マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

山添的野の迎え火

2011年09月10日 07時24分17秒 | 山添村へ
山添村の的野で行われているご先祖さんの迎え火。

流れる布目川に沿って掛けられたガードレール付近に設えた藁がある。

それは竹の棒に挿してある。

藁は一折りしている束で2本もあり、既に火を点けたものもあればまだのものもある。

時間帯は夕刻ではあるが点けるのは家の都合のいい時間。

「あんたとこももう点けたん、うちはこれからや」と話す住民たち。

S家では孫たちが楽しみにしていた村の花火大会に行く前にとご主人が火を点けられた。



現在はガードレール下に流れる川。

高く上げられるまでは藁火を燃やすのは川原だったそうだ。

その家ではテラス外にガキダナを設けていた。



タロ箕の中に納められた皿にはドロイモの葉。

そこにトマトやナスビ、ピーマン、オクラなど。

珍しいのは実を付けたナツメだ。

もう一つの皿は・・・といってもそれはカキの葉。

そこに茹でたソーメンやダンゴが供えてある。

白玉で作ったシンコダンゴだそうでハシを添えている。

家の仏壇にも同じようなお供えがあるから見てくださいとご厚意であがらせてもらった。

位牌を並べた仏壇の前にはお供えがあるが、ソーメンとシンコダンゴは六つ。

当家ではこの個数が決まっているという。



「六地蔵かも知れないが、昔からそうしている」と大正15年生まれの母親はいう。

その祭壇には手作りのハシゴが掛けられている。

「誰か判らんけど、登って食べられるようにしている」という。

明日は炊いたアズキを塗したオニギリにするお供え。

どうやらオハギのようである。

今夕は迎え火のタイマツ。

明日は早くも送り火で夕刻には同じようにタイマツに火を点けるそうだ。

隣家のI家では既にタイマツを燃やしていた。

それから畑に行っていた大正生まれのご婦人は戻って来られた。

「うちでもしているからどうぞあがってください」と言われて仏壇を拝見した。

S家と同じように位牌を並べた祭壇がある。



ハシゴは手作りでコウゾの枝を使っている。

結び目もコウゾでそれは皮を剥がしてヒモにしたもの。

祭壇には広げたドロイモの葉に載せたサツマイモ、ナスビ、ピ-マン、キュウリ、カボチャ、トマト、ホオズキにナシなども。

祭壇に線香をくゆらしてローソクを灯して先祖さんに手を合わせる。



当家の縁側には吊り提灯(燈籠とも)が2基掛けられている。



アラジョウライサン(新精霊)と呼んでいる新仏を祭る提灯はその年の7月までに亡くなった場合に吊ると言って親戚筋が亡くなったのでそうしているという。

(H23. 8.13 EOS40D撮影)

山添津越のサシサバ

2011年09月09日 06時54分32秒 | 民俗あれこれ(売る編)
サシサバを食べる風習があると今春に聞いていた。

北野津越にある大橋の商店ではそれを買いにくる客があるといって80尾を注文しておいた店主。

サシサバは開き。

それを頭から頭を挿しこんで2尾を一対ものにしたのがサシサバ。

頭から挿しこむからそう呼んでいるサシサバはものすごく塩辛いようだ。

そんな話を聞いてどの地域にそのような風習が分布しているのだろうかと盆地部の大和郡山を中心に聞き取りを行った。

平均年齢が80歳を超える後期高齢者の婦人たち15人に聞いた結果では一様にその塩辛いサシサバを覚えていた。

覚えていたというのはそれが子供時代のことであって今からおよそ70年以上も前のこと。

サシサバは開きで背開き。

中はこげ茶色だった。



訛ってサッサバと呼ぶ人も少なくない。

それはドロイモの葉に載せたとか折りたたむように包んだという。

両親が揃っていたら2尾。

片親であれば1尾、或いはなし。

それは息子だけだとか、子供の人数分だけ膳に足された。

家族全員の皿に盛られた人もいた。

塩辛いので焼いてから水に浸けて塩抜きをした。

そのままでも食べられたが醤油や二杯酢に付けて食べた人も多い。

ほとんどの人は精進料理ばかりだった15日の盆を終えてから食べたようだ。

住んでいた地区にもよるがサシサバは行商から買ったとか、地区の店で売っていれば買ったと話す。

それら食べる文化が消えたのか、店がなくなったから消えたのか定かでないが戦前や戦後間もない頃まであったという。

当時の風習が確認できた地区は大和郡山市の長安寺町、伊豆七条町、白土町、額田部南・北町、小泉町北、横田町、八条町、天理市の南六条町、中町に桜井市の穴師だった。

ちなみに大和郡山市の田中町、天理市の櫟本、斑鳩町の車瀬や御所市野口の蛇穴ではなかったようだ。

ただ、サシサバは両親が揃っていないと食べることができないだけに、聞き取りの範囲内では断定できない。

各家の風習だけに実施地域の分布を調べるには相当数の聞き取り調査をしなければならないが、80歳以下である場合はその経験をしてなかったこともあり聞き取りは早急にしなくてはと思うが・・・。


そのような聞き取り結果であったが北野津越を訪ねた。

店主の話によれば昔はトビウオの開きでもあったそうだ。

サシサバと同じように塩辛い塩干もの。

両親が健在であるお家の風習は今でも続いているらしく40セット(2尾で)は残りが10セットになっていた。

聞いていたとおりのこげ茶のサシサバはどの家が買われていったのだろうか。

一軒、一軒辿って訪ねていくことは難しいが、隣村の桐山や的野にはそれがあって北に位置する奈良市の邑地町ではないという。

局地的な風習でもあるようだ。

ちなみに津越の店主はどこで仕入れたかといえば大和郡山市の中央卸売市場だった。

なんでも昔から商売をしているお店で和歌山が出身地の店員がいるという。

紀州で仕入れたサバはその人しか作ることができないサシサバだ。

奈良大和は海に面していない土地柄。

生ものの魚を手に入れるのはその流通にあるが運搬するには時間がかかる。

腐ってはならない魚も塩干ものになれば保存が可能。

夏の暑いときの食べ物だったと話す盆地部の年寄りたち。

当時は行商やそれを売り買いする店が相当数あったのだろう。

食文化は交通機関や道路の発達、冷凍冷蔵の機械化などと文化的に変化していった。

最近になってジャスコスーパーで見かけたという大和郡山の婦人もいる。

山添と郡山の食べ物文化交流が繋がったが食べる文化はいずれ消えていくことになるのだろうか。

生きている間にもう一度食べてみたいと話した高齢者の声が耳に残る。

(H23. 8.13 EOS40D撮影)

蔵出しのモノ

2011年09月08日 06時45分06秒 | 民俗あれこれ
ときおり訪問する山添村の北野。

ここへ来て住民のI夫妻の家にお伺いすれば何かと道具が登場する。

「こんなものがあるで」と蔵から出てきたのが御幣。

昨年末の12月31日の祭りでたばったもの。

ヒラヒラは「奉書は切り込みを入れて、手前にこう折っていくんだ」と教えてくださる。

その竹の幣は家に持ち帰ってオハライをする。

それは年末に行われる大祓祭で昨今はその日に近い日曜日になっている。

大祓祭は北野、桐山、室津、松尾、的野、峯寺と奈良市水間町の7ケ大字。

以前は別所も含まれていたという旧東山村の地域。

大祓の御幣は半年に纏めて当番が一括して作る。

北野は今年の6月に担当したようだ。

祭りは午前中に祓えの儀を執り行って在所の人が持ち帰り配られる。

家の祓えは家周りや神棚など。

それを済ませば川に流すか火に燃やす。

なかには風呂の薪にすることもあるらしい。

ところで北野にはサシサバがあったのかと問うてみれば奥さんが「これがそうじゃ」と長い串を持ってきた。



竹串をサバの尻から挿しこみ一塩振りかけて焼いて食べた。

サバは丸いままの生サバだった。

その姿はどうやら北国街道小浜で名高い焼きサバのようだ。

北野にサシサバの風習があったのかと思いきや、それは出身地の月ヶ瀬の月瀬だった。

お盆に実家へ帰ったときにはそれがあった。

サシサバはドロイモの葉に置いて先祖さんにおました。

翌日の夕飯に食べたサシサバは胃袋のなかに入ったが竹串はそのまま残しておいた。

奥さんは「なんでも残しているのだ」とご主人は笑う。

今でもその風習があるのかどうか、行ききしなくなったので判らないという。

サシサバはなかったが盆の風習は13、14日と忙しかったようだ。

13日は墓の掃除。

14日の昼を食べてから墓参り。

「暑かって天気やったら涼しくなった時間帯。雨が降っていれば降る前にお参りをしておく」のだと話す。

そういう光景は私の母親の実家になる大阪南河内の滝谷不動の墓参りと同じだった。

親戚の親父たちはいつもそうしていて、夕立が降る前後に墓参りについていったことを覚えている。

14日は家の門口で茹でたソーメンや生のオイモ(サトイモ)、キュウリ、カボチャを切ってドロイモの葉に載せてお供えをした。

そこにはボタモチもあったが子供がたばっていったと話す。

話は北野などで行われている東山地区の田楽の舞いに移った。

それは隣村の松尾、的野、峯寺。三ケ大字で行われている峯寺六所神社の奉殿楽。

渡り衆が笛や太鼓、ガチャガチャと呼ばれる編木などを鳴らしながら神社に向かう。

それは神社の舞殿で奉納される。

所作を終えた一行はトーヤの家に戻っていく。

と、ここまでは知っていた。

ところがご主人がいうには的野の氏神さん(八幡神社)に行ってそこでも田楽の舞いをしているというのだ。

それを知らなかっただけに再訪問してみたくなった。

それはともかく当家の蔵出しはまだあった。

埃に塗れているが奇麗に揃えられた竹の束だ。

串にでもなるだろうと残しておいたものだ。

一本を抜いて見せてくれた。

それは番傘の骨だった。

北野のホーデンガクではお渡りの際に見られる番傘がある。

その番傘を作りなおさなければならない時代があった。

当主はそれを求めて名張を訪ねていった。

そこには商品にならなかった骨があった。

何かのときに役立つであろうと不要なものをいただいて帰った。

それがそのまま残っていた骨は先をよく見れば小さな穴が空いている。

それが骨の証拠だと示してくれた。

(H23. 8.13 EOS40D撮影)

丹後庄松本寺十日盆

2011年09月07日 06時43分44秒 | 大和郡山市へ
天文九年(1540)といえば大和郡山百万石で名高い豊臣秀長が尾張で生まれた年にあたる。

その十年後の天文十九年(1550)には筒井城主の順昭が病気で亡くなり、琵琶法師の杢阿弥を城主にしたてあげ三年間もそのことを隠した時代だ。

そのころはまだ郡山の城下町は形成されていない。

その以前、もっと昔の庄園時代の頃に形成された大和郡山の旧村地域はその面影を残すところが多く、室町期に広まったとされる環濠集落が各地に散見される。

その旧村の一つにあげられるのが丹後庄町だ。

その名のとおり平城京を造るにあたって丹後からやってきた人たちが住んだとされる。

郡山にはそういった名称の旧村がこの付近に点在している。

美濃庄町もそうだ。

時代は若干異なるらしいが飛鳥の地からやってきた豊浦町、小南町もある。

それはともかく丹後庄町にはかつて松本寺があった。

あったというのは廃れて今では当時の堂を示す建てものがみられないからだ。

松本寺はその字が示すように「まつもとでら」と呼ぶ人が多いようだが、本来の名称は「しょうほんじ」と呼ぶ。

「まつもとでら、ってどこにあるのですが」の問い合わせがあって困ると話す檀家たち。

実は寺が存在しており集会所の中にあった。

本尊の仏像は宿院仏師の二代目である源次作とされる釈迦如来坐像。

天文九年(1540)十二月の作品で源次が仏師と名乗った最も早い時期に造られたと伝えられている。

銘記には源次の息子である源三郎と与一の名があるそうだ。

もう一つの仏像は阿弥陀如来坐像で同じく源次の作品。

翌年の天文十年(1541)四月に造られた。

宿院仏師は正統の仏師系図に載らない番匠(大工関係)出身の仏師集団だったそうだ。

両仏像は平成17年に奈良国立博物館で「戦国時代の奈良仏師~宿院仏師」特別展示で紹介された。

このことを誇りに思っている丹後庄の人たちはそろってそのことを話される。

この日は「十日盆」と呼ばれる法要の日。

三代前から飛鳥寺から住職が参られて法要を営まれる。

先代らが来ていたときは近鉄電車で飛鳥から筒井駅にやってきた。

そこから丹後庄まではたくさんの人たちが曳くリヤカーに乗ってきたそうだ。

平成10年、紀伊半島を上陸した台風7号が県内を縦断して荒らし回った。

室生寺の五重塔が倒木で損壊したことを覚えている人も多いだろう。

その台風は丹後庄も襲って千体寺(浄土宗)本堂の紫檀塗螺鈿厨子(したんぬりらでんずし)<鎌倉時代初期作>が危うい状況に陥った。

前記した仏像と同様に奈良国立博物館に特別展示されたこともある国文化財指定の厨子を守っていきたいと地元民は立ち上がった結果、国の補助が出てコンクリート収蔵庫の建設、厨子の修理やクリーニングが実現したのである。

それまでは松本寺の本尊仏は千体寺に納められていた。

安寿さんが居る時代だった。

その頃も同じように十日盆の営みはあったが場所はといえば千体寺だった。

いつのころか廃寺となった松本寺の本尊は千体寺で安置されていたのである。

そのときの十日盆は松本寺本尊の前ではなく「千体寺の本尊の前に座って手を合わせるのです」と安寿さんから叱られたことを思い出す総代たち。

それが台風の結果が功を奏し、同時に本尊阿弥陀如来坐像も修復されて元の場所に収まった。

今では会所になっているが「ここが松本寺なのです」と口々に話す。

さて、十日盆とは盂蘭盆会のことであって夏の夏安居。

インドでは坊に籠って修業をする。その前に供養をして亡き母親に救われる。

日本で最初に盂蘭盆会を始めたのが飛鳥寺。

そのころは7月であったが今は8月。

お釈迦の筆頭弟子にあげられる目連。先に亡くなった母親の恩に報いるに修業で得た神通力で亡き母親を探した云々・・・。蛾鬼道に堕ち込んで苦しむ霊を救うに食べ物を施した。その功徳を先祖への追善法要となった施餓鬼会の様相であると住職が話す丹後庄の十日盆の営み。

仏説盂蘭盆会経や般若心経が行われた。

焼香を終えてからは回向文。

そのとき、突然に廊下にあった太鼓を出してきた。



障子の扉を開けてそれを叩く。

住職は鉦を叩いて「ナンマイダー」をバチで叩く太鼓とともに50回。

調子併せて唱える作法だ。

話によれば「その昔、天気がヒヤケ(干上がって)になって、その年は疫病が流行った。祟りがあったからと太鼓を叩いた。それからはどんなことがあっても続けな」という伝えがある十日盆の作法。

それゆえ今日も続けていると話す。

盆の行事に疫病退散の作法が混ざったのではないかと思われる。

その太鼓には「和州平群郡安堵邑西川兵蔵張之」が書かれていた。

先祖を弔い皆が幸せになるようにと最後は回向文を唱えた。

その後はカマボコを肴に供えたお酒をいただく。



4、5年前まではカマボコでなくアブラアゲだったそうだ。

ぶ厚いアブラアゲは斜めに切って醤油、みりんで味付けして炊いた。

平端のとうふ屋さんで買っていたという。

そのアブラアゲはゼンマイやコンニャクと一緒に炊いて葬式のときにだしていたと話す。

(H23. 8.10 EOS40D撮影)

白土町子供のチャチャンコの新仏参り

2011年09月06日 07時25分42秒 | 大和郡山市へ
二日目のお勤めになった白土町の子供の念仏講。

都合で初日は5人(実際は途中で1人が加わる)になった子供たち。

この日は一人が増えて6人。

長男は大学生になったK家は男児が4人いたことからずっと見守り続けてきた。

この年で付き添いは18回(年)目となった。

子供の念仏講は7日から14日までの毎日だけに18年×8日というから総計すれば144日間も見守ってきたことになる。

子供の経験年数よりも大幅に多い両親に感服する。

この年の新仏家は4軒。

庭で太鼓打ちと念仏鉦は休憩後にもう1回する。

お下がりをもらって次へ向かう。

先導の太鼓打ちが打ち終えると念仏鉦打ちはピタリと止まる。

二本のバチで叩くリズムが難しいと音頭取りの子供は言う。

「しんどいんやったら休憩もせず続ける」こともある。

それは太鼓打ちの調子次第であって初日よりも早めに打たれた。

お盆の時期はとても暑い。

昨年は16時に出発したが、暑いからたいへんだと1時間遅く出発された。

新仏参りの時間はその軒数にもよってすべてを終える時間は替る。

その年によって事情がことなるから決まった時間はない。

それを決めるのも子供たちなのだ。

新仏の家でお勤めをするのは休憩を挟んで前後に3回。

前半が2回で後半は1回である。

それが4軒もあれば時間がかかることは予想できる。

昨日の状況を踏まえて打ち方を早めにしたそうだ。

新仏の家では待ち焦がれる家人たち。

お寺を出発したチャチャンコの音が聞こえてきた。

新仏の家の前はフダバの辻。

いやがおうでもその音色が聞こえてくる。

白い吊り燈籠が飾られた南側の縁側の前庭でそれが行われた。

昨日は休憩を挟んで後半の1回をされたが、この日は休むことなく一挙に3回も太鼓と鉦を叩いた。

およそ7、8分、お下がりをもらって次の新仏の家を目指して一目散に駆けだしていった。

(H23. 8. 8 EOS40D撮影)

白土町大人の念仏講

2011年09月05日 06時44分42秒 | 大和郡山市へ
夜8時、子供の念仏講が行われた浄福寺の山門前に集まってきた男性たち。

三つの組からなる念仏講の集団である。

子供の念仏講とは別に組織されている大人の念仏講の人たちだ。

かつては子供の念仏講と同じように7日から14まで毎日行われていたという。

H婦人の話によれば20年ぐらい前までは子供念仏と同じように7日から毎日していたと話すからそれぐらいまで続いていたのであろう。

毎夜するにはたいへんだと7日と中日と13日になった。

その中日がなくなり、いずれ13日も止められた。

一日、一日と削減されて7日だけになったという大人の念仏講は新仏の家(大人の念仏講の講家)に参って鉦を叩く。

お念仏はカセットテープから変換されたCDの音色。

当時、オンドサン(音頭さん)と呼ばれる導師だった長老が生前に残された生声のお念仏。

「なむあみだーぶつ、なむあみだー」の唱名に合わせて鉦を打つ。

チャ、チャ、チャンを繰り返す。

「ガーンニーシクーン」のお念仏の声が聞こえたらチャン、チャンの連打で終える。

それは願似批功徳(がんにしくどく)回向の念仏であろう。

講中のU氏の話によれば鉦を叩くのは「ナムアミダブツー ナンマイダー ナーアームーアッアーミダーブツー ナムアミダーブー」のお念仏に合わせて叩くのだという。

それを繰り返しているだけだから覚えるのは簡単。

子供のときから聞いていたので今でも身体に染みついていると笑顔で話す。

肩から太い紐で通された鉦を掛けた講中。

山門をくぐった寺墓の前で叩かれた。

そのあとは新仏の家に参って鉦を打つ。

念仏の曲名は判らないが「南無阿弥陀仏や」と答えた。

1軒ごとに1曲唱えて小休止。

それからお礼の1曲を唱えて次の家へ行く。

この年の新仏家は2軒だった。

白土町特有の形をみせる吊り燈籠が下げられた南の縁側。



その前庭で念仏を2回された。

お下がりをもらって次の新仏の家に向かう。



チャンガラカンとも呼ばれる大人の念仏講。

一つの組には文政五年十月の墨書が見られる念仏講中の木箱が保管されている。

中には念仏講中の記銘がある枡があったが薄い文字の墨書では年代を特定することができなかった。

文政十年十月吉日とある念仏講中文書には弥陀方観音堂念仏講中は二組とあり、当時は三組だったとされる名が記されている。

また、明治八年八月吉日とある念仏講中文書には念仏講総代と同講中総代の名も見られた。

最後に書かれていたのは弥陀方観音堂念仏講中世話人など講中の名前も同一人物。

それは文政十年の文書を書き記した写しのようだ。

その一部には弥陀方講中に加えて千束里とあるから当時から石川町と混じ合う千束地区も属していたようだ。

講中は新仏参りを済ませるとセセンボと呼ばれている墓地の前で勤めを終えた。

こうして新仏や先祖供養の念仏を終えた講中は一年間、鉦を預かるそれぞれの組家に向かって戻っていった。

鉦は来年になるまでその当番の家で大切に保管される。

なお、三つの組はそれぞれ8軒、10軒などでこの夜に営みをするのは半数の人たち。

毎年を担うわけなく一年おきに交替されている。

(H23. 8. 7 EOS40D撮影)

白土の新仏のタナ

2011年09月04日 07時55分44秒 | 大和郡山市へ
白土町の辻々や墓地などを太鼓と鉦で叩いて厄を祓っているのは子供の念仏講。

同町には大人の念仏講もある。

それぞれの講に属しているお家で亡くなられた新仏の家にも講中が巡って鉦を叩く。

それぞれの家では亡くなられた人を祭る「タナ」が設けられている。

子供の念仏講が訪れたNでは7日の盆入りに祭壇を組まれて故人がかつて参られた朱印帳を飾られた。

「タナ」の上段には「オヤシロ」とも呼ばれる家型の「ヤカタ」内には位牌が納め、白い木で組まれたハシゴが掛けられた。

中段には膳やキュウリやナスビが供えられた。

馬とされる「キュウリは故人が早くきてもらって、牛のナスビはゆっくりと戻ってもらう」のだと当主は話される。

膳は七日盆入りの7日から15日まで毎食の献立が替る。

この夜はコーヤドーフやズイキの煮ものやゴハンが供えられた。

13日には先祖さんにおます。

夕方近くになれば北の田んぼ辻に出向いて線香をくゆらして先祖さんを迎える。

また、縁側に置いたトーシにハスの葉を敷いてそこに13品を並べるそうだ。

それは無縁さんのもので北の縁側に供えるという。

南の縁側に吊り燈籠が下げられていた同家。

上部は平面四角形でその下に四方型と三角型が組み合わされた燈籠である。

木の枠で組み合わされ白地で装飾された吊り燈籠。

下部は長い垂れがあり、そこには切り抜き文様がみられる。



同町特有の吊り燈籠の形は多少の違いが見られるものの、十津川村の大踊りで飾られるキリコトウロウや川上村高原での法悦祭に祭られるキリコドウロウの形に似かよっている。

同町に属する東端にある千束ではそれは飾らないという吊り燈籠。

それを作っているのはかつて白土町に住んでいた「シラツチヤ」。

ザルや瀬戸物を売っている店だが、型が決まっていて白土の住民のためにその吊り燈籠を作っている。

聞くところによれば近辺の旧村では「ここだけだ」と話す当主。

新仏のタナやたいへん珍しい吊り燈籠はお盆を終えた15日には焼却される。

朝に先祖さんが戻っていくので線香をもってコバカへ行った。

昔はそこで焼いたが現在は環境問題の関係で処分されるタナや吊り燈籠。

夫人や残された家人たちは故人を偲んでそれを残しておきたいと語った。

(H23. 8. 7 EOS40D撮影)

白土町子供のチャチャンコ

2011年09月03日 07時52分40秒 | 大和郡山市へ
大和ではお盆の時期に鉦を叩いて町内を巡る念仏講の集団がある。

旧村にはそれぞれの地区であったそうだ。

無形民俗文化財に指定されている安堵町の大寶寺六斎講や奈良市八島の念仏鉦講が知られている。

大和郡山の井戸野町でもかつて存在していた。

それを証明する念仏鉦が残されており県立民俗博物館で「大和郡山の行事と企画展」で平鉦9枚が展示された。

それには寛文十二年(1672)の銘文が刻まれていた。

その展示会では平成22年に調査取材させていただいた隣村の白土町の念仏講も紹介された。

当地の念仏講には大きくわけて7日から14日にかけて毎日地区をかけ巡る子供の念仏講と、今では盆入りの7日の夜だけになったがかつては同じように毎日されていた大人の念仏講がある。

仏教が最初に入った奈良には鎮護国家安寧を祈る仏事の行事がある。

庶民に下りてきたのが念仏信仰で、難しい修行をしなくとも極楽浄土へいくという。

それらは融通念仏や謡う六斎念仏があり、15世紀ころに流行った。

祇園祭りはコンコンチキチ、コンチキチと鉦の縁と胴を打って鳴らし、鉦を楽器として使っている。

六斎念仏の鉦は縁を叩かず、T字型の撞木(しゅもく)で鉦の内面を叩くのが県内の念仏の特徴だ。

さて、子供の念仏講はその叩く鉦の音がそのように聞こえることからチャチャンコとも呼ばれている。

勤めるのは小学生6年生以下の男の子たちで、太鼓打ちが一人、もう一人は太鼓持ちで念仏鉦叩きが5人である。

少子化の波は白土町にも当てはまって、やはり子供は少ない。

校区では新入生徒が一人になったという。

子供が主役の行事を支えていくのはとても難しい時代になったことから講中の親戚筋から助っ人男児をお願いして続けられている。

先導をするのは音頭取りの太鼓打ち。

この音に合わせて鉦を打つ。

最初に右手の一本でドン、ドン、ドドド。

何度も何度も叩く。

それに合わせて鉦を打つ。

次に二本を持ってドコドコドン、ドコドコドンと連打。

それを繰り返す。

二本のバチで叩くリズムが正しくなければ「もういっかいや」と先輩に言われたと思い出話をされる経験者の父親たち。

母親も付き添ってはいくが太鼓や鉦を叩くのは子供たちだけだ。

昨年にオシメもとれた最年少の子供も鉦を叩いている。

始めに浄福寺の門下で行われる。

その次は本堂の前に移る。

経験者の父親が言うには最初にドンチャン、ドンチャン、チャチャチャのリズムで太鼓を叩く。

これを10回ぐらい繰り返す。

すかさず両手にバチを持ってホデホテスッテントン、ホデホテスッテントンと連打する。

叩く音を言葉にするとこういうふうに聞こえるそうだ。

これを3回ほど繰り返す。

そして自転車に跨って地区の中心部にあたる辻に行った。

そこはかつて仲家の玄関先。

西に向かって太鼓と鉦を打つ。



次は北のフダワ(札場が訛った)の辻。

水路の橋の上だ。

東に向けて数回打ち鳴らした。

それから西のセセンボ(祖先墓が訛った)に向かった。

扉を開けて墓入り口で打ち鳴らして、そこから南へ走っていく。

ここも水路の橋の上。

その向こうには墓がある。

旧仲家の墓だという。

最後は再び浄福寺に戻って、出発と同じように門下と本堂前で行われるが念仏講とお寺の関係は特にないという。

先祖供養でもあるようだが、それぞれの辻で打ち鳴らすのは厄払い。

悪霊が地区に入ってこないように鉦を叩いているそうだ。

この年は新仏の家が4軒もあった。

これらの辻の道中でその家の庭で太鼓や鉦を打ち鳴らす。

その軒数にもよるがおよそ1時間半もかかった子供の念仏講。



お念仏は唱えられないが大和ではとても珍しい行事である。

すべてを終えてお菓子を貰った子どもたちは急ぎ足で帰っていった。

H婦人の話によれば子供が少ないからやめる話があがっていたという。

ある年のことだった。

子供が集団風邪にかかった。

それから止めようという話はしなくなったそうだ。

『浄福寺念仏講享保二十一年(1736)二月十五日覚帳』が残されている子供の念仏講。

明治、大正、昭和の時代も連綿と記帳されている重要な証しである。

極めて珍しい子供たちだけで行われる白土町の子供念仏。

少子化の時代になったが、これからもずっと続いてほしいと住民たちは願っている。

(H23. 8. 7 EOS40D撮影)

大塩・夏講のゲー

2011年09月02日 07時32分57秒 | 山添村へ
山添村大塩には八柱神社と観音寺の年中行事がある。

それには含まれない「ゲー」と呼ばれている行事がある。

先月に大般若経転読が営まれた観音寺に集まってきたのは夏講と呼ばれている10軒の人たち。

「ゲー」の営みは「いったい何のことなのか判らない」と話す講中。

同寺の本尊は観音仏。

その傍らに納められているのが弘法大師坐像と掛け図。

この日はその弘法大師に向かってお参りをするので観音仏の扉は閉められた。

夏講はゲー講とも呼ばれている。

元々は8月10日だったが、現在は集まりやすいその日に近い日曜日にされている。

講中が来るまでに回り当番の人はお菓子などをテーブルに並べておく。

そして始まったゲーの営み。

それはキンを叩いて十三仏のお念仏を唱えるのであった。

一人の男性が弘法大師の前に座り「オン アボギヤ ベイロシヤノウ・・」と光明真言を9回唱えられた。

講中の人たちも手を合わせて唱える。



その後は「南無大聖不動明王、釈迦牟尼仏、文殊大菩薩、普賢大菩薩、地蔵大菩薩、弥勒大菩薩、薬師瑠璃光如来、観世音菩薩、勢至大菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚蔵大菩薩、大師遍照金剛、遍照・・・南無阿弥陀仏・・・」と十三仏を2回唱和された。

大塩のゲーはこのように弘法大師坐像に向かって十三仏を唱えられるのだが、講中の話によれば「昔のこと・・・ある家の人曰く、子供がいないから継ぐことがでけん。持っている田で収穫した稲を売って、それで費用を賄ってほしい。そしてお参りをしてほしい」と願われた。

その願いを4軒の家筋に後継を頼まれた。

この日に集まったのはその本家と分家で10軒だった。

何時から始まったのかその年代を示す記録は一切残っていないが、こうしてそれからも続けてきた夏講のゲー。

「ゲー」と呼ぶ行事は都祁上深川(淡交社刊「奈良大和路の年中行事」で紹介した)にもあるが形式はまったく違う。

そこでは7月初めに行われているが、夏至(げし)、半夏生(はんげしょう)とあるように「夏」は「げ」とも読む。

確信はもてないが「ゲー」と呼ぶのは「夏」そのもの営みではないだろうか。

十日盆、或いはひと月遅れの半夏生にあたるのか、判然としないが「ゲー」の事例採録は今後も探っていかねばならない。

(H23. 8. 7 EOS40D撮影)

菅生盆踊りの練習

2011年09月01日 06時43分34秒 | 山添村へ
山添村菅生の盆踊りに出番を待つ踊り子たち。

管生のおかげ踊り保存会の人たちで16人が集まった。

この夜は十二社神社参籠所で踊りの練習をされる。

盆踊りに練習をされるのはいずこもそうなのだろうか。

プロの踊り子ならばそれは当然なのであろうが村の踊り子たちもそうであった。

今夜の会場は公民館ともなっている参籠所だ。

公民館主催の村の納涼盆踊り行事であることから出番や曲の流れはこうしようと相談しながら練習曲を選定された。

始めに踊ったのはカラオケテープが演奏するバックソングで踊る山添音頭、江州音頭、炭坑節、河内音頭だ。

テープ演奏するのは役員たち。

演奏するとはいってもそのテープをセットしてスタートするだけなのだが頭出しが難しくて・・・と笑う。

踊り子たちは演奏曲に合わせて舞い踊る。

「止めてー」と踊り子から一声が。

あまりにも長い曲だった江州音頭。

「年寄りもおるさかいに息がきれてしまうわ。朝まで踊ってなあかんで」と役員たちに返す。

そうこうして1幕の練習を終えて一息つく。

冷たいお茶をいただいて汗もあがる。

山添は盆地部よりも2、3度も低い。

じっとりと汗ばむこともなくひんやりとした風が参籠所を通り抜けていく。

そしてメーンエベントのおかげ踊りや伊勢参りと住吉踊りが踊られた。

今年の11月20日には芸能大会で披露されることもあり熱気が入った練習だ。

この夜は太鼓打ちが参加できなかったが謡い手の囃子に合わせて舞い踊る。

昨年の演目は山添踊りと大和踊りで、伝統的な踊りはおかげ踊りと伊勢参りだった。

今年の踊りはわずかだが昨年よりも増えた。

14日の盆踊りは盛況になることだろう。

さて、おかげ踊りのことだ。

それは伊勢講が代参を終えて戻ってきたときにそれを祝って踊っていた。

「ヤマ」を作って代参を見送った。

戻ってきたときにはもてなして酒を酌み交わす。

仮装の衣装を着てオドリコミをしていた。

「それはすごかった」と話す区長。

4年に一度のことだったが何年も前から伊勢参りのバスツアーになっている。

来年はその年にあたっているが「若い人は何せんなんと言うし、たいへんなことなのでどうなるか現時点では復活の見込みは・・・難しい」という。

伊勢講は7組ある。

それぞれの組がチャーターしたバスに乗り込んで伊勢へ向かい参拝する。

昔は宿で泊ったが今は日帰りツアー。

講の人数が減った組は乗り合わせて出かけていく。

そのうちの1組は毎年の3月と12月に寄り合っているそうだ。謡い手のTさんの話では講ごとに当番の家に集まった。

だんどりをして「ヤマ」を作った。

お参りしてきた伊勢のお札を授かってきた代参を迎えるのは晩やった。

お風呂に浸かってさっぱりしてもらう。

身も心も清めることだそうだ。

その訳は歌に残っている。

代参が向う先はお伊勢さん。

江戸時代には五大遊郭があった古市。

伊勢のおかげ参りを終えて帰路につく前に訪れた色街。

いわゆる「精進落とし」のことで、そこに呼びこむ様子が歌になっている「住吉踊り」は、「吉田通れ(ば)」とも・・・。

江戸時代に流行った風流歌の富士吉田。

色街だった、江戸から数えて34番目の東海道五十三次の吉田宿(よしだじゅく)繁華街。

現在は豊橋となっているが吉田城の城下町として栄えた町だった。

二階から声をかける当時の様相が歌に残されているが伊勢古市ではない。

「吉田なー 通れば 二階イー からアー まねく ア、ヨイソレ しかも 鹿の子のヤンレ振りイー 袖で アーコリャコリヤートコセーノーヨーイヤナ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデモセー」の1番に続いて、
2番 めでためでたは 三つ重さなりて 鶴は ご門で 巣をかける
3番 鶴が ご門で 巣をかけるなら 亀はお庭で 舞いをまう

伊勢代参が江戸まで足を伸ばしたのであろうか・・・それは判らないが、代参の人の目的はここにあったのだ。

翌日は慰労の「アシヤスミ」。

かつては徒歩で行ききしたお伊勢参り。

足を休めて慰労したのであろう酒盛りの宴。

「アーヨイサー お伊勢参りて ヨイヨイ アー飲んだかよ オオお酒を アーヨイセコラ 天のナーア 岩戸のソオレーエ 菊屋酒 ソリャヤートコセイ ヨーイヤナー アレワイセイ ア、コレワイセイ ソリャヨーイトセー」と1番。
2番 伊勢へ七度 熊野へ三度 愛宕さまえは 月参り
3番 お前百まで わしや九十九まで 共に白髪の生えるまで と、「伊勢参り」の歌詞にはその飲みっぷりが表現されている。

(H23. 8. 6 EOS40D撮影)