マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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額田部北町推古神社御幣切り

2011年10月21日 06時43分33秒 | 大和郡山市へ
額田部北町に鎮座する推古神社の一年間の祭礼を行っているのは一番当家から四番までの当家たち。

秋祭りの準備に忙しく動き回る。

昨年の9月から今年の10月までを担っている。

この日は御幣切りと呼ばれる行事ごとで大御幣や小御幣、注連縄、ヤナギの木と根付き稲穂にお神酒入れの竹筒などを作っていく。

御幣に使う太め、細め青竹は節を削り取って奇麗に磨いておく。

節はそのままで良いと神職から言われているが「神さんに供えるものだから昔からそうしている」という。

この日は10月から新当家となる4人のミナライ当家も加わって作業に入る。

作業の場といえば神社の拝殿。

そこには三つの絵馬が飾られている。



一枚は「額田部北方子供連中 明治34年8月15日奉」とあり、もう一枚は「南方子供連中 明治34年10月1日奉」とある。

当時の北町と南町の両方から納められた絵馬は子供が奉ったものであろうか。

このような事例は小林町の杵築神社でも拝見したことがある。

そこでは奉納された氏名に「童首」とあった。

あまり見かけない表記だけにいずれは聞き取りをしなければならない。

それはともかく、祭りの道具作りは神職の教えを請うて作業を進められた。

大きな奉書は黒と白色の二色。

それを互いに重ねて20枚。



それを4組に分けて一気に御幣を切っていく。

きっちりしないと奇麗に揃わないのだと話す。

それを黒地が前になるよう左右10枚ずつ重ねて太い竹に挿し込むのだが、ナタで竹に割れ目をつけるのだが切りこみ過ぎれば割れてしまうし、狭すぎると入りにくくなる。

広げる加減も難しい作業である。

古い竹は割れてしまうので3、4年ものの青竹がほど良いそうだ。

その幣には八合の籾米を括りつける。

お米は晒し袋に入れて奉書で包んでおく。

十字に結んでそれを大御幣に取り付ける。



そして麻の緒も。



それが神さんの遷る依り代のヒモロギであろうと思っていたが後日に行われる「ウツシマワシ」で拝見した限りそれではなかった。

小さな御幣も二本の竹を括りつけてそれに割れ目を入れて五枚重ねの幣を挿す。

これらは春日さん、五社さん、御輿などに祀るもので予備を含めて18本作られた。

一方、付近で採取してきた葉付きのヤナギには小さな竹筒と稲を取り付ける。

三本足に組んだ竹の台に置く。

これらは4組作られる。



翌週に神さんの分霊を遷す「ウツシマワシ」を経て大祭のお渡りに用いられるイナサカキであろう。

本来ならば四番、三番、二番、一番の順で合流していくのだが当家の住まいは離れており行ったり来たりしなければならない。

その非効率なお渡りでは相当な時間を要することになることから一旦は東池の消防団分室辺りに集まる。

この年の順は、始めに神職、神子と呼ばれる巫女さんが三番当家へ出向き、そこから出発する。

集合地の東池には一番当家と二番当家が合流する。

そこから春日神社に向けてお渡りをする。

行列は自治委員長(北、南)、神職、巫女、一番当家家、二番家、三番家の順である。

当家の人たちは大御幣を持つ息子を先頭にシャクを持つ当家、根付きの稲束をヤナギの木に掛けて担ぐ孫男児に親族が続く。

春日神社が鎮座する街道筋で四番当家が合流して五社神社を目指す。

この筋道は旧道の参道にあたる。

五社さんで拝礼した後は戻って春日さんへ参拝。

そして推古神社へと向かうのである。

そうしたことも確認をされ当家たちは着つけの仕方を学んだ。

(H23. 9.23 EOS40D撮影)

小田中町彼岸講の夜

2011年10月20日 06時37分47秒 | 楽しみにしておこうっと
彼岸の中日の前夜に彼岸講を営むと聞いていた小田中町観音堂。

お堂の前の石仏にはお供えがしてあった。

そこにはローソクを灯していた。

着いたときには既に営みが始まっていた。

扉が少し開かれて、そこから聞こえるお念仏。

導師が前に座って周りを囲む婦人たちの姿が僅かに見える。

そのお念仏は「なんまいだー」を繰り返していた。

耳を澄ませばジャラジャラと音が聞こえる。

百万遍数珠繰りであろう。

春の彼岸にもされていると聞いていたので半年後に改めてお伺いしたいものだ。

(H23. 9.22 EOS40D撮影)

八条町堂山子守神社むかしよみや

2011年10月19日 06時42分39秒 | 大和郡山市へ
「むかしよみや」の祭礼名に惹きつけられて訪問したのが大和郡山市八条町堂山に鎮座する子守神社。

神宮寺と思われる華厳寺がある。

そこでは檀家総代らが集まって彼岸講法要を営んでいる。

それはともかく子守神社はその名のごとく、子供ができるよう願ったり、授かった子供がすくすくと育つよう子供を守ってくれる神さんだといい、この夜はそうした子供たちがお参りに来る日なのである。

神事が始まるころには村の人たちが寄進された御供で棚がいっぱいになった。

風呂敷に包んで大事そうに抱えた御供を供えていく。

特に決まりはないがほとんどの人が持ち込むお米は二升も。

収穫したレンコンやお酒もある。

本殿前に設えた提灯に灯りが点けられた。

お願いをされていた巫女さんが到着した。

そうして始まった「むかしよみや」の神事。祓えの儀、献饌、祝詞奏上などを経て本殿前に立った二人の巫女さん。



右手に鈴を左手に剣を持ってシャンシャンと振って舞う。

「このやおとめはー・・・かみのみまえにたつやはな・・・」と詞を唱えて神さんを呼び出す。

そして二本の剣を両手で持ち手前で互いに十字交差させながら舞って穢れを祓う。

まことに厳粛な巫女神楽の舞である。

村の安全を祈願しているようで、その作法を見守る宮三役も神妙な顔で見入っている。

そうして神事を終えたら拝殿で参拝者を待つ。

しばらくすると小さな子供をバギーに乗せた家族連れがやってきた。

巫女は鈴を持って神事と同じようにシャンシャンと振る。



そして剣に持ちかえて舞う。

穢れを祓う舞である。

舞は鈴と剣を持って左右にくるりと。

そうして頭を下げた参拝者に「祓えたまえ 家内安全 水難盗難 身体健勝 祓えたまえ清めたまえ」と鈴で祓って清めてもらった。

そうこうしているうちに次々とやってくる健やかに育った参拝者たち。

噂を聞きつけた隣町の長安寺町からもやってきた。

もう子供とはいえないような年代の高校生までも。

この夜の参拝者は7組もあった。



ありがたいことだと三役や宮司は話す。

それにしても「むかしよみや」とう名の祭りとはいったい何だろうか。

どのような漢字を充てるのか、長老たちも判らず仕舞いの「むかしよみや」と呼ばれる祭りは近隣の伊豆七条町や椎木町でもあると聞く。

(H23. 9.22 EOS40D撮影)

たこ焼き和尚

2011年10月18日 06時38分58秒 | あれこれテイクアウト
一度食べたら忘れられなくなる「たこ焼き和尚」のたこ焼き。

それは大和郡山市の山田町にある。

松尾寺口のバス停付近だ。

10個入りのソース味たこ焼きは450円。

出来立てならもっと美味いが「固くなっているからと売れ残った(失礼)たこ焼きもサービスします」と店主は容器に何個かプラスされた。

ホクホクでトロトロのたこ焼き。

かーさん曰く出汁が利いていてこれでも十分に美味しいとパクつく。



あっと言う間に胃袋に入ってしまった。

今度買うときは醤油味も確かめてみたいという。

スタンプカードもあげましょうといただいたカードは450円以上買えば1回押してくれる。

それが10回溜まれば300円の6個入りがサービスされる。

「焼きそばも美味しいよ」といってくれた店の人の優しい顔。

たこ焼き和尚のお勧めは「ねぎぽんず一味唐辛子かけ」や「チーズたこやき」も作っている。

いずれも10個で500円。

「美味しいよ」と言われた焼きそばは400円。

スタンプカードを押してもらいたくてこれからも度々買いにいくことであろう。

(H23. 9.20 SB932SH撮影)

大人念仏講の調査1、2

2011年10月17日 06時43分55秒 | 大和郡山市へ
昨年来から白土町の大人念仏講の所有物を調査している。

念仏講は三つの組で構成されており、それぞれが年当番を設けて念仏鉦などを保管している。

それぞれの組には名称がない。

しかもお互いがどの組に所属しているか交流がないことから他の組のことは存知されていない。

それゆえ、一軒、一軒を訪ねていかねばならない。

昨年はK氏が管理されている鉦と古文書を拝見させていただいた。

今年も使われた4枚の鉦には「白土村念佛講中」の刻印があった。

これらは隣家のK家の先人が寄進したと伝わっている。

3枚の鉦の中央には墨書が認められたが文字は判読できない。

もうひとつ重要な書類が残されていた。

念仏講の箱の中にはそれらが入っていることが知っておられたが未だかって見たこともなかったと話していた。

それは念佛講中の記帳で、年号が判別したのは新しいものから明治28年、天明、寛政年だった。

覚え書きと想定される帳には文政10年(1827年)が記されていた。

三冊の記帳のすべてを拝見していなかったので、念仏鉦を叩かれた翌日の8日に管理されていた年当番のY家を訪れた。

念佛講箱には三冊の文書があった。

一つは「文政十年十月吉日 念佛講中」で、もう一つは「明治二十八年八月吉祥 念佛講中」とある。

そこには弥陀方観音堂念仏講中世話人の名があるがほとんどが明治二十八年から平成十年までの宿営みの件を記載していた。

それには当時三組があると記されている。

先の文書には江戸期から明治二十五年などが見られることからその前のものだろう。

もう一冊には表紙がなく明らかに先の2冊と記載様式が異なる。

それにあった年号が天明七年(1787年)二月や八年、寛政十年(1789年)二月や文政二年(1819年)二月だった。

ということはその冊は先の2冊よりも以前の営み帳だと考えられる。

三つの組に名称がないことから仮にこの組をA組としておこう。

そうして残る2組の存在を確認いたしたく訪れた当番家のN家。

8月7日に念仏鉦を叩かれたあとのことだった。

同組のM氏は民俗博物館で展示したらどうかと4枚の鉦の展示協力をされたのだ。

それには「白土村念佛講中」の刻印があった。

ところが文書はN家が管理している。

そのようなことで訪問に至ったのだ。

預かりの念佛講帳箱を拝見すれば文書、念佛講中の墨書がある三合三合と思われる枡、銅製の湯とうなどが出てきた。



中には鉦が一枚残されていた。

それは足が三本ある鉦だ。

床に置いて叩いていたのであろう。

それには「宝永三年(1706年)十月十五日念仏講中 六条住播磨大掾(じょう)貞的作」と判読したのだがどうだろう。

文書は「明治三年十月十四日 永代念佛講中」だった。



当番家に聞いても文書はそれだけだという。

江戸期の文書は見つからなかったが仮にB組としておく。

残すはC組であるが、秋の彼岸の寄り合いがあると聞きその場で確認を得たいと思う。

(H23. 8. 8 EOS40D撮影)
(H23. 9.19 EOS40D撮影)

腰越観音堂の観音講

2011年10月16日 08時28分55秒 | 山添村へ
山添村の文化財として指定されている木造不空羂索観音立像。

かつては岩屋枡形の山に祀られていた。

「そこにはお堂があって傷んでいた。布目ダムができた後、腰越の会所ができたのでここに遷した。」という。

平成2年のことだそうだ。

仏像は牛ケ峯と腰越、津越で管理していたが、牛ケ峯はダム湖ができて村から全戸が奈良市内に移住された。

当時の牛ケ峯、腰越、津越はそれぞれ7戸、13戸、11戸だった。

その後は腰越、津越で祀って観音堂を建てた。

この日はその観音さんを拝礼する観音講の日。

腰越、津越の村人がやってくる。

お堂の扉を開けてお供えをする。

お参りをする日は18日であったが、できるだけお参りをし易い日曜日になった。

線香やローソクを灯して参拝者一同が手を合わせる。



長老の導師がおられたころは観音経の念仏を唱えていたそうだが、それをすることもなく参拝を終えた人たちは会所にあがった。

お下がりのお酒でいただくパック詰め料理。

それは大橋の商店に注文したお弁当はまるで手作りのようである。

集まる人数は来てみないと判らないから多めに頼んでいると話す年預(ねんにょ)さん。

お酒を注ぐのに忙しく振舞われる。

「昔はカマボコで飲んでいた」と話すAさん。

その会所には氏神さんを祀っている春日若宮神社だ。

大正二年に杉原、津越、腰越、牛ケ峰の氏神さんを北野の美統(みすまる)神社に合祀された一つであるが村人は今でもここで祀っている。

12月には春日大社のおん祭と同じ日に「おんまつり」をしているという。

(H23. 9.18 EOS40D撮影)

遅瀬中南寺九月観音講

2011年10月15日 08時24分37秒 | 山添村へ
観音講と言えばご婦人たちが集まって本尊に向かいお念仏を唱える。

見聞きしたその多くは年寄りで少人数だった。

しかし、山添村の遅瀬ではそれがあてはまらない。

20数名も集まってきたのだ。

お堂と言えば集会所になった中南寺(なかなんじ)。

かつては村の上の方にあったそうだ。

本尊の十一面観音立像にキュウリやオセンマイを供えて始まった観音講。

婦人たちは横一列に並んで導師が前に座る。

最初に懺悔文のお念仏が唱えられた。

次に西国三十三番のご詠歌を唱える。

右手に撞木(しゅもく)、左手はリンを持ちかえながらカセットテープが歌う音頭に合わせて打ち鳴らす。

カッ、カッ、カーン。

チリン、チリンの音色がお堂に広がる。

テープが反転する間は無音。

それにも合わせて手が止まる。

テープといえども導師の音頭は忠実に合わせている。

一般的には二十三番あたりでひと休憩をするのだが遅瀬ではそれもせずに一気に全曲を終えた。

観音講は毎月17日のお勤め。

以前は36人もの講中だったが現在は26人。

村の婦人たちで埋まったお堂である。

引き続いて南無大師、五番大師のご詠歌。

そもそもの般若心経や相互供養までも。

1時間を越えたお勤めはこうして終えた。

5、6年ほど前まではセキハンを作ってお堂でよばれていたが今はパック詰めの料理。

月に一度の集まりに会話が弾む。

講中は4月と9月の大師講にも同じようにお勤めをされているそうだ。

そのときには寄せられた弘法大師さんの石仏の前になる。



婦人たちの話によればお盆のときにはトビウオを食べていたそうだ。

ドロイモの葉に乗せたトビウオ。

それは開きの干物で2尾を重ねていた。

下は生の干物で上に焼いたトビウオを乗せたそうだ。

両親が揃っている家では14日の夜にムシロを庭に敷いてそこで食べた。

食べるのは子供であったが塩辛いことを覚えているという。

親がいない家では13日だった。

居る家では14日に散髪をしてくれたという。

それはともかく食べる前には「いただけよー」と言われて頭の上にあげた。

その様相は正月にも同じ作法で当主がされる。

「ちょうじゃどん」という作法で正月の膳を頭の上にあげる

そのようなお話をしてくださったUさんは県立民俗博物館を度々訪れるそうだ。

それもそのはず、開館する前に撮ってもらった茶摘みをする絣の着物姿が展示されているからだと話される。

その笑顔はうん十年前と少しも変わらない。

(H23. 9.17 EOS40D撮影)

別所町極楽寺の行事

2011年10月14日 07時53分10秒 | 奈良市(東部)へ
10月10日はコンピラサンの祭りで、翌日の11日は六社権現の祭りがある。

コモリをされたトーヤは祭りの前日までにモチを搗く。

数多くのモチで、コンピラサンは重ねモチ。

六社権現では4段重ねのコモチとなる。

参拝する各社やカイトノモリ(鎮座地は杣ノ川町で社は別所町)に奉るゴヘイも作ってモチを供えるそうだ。



その六社権現を祀る金刀比羅神社には極楽寺の名がある神宮寺がある。

本尊の木造阿弥陀如来坐像に地蔵菩薩立像と不動明王立像が安置されている。

昭和52年に県文化財に指定された仏像は大切にしなければとセキュリティで守られた蔵に納められている。

その仏像はたびたび開帳される。

月の数参りをされた日を含め、3月のお釈迦さん、4月のお大師さん、8月の二日酒、11月の十夜(堂年如の交替)となる。

かつては3月と11月は子供涅槃があった。

少子化に伴い子供が村からいなくなった。

が、お釈迦さんの掛け図は吊り下げられるとい、米の粉を挽いたものをイ(亥であろうか)の神さんに供えたそうだ。

気にかかるのは8月の二日酒(ふつかざけ)。

永禄年間に辰市の役で活躍した山田道安の弟の別所宗治の供養だそうで「殿さん供養」とも呼んでいる行事は太鼓と鉦を叩いてナンマイダを3回唱える。

「ナムアミダ」とドンドン、カンカンの連唱だそうだ。

墓地に向かってお念仏をするのだという二日酒。

昔はどっぷりと酒を飲んでいたことから「ケンカザケ」とも呼ばれていたそうだ。

「奉遷宮六社権現国家安全五穀成就村中祝 (右)弁財天女宮 大阿闍梨憲達 (左)金剛童子宮 神主儀右衛門 善右衛門」とある板書が立てられていた。

もう一枚には「奉修造宮六社権現宮国家安全五穀成就村中祝 (右)神野寺何某 (左)金剛童子宮 神主庄左衛門 長善右衛門」とある。

それには元治二年(1865年)四月六日と記されている。

かつては真言宗豊山派だった極楽寺。

僧侶名と神主名が連名で記されていることからその時代には神仏混合で造宮行事がされていたと思われる。

(H23. 9.16 EOS40D撮影)

別所町金刀比羅神社月の数参り

2011年10月13日 06時42分12秒 | 奈良市(東部)へ
平成21年4月26日に造宮された奈良市別所町の金刀比羅(ことひら)神社。

真新しい朱塗りの本殿が美しい。

六社権現を祀る神社であったが、明治以降はコンピラさんを祀ることになったそうだ。

神社行事を司っているのは一老から四老。

五老や六老も居るらしいが神主成を勤めるのは一老。

毎月の朔参りには境内に祀っている三輪大明神さんの棚にお供えをしてお参りをしている。

この日は朝早くから同町と杣ノ川町との境界にあるカイトノモリで参拝をしていた。

そして再び金刀比羅神社に集まった氏子総代の長老たち。

本殿に向かって拝礼を済ませた一同は砂利を敷いた境内中央で○型の円を描きだした。

そこには直線の筋も書く。

そうして円を中心にぐるぐると右回り。

一周する度に一枚のサカキの葉を落としていく。

どうやら数を数えているようだ。



その行為は12周も回って終えた。

無言で回る回数は月の数だという。

閏年はそれが13周になるそうだ。

かつては境内に生えていた木の周りを回っていた。

それは台風で倒れてしまった。

本殿や舞殿には倒れずに境内側だったそうだ。

倒れたご神木は高値で売られて神社の社務所になった。

ありがたい大杉だったという。

その名残の跡をぐるぐる回る作法には名が付いていない。

元にあった大杉を示すのに○型の円を描いたということだった。

直線と言えば、それはスタートライン。

こうしておかないと回った回数がわかなくなるのでそうしているそうだ。

一年の月数を回り地区の安全を祈願しているのだろうか。

お百度参りでもなく、風祈祷のような垢離取りでもなく、ただひたすら無言でぐるぐる回る不思議な作法はカイトノモリの参拝でもそれをされた。

「月の数だけ回るんじゃ」というだけに「月の数参り」と呼びたい。

前夜は布団持ち込んでミヤゴモリをしていた。

マツリの人(4人のトーヤ)だけが泊るという。

その翌朝が「月の数参り」。

当日の昼は再び社務所に集まる。

気のあったものだけが会食する日送りだという。

もしかとすれば月の数参りは日送りの作法であったのだろうか。

(H23. 9.16 EOS40D撮影)

どこかで見たような映像

2011年10月12日 06時45分59秒 | メモしとこっ!
大阪毎日放送で毎日放送されている「ちちんぷいぷい」。

西さんとくっすんくこと河田アナウンサーが巡礼の旅をしている、あれです。

毎日それを見続けているかーさんが言った。

行ったことのある御杖村の四社神社が出ているでー、と。

紹介していたのは同神社のシシ祭りのことでだ。

それは月9日に行われる行事のこと。

顔馴染みの宮司さんも出演していた。

菅野八カ郷から総代や当屋衆らが同神社の社務所で寄り集まっていた光景。

懐かしい姿は今でも変わらない。

当屋が扮する鼻長の面を被った者がササラ竹を手にもって、地区八カ郷全域を一戸、一戸訪問して巡るわけだが、社務所で両人が叩かれてイタイ、イタイを発しているテレビ映像だった。

シシマツリの主役は長い鼻の面をつけた「ハナ」。

手に持つササラで肩や腰の患部を叩くと治るといわれている。

叩いた患部が治り健康になるといわれており村人たちは喜んで叩かれにくるのだ。

祭りには時間帯が合わなくてその様相が2枚の映像で映された。

そのうちの1枚。

どこかで見たような映像だ。

あっ、これは。年老いた男性がハナに肩を叩かれにいっている一コマに目がいった。

黒塗りの単車が右側にある。



(H18. 9. 9 Kiss Digtal N撮影)

それはまぎれもなく私が平成18年に撮った映像だ。

それは「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」で紹介していたものだ。

http://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/ee2d6c1df7c7c3b959b82fc53c80c31f

一瞬だったので身誤った可能性もあるかも知れない。

だが、私が撮ったものは記憶にある。

この写真は撮らせてもらった男性に差し上げた。

それが使われたのだろうか。

気にかかる・・・。

(H23. 9.15 記)