マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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山添菅生のガキダナ

2011年09月20日 06時41分00秒 | 山添村へ
13日の朝に家の餓鬼棚をこしらえた菅生のN家。

石の周りには四方を囲った竹。

それは頂点で結ばれている。

それはまるで屋根のように感じる覆い屋の形態だ。

棚には昔使っていた竹カゴを伏せて置き、その上に餓鬼に食べてもらうようにとお盆に盛ったナスビとキュウリ。

例年ならそのままであるのだが、この年は試しに足を付けてみたという。

お盆にはカキの葉が2枚。

それぞれに茹でて丸めたソーメンとそのままのソーメンがある。

話によれば長いままのソーメンはオーコで丸めたのは紐だという。

餓鬼が供えた食べ物を持って帰るのに担ぐオーコとそれを縛る紐だという。

箸はといえばカキの枝だそうだ。



両脇に花立てを立ててミソハギやオミナエシを飾っていたという。

13日の夕方はオチツキダンゴ、14日の朝はお粥やお漬物、昼はごはんにヒユのおひたし、夜はソーメンと決まっていると婦人はいう。

「菅生でこんなことをやっているのはもう一軒しかない」と話す当主。

先代が亡くなってからもそれを引き継いで30年にもなるそうだ。

珍しい形態のガキダナは他所でもあるのだろうか聞き取りの範囲を広げなくてはならない。

やまぞえ双書によれば大西のそれの写真が掲載されている。

竹籠を伏せてタロ箕をする松尾の事例がある。

ちなみに婦人の実家は都祁南之庄。

菅生ではトビウオだったがサシサバがあったという。

桜井から来ていた行商がそれを売っていたそうだ。

ヒダラもあったという。

トビウオは伊勢で仕入れて名張経由で来ていたらしい。

2尾のサシサバ、トビウオ、ヒダラ、いすれにしても両親が揃っている家ではそれを食べていたという。

(H23. 8.15 EOS40D撮影)

山添菅生施餓鬼

2011年09月19日 08時04分35秒 | 山添村へ
ミーン、ミーンと鳴くミンミンゼミ。

ヒグラシも鳴き始めた山添村の菅生。

村の氏神さんである十二社神社参籠所では毎月当番が入れ換わる月ドウゲ(充てる字は道化)と応援する4人のネンヨウ(年用と書きネンニョとも呼ぶ)が忙しく動き回っている。

ネンヨウは12月から翌年の11月まで神社祭礼を勤めるマツリトーヤとも呼ばれ、主に酒宴のときに酒を注ぎまわる役目だという。

朝から設えた施餓鬼棚がようやくできあがった頃は正午だった。

参籠所いっぱいに並べた座布団。

集まってきた村人たちがそこに座る席だ。

上座は長老たちの席。

窓側は後出(おしろでと呼び北出とも)、谷出(たんで)、鍛冶屋出(かんじゃで)地区の人たちで反対側は峯出(むねで)の東、西に大海道出(おげって)地区の決まった席である。

本来はお寺の行事である狭いことから参籠所が営みの場となっている菅生の施餓鬼会。

参籠所中央に設えた施餓鬼棚は五本の幟を立てて周囲にヒバ(桧の葉)で生垣のように周りを囲う。

その中には大きなドロイモの葉が一枚。

右は大皿に盛ったごはんで左はナスビとキュウリを輪切りしたもの。

どっさりと盛られている。

手前にシキミの枝葉を添えている。

向こう側には生死流転する迷いを意味する三界万霊の立札が置かれた。

五本の幟は左手前から時計回りに南無過去寶勝如来、南無妙色身如来、南無甘露王如来、南無廣博身如来、南無離怖畏如来とある。

飾ったお花はオミナエシにキキョウとこれも決まっている。

隣村春日の不動院から来られた僧侶が祭壇前に立って「家族の先祖は帰っているが、家に入れない餓鬼たちはこの場で供養してあげよう」と施餓鬼会の法要が始められた。

餓鬼棚には長いハシゴが掛けられている。

それをつたって登ってくる餓鬼は棚に供えられたごはんやナスビ、キュウリを食べるという。

過去帳に受付を済ませた新仏の家は喪服で参列される初施餓鬼である。

前年の16日から前日までに亡くなられた人たちの回向供養である。

過去帳には亡くなった年の記載はない。

月日だけでそれを詠み上げる僧侶。

そうして始まった仏飯(ぶっぱん)御食(おんじき)の作法。

一人ずつ餓鬼棚の前に立って長い箸でごはんとナスビ、キュウリをドロイモの葉に載せていく。



「長い箸は自分への口に持っていくものでない。餓鬼の口に食べ物を持っていく施しの箸だ」という。その際にはシキミをお水に浸してやる。餓鬼はたくさんの水がなければ食べることができないのだと僧侶は話す。

一人、一人その作法をされるのでおよそ20分はかかる。

その間、「なーむ大師 へんじょう金剛 なーむ 三界万霊 じょうぶつー」と三界万霊を唱えていく僧侶。

後半は般若心経で法要を終えた。



およそ1時間余りで村の施餓鬼会を終えた棚は餓鬼たちが喰い散らかしたかのような様になった。

(H23. 8.15 EOS40D撮影)

池田の念仏鉦

2011年09月18日 08時10分51秒 | 奈良市へ
かつて春、秋の二度の彼岸のときや葬式の際に唱えていた池田町の六斎念仏。

彼岸の日、念仏を唱えたあとは公民館で会食をしていた。

アブラアゲ、ゼンマイ、ドロイモ、コンニャクが入ったイロゴハンを食べていた。

葬式のときには鉦を3回鳴らした。

早朝に辻で鳴らす1番鉦、出棺を知らせる2番鉦、出棺の際に門で「バンドー」を唱える鉦だった。

それは埋葬後の墓地でもされていた。

葬式の翌日や35日の夜にも唱えていた。

いたという過去形であるのはかつてのことだ。

昭和24年辺りから下火になって60年にはほとんどがなくなった。

アラタナ(新棚)を参る8月10日の十日念仏もあったがそれもなくなった。

当時は家の門口に設えたアラタナで、その周りに蓆を敷いて座って念仏をしていた。

そのときにはソラマメの塩炊きをだした。

今でも毎月営みをしている尼講の女性たちはその日を外して新盆の家を巡り御詠歌を唱えていたと記録されている。

葬式のときの念仏が続いていたがいつしかされなくなったが、広大寺池畔で燃やされるタイマツの日だけは今でも続いている。

池田町の念仏は講と呼ばれる特別な組織体ではなく、したい人があれば鉦叩きを譲るというふうらしい。

この年に集まった男性は20人。

そのうち13人が鉦叩きをしていた。

念仏を唱えているのは割れた音で奏でる録音カセットテープ。

昭和46年に収録されたテープは今でも現役で活躍している。

鉦念仏をされる人たちは腰にシキビ小枝を差している。



かつてはタイマツを燃やすときに「カンカラカン」と打ち鳴らして集まってきた。

出た煙を合図に太鼓を打って踊った。

念仏の人たちはそれに合わせて鉦を打って全員が唱和した「勇み踊り」をしていたそうだが、今はなくタイマツが倒れたら鉦念仏の人たちは墓地へ向かう。

めいめいが墓参りをしてシキビを供える。

六地蔵にもそれを供える。



そして始まった鉦念仏。

ほとんど聞き取れなくなった念仏テープに合わせて鉦を打つ。

夕日は生駒の山にさしかかり墓地は闇の時に入っていく。



念仏鉦を叩いた人たちは揃って公民館に戻っていった。

オショウライサンを迎えたのは13日。

線香をくゆらして仏壇に遷された。

15日には先祖さんを天に送って行くのだが、この念仏鉦が叩かれた墓地は先祖さんがいない。

であるのに墓参りや念仏がされる。

これはどういうことなのか判らないと鉦を叩いていたIさんは不可思議だと首を傾げた。

(H23. 8.14 EOS40D撮影)

池田のタイマツ

2011年09月17日 08時09分52秒 | 奈良市へ
年当番の輪番にあたる北、巽、西城(にしんじょ)垣内の人たちが行事の準備や世話にあたる奈良市池田町のタイマツ行事。

タイマツの材料集めから会所の支度、念仏鉦なども。

この年は北垣内が世話人にあたった。

タイマツの竹は縄で縛って簾状にする。

それに藁や竹の葉を敷きつめて転がしながら筒状にする。

できあがったタイマツはおそろしくでかい。

直径が1m、高さはほぼ4mにもなる大型のタイマツである。

保管してあった一台の太鼓を広大寺池畔に運びこむ際に打ち鳴らす。

昭和9年に「勇み踊り」が復興された際に貼り替えられた大きな太鼓である。

かつてはタイマツ周りでそれを唄って踊っていた太鼓踊りがあった。

70年ぶりに復活したが昭和15年まで続けられたそうだ。

大正13年の踊歌本「勇踊之歌 大字山」と同じ詞章であったというから復興した当時指導にあたった隣村の山村(やまむら)町の長老は住む地の歌を流用したようだ。

「よいとこ よいとこ よいとこさっせ すってんてれつく よいとこせ(反復) さえーえさ どっこいしょ(限りなく反復) さあさあさ ちゃっきりじゃ ちゃちゃちゃっきり ちゃっきりさ ちゃっきり ちゃちゃっきり」の詞章に天武天皇の歌が「此処は何処 此処は山村天武天 五穀成就の雨降らし あありがたやの あありがたやの なあもでおどりを おんどろうやああ おんどろやああ てて天突 つっつくつ てて天突 つっつくつ てててててててん 天突つ 天突 天突 つっつんつん みんだあんぶうう なあむあいみんだああんぶ 天突 天突つ 天突 て天突 天突 天突つ てしてて は なもで あれわさ これわさ よいとこよいとこよいさっさ てしてて は なもで やあつさつさえ」でった。

ところが村の記録によれば池田町オリジナルとされる歌があったそうだ。

「此処は何処 此処郷中広大寺池 五穀成就の水湛え 此処に水死を封じるため ありがたやの なぁもでおどりを おどろうやー おどろやー てててんつくつうつくつ てててんつくつうつくつ てててててててん てんつく てんつく つうつん つん みんだぁんんぶうう なぁむあ みんだあん あんぶ てんつく て てんつく てんつく てんつくつ てしてて はなもで あれはさ よいとこよいとこ よいさっさ てしてては なもで やあっさっさえ」。



タイマツのてっぺんに火を移すのはナタネの殻(現在は小麦藁)。

竹の棒の先端に括りつけている。

煙が出だして炎が噴き出した。

まさしくそれはタイマツだ。



ときおりポン、ポンと竹がはぜる音がする。

夕日があたり金色に輝く池田のタイマツ。

しばらくして当番の人が張っていた綱を緩めた。

そのとたんに倒だした大きなタイマツ。

倒れる方向によってその年の収穫を占ったそうだ。

あれほど大きなタイマツ燃え尽きるのは早い。



その場は翌朝に各家で祀られた先祖さんを燃やす場となる。

タイマツ行事は広大寺池で溺れて亡くなった人々の供養、池に住んでいた龍が村人を殺したのでタイマツで龍にヤイトをしたとか・・。

また、タイマツの煙で悪霊がついてくるので雨乞いをしたとか。

五穀豊穣、悪病退散の祈願を意図したものなど様々な言い伝えがあるそうだ。



波紋を広げた池は静かな夜を迎えていく。

(H23. 8.14 EOS40D撮影)

白土町大回り子供のチャチャンコ

2011年09月16日 07時53分05秒 | 大和郡山市へ
白土町の子供のチャチャンコを勤めるのは6年生以下の男児。

足りない場合は講中の親戚筋から男児を借りてでも行われている。

7日から毎日行われている太鼓打ちと鉦叩きの念仏は14日で幕を閉じる。

前日までは浄福寺の門下、本堂の前、かつて仲家の玄関先だった地区中央の辻、北のフダワ(札場が訛った)の辻、西のセセンボ(祖先墓が訛った)の墓入り口、旧仲家の墓に向かって叩く水路の橋の上。

そして、再び浄福寺に戻り門下と本堂前である。

新仏の家があればその行程の途中で念仏鉦が叩かれる。

ところが最終日の14日はさらに距離が延びるのである。

いつも通り自転車に跨って走っていく子供たち。

付き添いの親たちも同様に自転車だ。

本堂前での念仏が終わるや否や一目散に飛びだした。

目指すは隣村の石川町と境界する千束の地区。

出屋敷の地だとされる。



ここは古くは中ツ道と呼ばれた街道を挟んで東の家筋が石川町、西が白土町になる。

そこの南端にある辻の橋辺りで念仏鉦が打たれた。

並びで新仏の家(街道と庭先の2か所で)へ向かったあとは街道を一挙に南下する。

一直線だけに自転車の速度は増す一方だ。



ほどよく着いたのは地蔵祠がある辻堂橋だった。

話によればそこへ辿りつく真ん中辺りでもしていたという。

そこはかつて地蔵さんの祠があった地であるが、道路を拡張した際に消滅したことから何もせずに通りぬけていったのだ。

辻堂橋では地蔵祠に向かって鉦を打つから東を向いている。



さらに西へ向かって行ったのは白土池の堤防下。

その端のほうで鉦を打つ。



昔にその池で亡くなった人を弔うのだという。

もう少し行って田んぼの境目が牛塚と呼ばれる地。

そこは牛の弔い地。



大昔のことだがそこで牛を飼っていた。

その牛が亡くなったので弔いの鉦を打つという。

そして集落南の辻へ向かっていった。



まるで地区全域を回る巡拝の弔いのような大回りだった。

こうしてこの年の夏も子供たちの念仏がようやく終わった。

(H23. 8.14 EOS40D撮影)

津越のサシサバのイタダキサン

2011年09月15日 06時43分58秒 | 山添村へ
津越の大橋にある商店。

サシサバを売っているお店だ。

ご主人が朝から塩干もののサバを2尾。

頭から差しこんで作ったサシサバは当家でも供えてお祭りをされる。

新盆であれば縁側にヒノキ(スギの場合もある)の葉で覆ったヤカタを立てる。

そこにはオガラのハシゴを掛けると話す。

ご先祖さんへのお供えはソーメンやごはん。

キュウリやサツマイモ、オクラ。

キュウリやニンジンのおひたし料理を並べるという。

オモチは夕方にコモチを1個。

これを「オミヤゲ」と呼ぶそうで帰ってこられた先祖さんに持って帰ってもらうと話す。

さて、当家のサシサバはどうするのかと言えば、2尾を皿に盛って神棚に供える。

一般的には仏壇であるそうだが当家は神道。

仏と神の違いはあるが先祖さんには違いない。

その前に正座した男性は当家の息子さん。

サシサバが盛られた皿を持って頭の上に差し出した。

「いただきます」と心に念じて2回する。



この作法は東山中の一部で見られる正月の「イタダキサン」と同じである。

正月のイタダキサンは当主がされるがサシサバのイタダキサンは子供である。

この作法をされるのは両親が健在である家に限って行われる個人の風習である。

大きくはなったが子供の息子さん。

次男も嫁いだ長女も同様にこの作法をされる。

両親が健在といえば孫たちもそれに該当するから同じようにされる。

春にヤッコメの行事で地区を巡ってお菓子をもらっていた子供たちだ。

ご無理を言ってこの作法を拝見させていただいた。

ありがたく感謝するサシサバであった。

このように家族が揃っていなければできないサシサバのイタダキサン。

幸せな家族の団らんは商店を営んでいるだけに揃って食事をすることが難しいという。

そのサシサバは焼いてから水に浸けて塩抜きをする。

それを二杯酢に浸して食するそうだ。

サシサバはいただきの作法を済ませばいつ食べても構わないようでトビウオを使ったこともあると話す。

このようなサシサバの風習は隣村の桐山や松尾、室生の毛原、奈良市和田町(14日の昼に蓮の葉に包んで両親が健在な家で食べる。主に孫だった)、田原本町の平田(両親がいる家では15日の昼に子供の膳にサシサバを据えた)もあったそうだが布目ダム北に位置する奈良市の邑地町、柳生町では見られないようだ。

ちなみに「やまぞえ双書」にこれを庭で食べる風習が紹介されている。

14日、15日の夕食は庭に蓆を敷いて家族がそこへ集まる。

その食卓に並べられたなかにトビウオ(本来はサシサバだと)があったそうだ。

両親が揃っている家は2尾で片親なら1尾。

星空の下で焼いて食べたそうで、それを庭食(にわじき)といったそうだ。

後日に同村の遅瀬でご婦人たちに聞き取りした結果、それはサシサバでなくトビウオだった

両親が揃っている家では14日の夜に食べたという。

一枚目はカンカラカンに干した開きのトビウオ。

それに重ねるように上から置いたのが焼いたトビウオだった。

庭に蓆を敷いて子供たちが座った。

そこでドロイモの葉に載せた2尾のトビウオを頭の上にかざした。

食べる前に両親から「いただけよ」と言われてそうした。

片親であれば13日に食べたという婦人もいる。

そうした作法によく似ているのが正月元旦を迎えた夜。

除夜の鐘がなったあとだった。

家族全員に膳が並べられる。

もうひとつは回り膳と呼ぶ膳だ。

それを当主から順に回していく。

その際の作法がトビウオのイタダキとよく似ているというのだ。

それは「ちょうじゃどん」と呼ぶ膳だったとUさんは話す。

(H23. 8.14 EOS40D撮影)

ラーメンとぶっかけうどん

2011年09月14日 06時43分09秒 | 食事が主な周辺をお散歩
午前中の取材を終えて時が経つ。

午後からの取材には時間があるが飯どきが近づいてきた。

同行取材していた知人らと相談した結果、近くの「トンネル」はどうかという。

そこは度々お邪魔する食事処のトンネル。

先々月はショウユ味のラーメンにした。コクがあるように見えるがあっさりとまでは・・・。

それでも暑くなってきたときには汗がかきたくてこれにした。

そのラーメンが再び食べられるかと思いきややはり盆休みだった。

そこで目指したのが都祁の針。

西名阪国道を往来する車客がひと休みする針テラス。

駐車場はいつも満杯に近い。

お盆であっても集客が多い。

そんななかあっさりと食したいと思って「麺之庄つるまる饂飩(うどん)」のドアを開けた。

そこでもトレーをもつ食事客が列を作っている。

何がいいのかと言えば標準体のうどん。

なんとぶっかけうどんが280円だった。



カツオブシやネギ、テンカスなどをトッピング。ぶっかけにはショウガもつきもの。

それを入れて胃袋行き。

コシはあるし出汁も美味い。

いいよね。

帰宅してから判ったことだが、そのお店はイオンモール大和郡山店3階にもあった。

気がつかなったんだな。

(H23. 6.26 SB932SH撮影)
(H23. 8.14 SB932SH撮影)

南田原のオショウライサン

2011年09月13日 08時37分59秒 | 奈良市(東部)へ
13日の夕方になったら十輪寺の住職がお念仏を唱えに来てくれるのでそれまでに先祖さんのタナを設えておくと話す南田原のSさん。

ご先祖さんは位牌になっている。

それを祭壇にずらりと並べておく。

祭壇にはゴザを敷いておくS家。

新仏の家ではそこに白い箱があるという。

竹で支柱を組んだヒバ(桧の葉)を覆ったヤカタに位牌やその白い箱が置かれるそうだ。

縁側とか雨がかからないノキに立てオガラのハシゴを掛ける。

九段ぐらいあるそうだ。

7日盆に参った親戚の家で祀ってあって拝んできたと話す。

かつては十輪寺の墓地の竹やぶに持っていったが、それは盆が終われば会所の焼却炉で焼くことになっている。

両脇にはお花が飾られている祭壇。

赤い花のミソハギ、黄色はオミナエシでキキョウなどこの時期に咲く花々である。

そこにはシキビもある。

並べた位牌の前にはハスの葉(足らなかったので一部はドロイモの葉)を敷いてそれぞれにカキの葉が置かれる。

そこにはミソハギの枝で作った箸を添えてノリを巻いたオニギリを供える。

位牌一体が複数戒名であればその個数にするという。

本来はキナコかアズキアンコを塗したボタモチにするのだがこの年は便宜上オニギリにされた。

中央に置かれたお皿にはモチがある。

それをオチツキモチと呼んでいる。

前日の夜に供えたオチツキモチは先祖さんがその夜の夜食に食べるのだという。

傍らには盆に置かれた野菜がある。

スイカ、キュウリ、ナスビ、トマト、カボチャなどは自宅で栽培したものだ。

その日の朝におましたお茶。

1時間おきに新しく入れ替える。

昼はごはんにダイコン葉の味噌和え、夜は茹でたソーメンを丸めて置く。

鉦を叩いて西国三十三番ご詠歌を唱えるなど、今日一日はこうして先祖さんのお世話をするのが勤めだという。



ネコが食べてしまうので玄関脇に供えられたガキンドさん。

カキの葉の上にはごはん。

切ったキュウリは線香立にしている。

ガキンドは迷える無縁仏だという。

13日の夕方は庭の門口に一対のタイマツを燃やして先祖さんを迎える。

竹に枯れたスギの葉を括りつけたタイマツ。

迎えタイマツと呼んでいる。

その火からもらった線香は祭壇に移す。

先祖さんを供養した15日の朝は再び線香に火を点けて鉦を叩いて送りだす。

(H23. 8.14 EOS40D撮影)

八島の新盆の六斎念仏

2011年09月12日 06時45分47秒 | 奈良市へ
7日に盆入りの六斎念仏が営まれた奈良市八島町。

その夜は公民館であったそうだ。

それから一週間後の13日はオショウライサンを迎える日だ。

その夜はそれまでに亡くなられた新仏の家を巡って念仏を唱える鉦講の人たち。

この年は奇しくも講中の会長と前会長家も含まれていた3軒。

一軒、一軒ずつ座敷にあがって念仏を唱える。

長年に亘って講中を教え導いてきた重鎮の弔いは「これで安心して任せられる」と言ってくれただろうかと後任を背負ったI氏たちはそう話す。

直径20cmぐらいの鉦を撞木(しゅもく)で叩いて「ナムアミダーブツ」と抑揚をつけた節で唱える六斎念仏。

「南無阿弥陀仏」の六字名号の調べだ。

ご遺影を前に左右縦に座った講員は20人ほど。

始めに唱えたのは太鼓念仏。

中央に据えた胴長のカンコと呼ばれる小太鼓と大太鼓がバチで打たれる。

軽快なリズムで叩く太鼓念仏は独特の調子である。



新仏(新盆)には「念仏行者」、「地獄地獄」、「西院の河原」の太鼓鉦念仏があるが順当であったことから「念仏行者」の1曲であった。

「念仏行者をたのむれば 播磨の国の書写の寺 紫硯に唐の墨 筆は何筆おさま筆鹿の蒔絵のその筆であそばすお経はかげんの経 ひちくはちかん八の巻 これぞ行者の三ぶの経 助け給えや地獄菩薩 たのめよたのめ念仏を はあなんまいだ はあなんまいだ」と供養の詞章が唱えられた。

そしてもう一つ、鉦念仏が唱えられた。

おそらく「ハクマイ」であろう。

すべての新仏に念仏を唱えた講員たちは汗をぬぐった。

ご存命だったころの前会長が話してくれたことは今でも覚えている。

ご了解をいただき新仏の前で手を合わせてご冥福を祈り合掌。

(H23. 8.13 EOS40D撮影)

山添津越の迎え火

2011年09月11日 07時45分22秒 | 山添村へ
大橋で商店を構えている以上、家の盆の準備はままならない。

ひっきりなしに来る購買客の応対に忙しく動き回る店主は陽が落ちる遅い時間帯になって藁に火を点けることができた。

ご先祖さんを迎える火だ。

家への入り口にそれは2本立てている。

家の門口に供えたガキサン(蛾鬼棚)にはトーシにハスの葉を大きく広げている。

そこにはミョウガ、オクラ、ピーマン、キュウリ、トマト、スイカ、マメなど家で栽培した野菜など。

線香立てはナスビだ。

藁に火が点けられたのを見計らってローソクを灯された。

数個のダンゴがカキの葉に載せられた。

白玉粉で作ったオチツキダンゴも寄せられた。

翌日にはオハギやカミサンのゴハン。

それにキュウリ、ナスビ、マメ、サツマイモ、オクラ、ヒユの煮びたしも供えられるガキサン。



お嫁さんや孫たちは普段みかけない様相に手を合わせて拝んでいる。

ちなみにダンゴのことは先祖さんが持って帰るからと言ってそれをオミヤゲと呼んでいる。

(H23. 8.13 EOS40D撮影)