(1813年)の七月に寄進したと年代が記されていた。

およそ200年前のことだから伝統行事であることには間違いない。

今までこの御膳を支度してきたのは檀家総代の奥さん方だった。

総代は永久総代だというから奥さんの支度はそうとうたいへんだったらしい。

負担をかけまいと相談した結果、3人の女性が家の順の当番で回るようにしたという。

一方では檀家総代の3人が本堂の壁一面にその御膳を供える棚を作っていく。

障子紙を一面に張って戸板一枚分ぐらいの長さの棚。

それは梯子に掛けていく。



ライトを取り付け、御膳を並べていく。

そこには一枚一枚の「先祖代々惣法界菩提」のお札(名札)が張り出される。

統括総代の大字友田、南之庄に小山戸を加えたソト(外)大字の多田、白石、甲岡、吐山からのお布施(御供)の印だ。

ずらり整然と並んだ御膳は壮観なものだという。

会式は善導大師の命日にあたる17日だったが、住職が替わり14日になったそうだ。

会式は訛ってイシキと呼ばれている。

翌日に営まれた会式には8人の僧侶が法要を営まれた。

御膳は本尊と阿弥陀仏に供えられる。

庫裏の仏壇にもだ。

法要は説法が主で、3人の僧侶が話されおよそ2時間も座っていたと翌日に聞いた。



それはともかく営みを終えた御供の生御膳は山に返された。

放生する意味があるのだろうか。

(H22. 9.13 EOS40D撮影)
(H22. 9.14 EOS40D撮影)

相河の薬師ごもり

2010年10月18日 08時03分48秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
夜7時を過ぎた相河(そうご)の薬師ごもり。

鮮やかな夕陽も落ちてどっぷりと暮れた。

天の薬師さんと十二の薬師さんに供えたお寿司も下げてそれから1時間。

薬師堂の広場を照らし出す蛍光灯の常夜灯の下で女性だけの会話が弾む。

下弦の月は優しく微笑んだ。

雨の日は観音寺の本堂で籠もる薬師ごもり。

天気の良い日は広場。



足を崩してゆっくりとくつろげると話す。

集まったご婦人に女子大学生、高校生も混じる人数でおよそ35人。

小さな子どもたちは広場を降りた外でもにぎやかし。

12日の夜はこうして女性だけの休み時間が過ぎていく。

そろそろ戻りましょうの合図に敷いていたゴザを巻き上げて広場を後にした。

自宅では家男が残り物のお寿司を寂しく味わっていることだろう。

(H22. 9.12 EOS40D撮影)

北野山町の当家決めフリアゲ

2010年10月17日 07時48分40秒 | 楽しみにしておこうっと
10月の秋祭りにおける渡り衆は家の順であって既に決まっている。

しかし、その年の当家は直前の9月にフリアゲと呼ばれる儀式で決められる。

フリアゲの道具は茶碗と半紙だ。

穴を開けた半紙を茶碗に被せる。

その中には当家に当たる氏子たちの名を記した紙片が入れられている。

その儀式は戸隠神社本殿の前に歩み出た総代が振り上げる行為をするのだ。

舞殿から登って本殿前にあがる。

舞殿には二人の総代が残る。立合人である。

一般の人たちは社務所でその厳粛な式典を見守るという。

振り上げられた籤が二つであった場合は一つを茶碗に戻す。

振り上げた籤は広げた白扇に納める。

扇は籤が中に入ったまま折りたたんで閉じたまま持って降りる。

立会人はその行為が厳正なものか見届ける。籤はまだ開かれない。

社務所に降りた総代は自治会長の前に進み出る。

自治会長は広げた白扇からその籤を取り上げる。

この段階でも誰が決まったのかまだ判らない。

そろりと籤が広げられ記された名前を呼び出す。

こうして今年の当家が決まる。

とても厳粛な儀式だと清掃していた2人の当番は話した。

北野山町は22軒。もっと昔は44軒だったそうだ。

フリアゲで決める当家に当たるのは22年に一度の計算になるが、実際はそうはいかない。

一回りしたときに始めに当たった人が、22年後以降のフリアゲのときに当たったのが最後であれば44年後にもなるわけだ。

万が良くその逆であれば2年後になる。

籤とはそういうものだと仰る。

もともとは15日だったが、サラリーマンが増えて集まりやすいその日に近い日曜日に行われている。

(H22. 9.12 EOS40D撮影)

津越八幡祭の京の飯

2010年10月16日 07時42分58秒 | 山添村へ
山添村北野の在所の一つに津越(つごえ)がある。

大正二年までは京都石清水八幡宮から分霊を賜った八幡神社があった。

廃校となった北野小学校の裏の山の中だったそうだ。

神社は北野の美統(みすまる)神社に合祀された。

その記録である津越組の八幡参宮講人名帳が残されている。

それによると石清水八幡宮で神符札を授かってくる代参の人の名が記されている。

一回目が大正八年一月をはじめにその後も毎年のごとく代参者が決められていることが記されている。

その代参参りをする人は1月5日に行われる西村(津越と腰越)の初祈祷の日に、茶碗に入れられたコヨリ籤を振り上げるフリアゲ神事によって決められている。

現在の津越は11軒。

年中行事は形式を維持しつつ現在もなお続けられてきた。

朝早くから二人の年預が八幡宮の提灯をぶら下げた薬師堂に集まってきた。

昼から氏子たちが召される八幡祭の京の飯作りだ。

京の飯と呼ばれる御供メシは一軒につき八合と決められていた。

八幡さんの祭りやさかいといって数字は八。

とてもじゃないが食べきれないと意見がでて、最近は五合になった。

五升半のメシは大釜で炊きあげる。

それができたら昔から使われている桝に入れて押しメシにする。

形は真四角だ。



その上には茶碗によそったメシを積み上げる。

丸と四角の二段のメシになった。

「キョウ」のメシと呼ばれている。

石清水の八幡さんを祭っているので「京」の字が充てられている。

四角い押しメシは下田鹿島神社のカクメシ、長引八王神社のキョウメシ(ツノメシ)、下永東・西城のスシメシ、箸中ノグチサンのツノメシ、新泉子供頭屋の押しご飯などを拝見したことはあるが、二段構造は拝見したことがなく珍しい形であろう。

なぜにこのような形になったのかは未だに判らないと氏子たちは話す。



一方ではキョウの膳に添えられるクルミを作っていく。

炊事場は年預の奥さんが任された。

十丁のコンニャクは短冊切り。

袋入り30gのヒジキのアラメは八袋。予め水で戻しておく。

豆は大豆だ。水に浸したものを鍋で茹でる。

大量の豆はミキサーで挽いていく。

昔は石臼で挽いていたのであろう。

現代の機械でも少しずつしかできない。

おばあちゃんから「大豆は炊きすぎてもあかん。少し固めでないとあかん」と、やいやい言われたことを思い出した奥さん。「その塩梅が難しいんよ」と話しながらミキサーを挽いている。

コンニャクとヒジキは醤油、砂糖、味醂で味付けする。

それを挽いた豆と和えるのだ。

クルミ和えと呼んでいる料理は二種類作る。

一つは豆とコンニャク。

もう一つはヒジキと豆のクルミ和え。豆そのものの味がぷうんと香る。

味は薄めで「これでいいのだ」と年預は肯いた。

添え物はもう一品あって、ヒジキそのものである。

これらは氏子たちが家から持ってきた膳に盛られるのだ。

形大きさは違えども料理の膳は同じだ。

一つ一つ丁寧に膳に盛る。

本来は京の飯にきな粉が塗されるのだが、味を好まない注文が増えたことから袋入りになった。

面倒だが少しずつ袋に入れる年預。

4、5年に一回は回ってくる。

「前回の支度は忘れてしまうなあ」と話しながら作っていった。



およそ3時間半もかかった京の膳作り。

六粒の大豆を膳脇に置いてできあがった。

昼の時間をとることも難しく僅かな時間をこさえて腹ごしらえした4人。

席に岩清水八幡から授かった神符を添えて支度が調った。

丁度そのころに氏子たちがやってきた。

阿弥陀さんや十二神将などが整然と並ぶ横の祠は薬師如来。

寛政七年に新調された斗帳の幕を開けて八幡さんと同じように京の膳を供えられた。

傍らにはフシの木で作った長短二膳の箸が添えられる。

神さん仏さんにも食べてもらう御供さんだ。



始めましょうかの合図で一同は八幡さんに向かって座る。

祝詞を奏上するのは神道の家の人。

祓えの詞を述べて拝礼する。

神事はしごく簡単に終わった。

早速始まった京の膳喰い。

ビールサーバーから注がれた生ビールに乾杯。



酒も飲んで賑やかな宴になった。

昨晩は八幡さんの宵宮。この夜もたらふく飲んだが今日も飲む。

一般的には神事後の直会だが津越の八幡祭は京の膳が主役のような気がする。

合祀される前から行われていたかどうか定かでないが、たらふく食べることに意味があったのではないだろうか。

適度な時間が過ぎて宴もたけなわ。

長老が汁を出せと言われてからナスのすまし汁が運ばれる。

そのころには供えられた京の飯は御供(ごく)さんだと言って配膳される。

自分の膳の京の飯は箸をつけることもなく持って帰るそうだ。

時代を引き継ぐ息子たちはこの伝統行事を引き継いでくれるだろうかと語られた。

(H22. 9.12 EOS40D撮影)

北野奥小派籠もりのフリアゲ

2010年10月15日 07時47分13秒 | 山添村へ
北野天神社に奉納される田楽舞の豊田楽。

それには渡り衆の七人が舞う。

そのうちの四人は奥小派(おくこば)の地区から選び出される。

選ぶ籤引きは竹筒に入れられたコヨリである。

奥小派は38軒。祭りの当屋は籤から外される。

毎年選び出される渡り衆は予備人を入れて5人だ。

年当番の年預(ねんにょ)が籤を引くのだが、それを現認するのは副総代の二人。

村の一団も加わる。

籤引きが厳正に行われるかどうかを確認する立会人たちだ。

午前中に虫の祈祷や風祈祷など帝釈寺の行事を終えた総代たちは天神社の参籠所に集まった。

机や座布団を準備した席についた村人たち。

「本日の籠もりは地区の祭り、ならびに平穏無事や五穀豊穣を願う日だ。なおかつ、祭りの中心的な役割を担う渡り衆を決める大事な日でもある」と挨拶された総代。

竹筒に10本(病い人の3人を除く残された人数)のコヨリを入れた。

当たり籤のコヨリは赤い印が付けられている。



これが渡り衆の当たり籤である。

名前を詠み上げ籤を引き上げる。

赤い色がでれば氏名を記す副総代。次々と渡り衆が決まっていった。

およそ10分もかからなかった籤引きはこうして厳粛に終えた。

昨年までは竹筒ではなくて封筒だった。

これでは格好がつかんと、以前の形に戻したという。

籤引きの正式な名称は「フリアゲ」だという。

籤を引くのが振り上げとは・・・。

およそ50年前は竹筒に穴を開けた半紙を広げていた。

中には氏名を記した紙片。丸めていたそうだ。

それを手に持って上方に振った。

だから「フリアゲ」なのだという。

形式は替わっても厳かな籤引きには変わりないと総代や長老はいう。

こうして毎年に5人の渡り衆が選ばれる。

予備に当たった人は出番がなければ次年に回される。

あと2回できる計算だ。

一巡すれば再び最初に戻る38軒。

「俺は5回も渡り衆をこなしたことがある」とYさんは黒光りの笑顔で話した。

今年の秋祭りは渡り衆が着る素襖(そう)や太鼓などを総替えで新調したという。

体育の日、村の人たちは彼らを迎えることになるだろうといいつつ座敷は直会の場に転じていく。



奥のごちそうは鶏のすき焼き。

机には食材が並べられていく。

酒やビールもでてきた。

配膳に忙しく動き回るのは年預だ。

皆も席について長老が乾杯の音頭をとった。

こうして奥小派(こば)の籠もりは始まった。

かつては各自が持参した布団に潜って寝た。

泊まり込みのお籠もりだったそうだ。

(H22. 9.11 EOS40D撮影)

日々坦々

2010年10月14日 07時18分21秒 | 食事が主な周辺をお散歩
西梅田界隈にでかけた。

何年ぶりになるであろうか。

普段暮らす地域と違って様変わりの世界の都会は大きなビルが立ち並ぶ。

どこが目的のビルか判らない。

地下鉄を降りて地下街へ。

どの階段をあがるのか番号を確かめて上がっていった。

それが大阪ニコンサロンがある西のオフイスタワー。

静かに上昇するエレベーターが気持ちいい。

上からの眺めもビルが林立している景観だ。

オフイスは暗い。開店時間がまだ早かったのだ。



仕方ないので降りて路上にでた。

梅田辺りを眺めた。



車や人が往来している。

ファッション的かなと思いきやそうでもない服装だ。

憧れは現実観に戻る。



ここに来たからには堂島へと足を運ぶ。

そこが堂島アバンサ。

ビジネスマン時代には本を求めて度々訪れた。



奈良本はジュンク堂3階人文コーナー11にあった。

積んでいるわけではない。

存在しているだけだ。

足早に去った。

そうしてオフイスタワーに再び着いた。



そこには撮影者の作品がずらりと並ぶ。

撮りためた「日々坦々」の情景だ。

ときおり祭り取材のおりにお会いする石津武史氏が紳士姿で立っていた。

作品は梅田中津のとあるガード下の情景を写している。

なにげなく訪れたガード下。

そこに佇んでいれば様々な人たちが往来していることに気がつかれた。

それも同じ時間に同じ人が。

何度も訪れたことが淡々としたシーンを撮っていく気になったそうだ。

観察力の結果が写真に描かれている。

ドライアイスの作業する人。

それを発見した遊ぶ子供たち。

郵便屋さんや自転車が通りぬける。

うなだれた姿で歩くビジネスマン。

お酒を飲んだ帰りであろうか。

婦人と歩く老人。生活感がにじみ出る。

一日の生活のなかでその一瞬がガード下に姿を現す。

直前はどうだったのだろうか。

そしてどうしていくのだろうか。

断片を切り取った映像は通り抜ける人が語っているようだ。

さらに想像するシチエーションが膨らんでいく。

深い意味のある写真だ。

被写体は人。撮影承諾は得ているという。



一時間ほど楽しませてもらったあとは都会の味を食べてみたくなった。

カレー+コーヒーセットでワンコインの500円の看板が目に入った。

お店はCRUISE。万席で埋まっていた。

(H22. 9. 7 SB932SH撮影)

南田原の十九夜講

2010年10月13日 03時19分02秒 | 奈良市(東部)へ
南田原では毎月19日に十九夜講が営まれている。

朝早く、当番の人が二人ずつ組になってお参りをする。

境内にある如意輪菩薩の石仏の前だ。

その中には数枚の「奉高顕供養者為如意輪観世音菩薩十九夜講中家内安全祈願」と書かれているお札が残されている。

新しいものは4月の十九夜講に供えられたものだそうだ。

お札は十輪寺で拝んでいただいたそうだ。

花をおまし、線香を立てて念仏を唱える。

「きみょうちょうらい じゅうくやの・・・」のお念仏だ。

子供ができますようにと願う十九夜講はご婦人の集まり。

その晩は弁当を持って公民館でよばれる。

(H22. 9. 5 SB932SH撮影)

南田原南福寺八日薬師のいせき

2010年10月12日 07時49分01秒 | 奈良市(東部)へ
かつては八日の薬師さんの日が営みだった南田原町の「いせき」。

行事の名称である「いせき」とは何ぞである。

県内では名称が訛って語られることが多々ある。

それらをここで列挙するには文字数があまりにも足らない。

その道に詳しい研究者に尋ねたところ「いせき」は「会式」が訛ったものだと教わった。

「えしき」が「いしき」に変化した。

さらに「いしぇき」になり「いせき」と訛ったのであろうという。

会式となれば仏事の行事になる。

南田原町の「いせき」は薬師堂の行事として行われている。

「その昔のことだ」と前置きされて話された。

元は南福寺と呼ばれるお寺があったそうだ。広い堂宇であったと話す。

宝永元年(1704年)7月17日」の棟札が残されている南福寺。正面にある鰐口も古く延宝六年(1678年)のものだという。

同寺の名残かどうか不明だが本尊薬師如来を祀っていた薬師堂がここにある。

祀っていた薬師如来立像は盗まれたそうだ。

その後に再び仏像を造り祀ったがそれも盗まれた。

阿弥陀如来もあったがそれも盗まれたという。

それからは不動明王が本尊になったが「いせき」の行事は続けられてきた。

一時は廃れていた「いせき」。

村で大災害が起きたそうだ。

それはいかんと中断を止めて現在に至っていると話す。

その話は生まれていなかった時代、戦前だったという。



八日薬師の「いせき」にはケト(ケイトウ)などのお花をおまし(飾り)、祭壇にこしらえた特異な形のオソナエが並ぶ。

年番の「にんにょ」さんの手によるものだ。

「にんにょ」は「年用」の漢字を充てている。

南田原は30数軒の集落。

「にんにょ」は三人ずつで毎年交替するから10年に一度は役を担う。

オソナエの中央はベイナスに赤トウガラシとマメでこしらえた人の顔のような形をしている。

その両脇は卒塔婆を現すのだろうか。

薄く切った5枚のパンが嵌められている。

本来はフ(麩)なのであるが手に入らぬために、仕方なくパンに切り替えている。

後方には大きなズイキとダイコンが立てている。

前方には高く盛ったご飯。

まっすぐの箸を立てている。

両脇はお茶に線香だ。



元寺の南福寺の菩提を弔う「いせき」。

お世話になったお礼だとも話す参拝者。

お賽銭を捧げて手を合わして合掌。



祭壇の前はローソク塔の替わりだという「トーシミ」がある。

手に入りにくい灯心は昨年の「にんにょ」が入手された。

サラダ油を受け皿に入れて灯心に火を点ける。

心が浄火されるような灯心の灯りが十三灯。

こぼれた油で黒光りした「トーシミ」は南田原の歴史を感じさせる。

この火は「いせき」の会合が終わるまで点されている。

火が消えないように見張るのが「にんにょ」だ。

公民館に集まった村の会合の接待にせわしく動き回る。

明治時代までは南福寺に住職が居た。

その住職の命日にあたる8月18日は「ぼざいのさけ」が行われたそうだ。

「ぼざいのさけ」を充てる漢字は「菩提の酒」であろうと話す。

これも「ぼだい(菩提)」が訛って「ぼざい」になったのである。

9月12日は宮さんの「コモリ」。

南田原の宮さんは茗荷町に鎮座する天満宮だ。

弁当を持ってきた「にんにょ」が籠もりをする。

昔は一晩泊まったが今はえー加減な時間で帰るという。

今年の10月9日は宵宮。朝は8時に集合だと自治会長が会合で伝えている。

伝達などを終えたらお酒を飲んで仕出し弁当の会食。

昔は風呂敷に手弁当を包んで持ってきたという。

ほどよい時間になると巻き寿司も配られる。

これは夜食事の分になる。

昔は夜まで会合をしていたのでその分だという。

(H22. 9. 5 EOS40D撮影)