マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

的野八幡神社コモリ

2011年10月11日 06時40分39秒 | 山添村へ
山添村的野に鎮座する八幡神社。

併社に天満神社がある。

それは北方の山の上にあったそうで境内社とされている。

その社にある多目的集会所にやってきた村人たち。

数人は布団を担いできた。

この夜はここで泊りをするコモリの布団である。



コモリは宮籠りと呼ばれる行事で氏子総代の三人はドウゲ(堂下)と呼ばれる下働きの二人とともに寝泊りをする。

「コモリは氏神さんの祭りを迎えるにあたり予め身を清めておくのだ」と話す長老たち。

昨年までは翌日も泊っていたが簡略化されてこの夜だけになった。

当時の泊りは翌朝にアズキ粥を食べて仕事に出かけ、再び籠っていたという。

その食事はドウゲが作っていたそうだ。

お宮さんの細かい使いをする役目。

親が亡くなったあくる年にその役目にあたるドウゲ。

かつては正月二日に布目川で身体を清めていたそうだ。

いつしか川は汚れてしまって止めた。

正月明けだけに川の水はとても冷たい。

止めた理由はそこにもある。

川から上がったら身体はカッカしてほてったと話す長老。

寒いだけでなく「子供が見にくるからしやせんわ」とも・・・。

お宮さんにお神酒、塩、米を供えてお参りをされた村人たちは集会所に集まった。



そこでは用意されたパック詰め料理をいただく。

下げたお神酒も飲んでコモリの夜会食。

以前は各家の料理だった。

重箱に入れて食べていた。

「お酒を飲んでたら家にいねん(帰れん)からコモリで泊るんや」と話す。

的野辺りは真っ暗闇。所々に灯りが見える。

それはタイマツの火だった。

イノシシが田んぼを荒らすから地区の周りに火を点けて脅しているのだという。

(H23. 9.14 EOS40D撮影)

来迎寺イシキの御膳作り

2011年10月10日 08時29分39秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
9月14日に本尊の善導大師の会式が営まれる都祁来迎寺町来迎寺。

会式に供えられる御膳を当番の人と檀家総代たちが前日に作られる。

棚に並べられた御膳の数はおよそ180個。

壮観な様子だが、棚板が浮いているので名札を付ける度にぐらぐら揺れて落ちそうになる。

御膳の野菜はカボチャとズイキ。それにジャガイモもある。

そのままでは立てられないのでカボチャもジャガイモも半切り。

イモには麩を串に挿している。

これらを膳に載せてコメサンを置く。

正方形の平たい板盆は枡ともいう。

それは一度に40枚、50枚とか様々な年代に寄進されたもので、裏面に寄進された人の名が墨書されていた。

一枚は文化十年(1813年)の七月の年代が見られる。

およそ200年前のことだから伝統行事であることには間違いない。

明日のためにライトを取り付け、御膳を並べていく。



一枚、一枚、「先祖代々惣法界菩提」のお札(名札)が張り出される。

統括総代の大字友田、南之庄に来迎寺の地区。

ソト(外)大字の小山戸、多田、白石、甲岡、吐山、相河、針からのお布施(御供)の印だ。

整然と並べられた御膳は明日の善導大師の会式を待つ。

会式は訛ってイシキと呼ばれている。

御膳は本尊と阿弥陀仏に供えられる。

庫裏の仏壇もだ。

幟を立てて幕を張られた。

(H23. 9.13 EOS40D撮影)

高山の月見どろぼう

2011年10月09日 06時06分41秒 | 生駒市へ
「お月さんが出ている間に、こっそりだまって供えものをいただくんや」という風習がある生駒市高山町。

秋の七草の一つであるオミナエシが咲く里山である。

仲秋の名月にあたる十五夜。

この日は家ごとにススキやハギなどの花を添えて月見だんごを供える。

十五夜は芋名月とも呼ばれているサトイモの収穫日。

栽培が簡単で保存がきく。それをお月さまに供えて収穫に感謝する。

イモを包丁で皮を剥けば白い肌をだす。

月に見立てて丸いイモを供える。

月見だんごの原形はここにある。

秋の恵みを縁側に供えて、月の神さんが舞い降りるように目印のススキを立てる。

真っ暗な夜。こそこそとやってくる子供たち。

長い竹などでだんごを挿して盗っていく。

大人たちは懐かしいと口々にいう北田の人たち。



村公認の月見どろぼうであるが、昨今はだんごに変わってお菓子やジュースになっている。

各戸まちまちだが、お月見のお供えはほどんどの家が縁側や玄関口などに供えている。

いずれの場所であっても月の神さんを見上げる位置にある。

子供は男の子、女の子だが小学生までと決まっている月見どろぼう。



中学生になれば、お菓子は一人一つずつだという自然発生的なルールを指導する立場になるそうだ。

昔は黙って盗るのが当然であったが現在では日暮れ前。

里山に薄れゆく空の青さが残る時間帯に開始されるだけに「こんばんは」と声をかけるようになった。

小さな子供は親も付き添いでついて回る。

御供はなにもお菓子だけとは限らない。

その家の夕食にだされるものもある。

ドロイモを煮たものやおでんも出したそうだ。

「タマゴを串に挿して盗っていった子もいたなー」と回顧される婦人もいる。

御供は足らんようになれば家人がそれを補う。

「出てきたらあかんでー、どろぼうやから」と口走って走り去っていく子供たち。



数時間をかけて大北地区を駆け巡る。

その戸数はおよそ200軒だそうだ。

西の地区から富雄川向こうの東へ行くころには真っ暗だ。

このような月見どろぼうは同地区だけでなく庄田(しょうだ)や久保でもあるらしい。



ところで、大和郡山市丹後庄町に住むMさんの家では、その夜はお月さんが見えるように家中の「カド」にススキにハギなどのお花を添えて、お神酒、おせんまい(米)、塩を供えている。

「カド」とは家中にある庭先のことだといい、稲藁などを干した場所であることからこれを「カドボシ」と呼んでいた。

また、額田部に住むYさんの話によれば名月の夜は猿沢池に行って足を浸けたそうだ。

シモヤケにならないというまじないらしい。

お月見は15個ほどの白玉ダンゴを供える。

家の観音さんにも供える。

それは今でも変わらない家の風習だそうだ。

後日に後述するオカリヤも「カド」に祭っていた。

このように大和郡山市旧村では「カド」が祭りの場となることを付け加えておこう。

(H23. 9.12 EOS40D撮影)

北野津越八幡さんの京の飯

2011年10月08日 06時54分51秒 | 山添村へ
大正二年までは京都石清水八幡宮から分霊を賜った八幡神社があった山添村北野の津越。

八幡宮の提灯をぶら下げた薬師堂に集まってきた。

ここは元のお社を祀っているお堂だ。

昼過ぎまでかかって年預が作った八幡祭の京の飯。

11軒の人たちがいただく膳を席に並べた。

「キョウのメシ」と呼ばれている丸と四角の二段のメシ盛り。

1軒につき十合と決まっていたがそれは昔のこと。

たらふく食べることに意味があったそうだ。

大メシ喰いは大正時代から昭和、平成へと移り変わり、いまや飽食の時代。

八幡さんの祭りやさかいといって数字は八合になったが、とてもじゃないが食べきれないとなって最近は五合になっていた。

それでも多いからもっと少なくするか、神さんだけの御供にするかと意見もでる。

キョウのメシの膳には大豆を挽いたクルミ(ビ)とヒジキのアラメを和えもの。

醤油、砂糖、味醂で味付けしたヒジキと豆とコンニャクの和えものの三品が膳に添えられる。

本来はメシにきな粉を塗されるのだが、味を好まない人が増えたことから袋入りになった。

岩清水八幡から授かった神符を添えて支度が調えば祓えの詞を述べて一同が拝礼する。

適度な時間が過ぎて宴もたけなわ。



長老が汁を出せと言われてからナスのすまし汁が運ばれる。

席に供えられたキョウのメシは御供(ごく)さんだと呼ばれ、箸をつけることもなく岩清水八幡から授かった神符を添えて風呂敷に包み持ち帰る。



焼き飯やお粥さんなどにして食卓を飾るという。

Fさんはメシを使ってグラタンにしたそうだ。

「エビなどの海鮮を入れるので高こうついたわ」と笑って話す。

大盛りのメシを食べるにはそれなり工夫がいるらしい。

(H23. 9.11 EOS40D撮影)

大塩観音寺観音講

2011年10月07日 07時36分32秒 | 山添村へ
寺総代が前日に作ったヨモギモチは大重(おおじゅう)箱に入れて祭壇に供える。

マメの煮もの、キョウリやコウコの香物、コーヤドーフ、シメジの吸い物にご飯を揃えた御膳も供える。

本来は17日であったが参拝しやすい日曜日に行われている山添村大塩の観音寺の観音講。

総代とドウゲ(胴下)の役員たちは参拝者を待つ。

稲刈りが始まった大塩。

忙しい時期だけに来る人は少ないという。

ローソクと線香は絶やさず夕方までこうして勤めているという。



この日の観音講には涅槃の掛け図が掲げられる。

時代は不明だが表装は奇麗に張り替えられている。

それを納めた木箱には墨書があった。「奉喜進涅槃像大和国山邊郡大塩村観音院常住為妙覚菩提成 貞享卯丁 願主 二月十五日」と。

貞享四年といえば西暦で1687年にあたる。

320年以上の前の涅槃図であるが、3月の釈迦念佛講でも掲げられる。

この日の観音講にも掲げられるのは「何故なのか、判らない」と総代は話す。

(H23. 9.11 EOS40D撮影)

無山牟山寺会式

2011年10月06日 06時37分54秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
稲刈りが始まっている室生。

台風12号の影響で稲が倒れていることから拍車がかかっているから行事どころではないのだが、と話す村人たち。

コンバインを荷台に乗せて稲田に向かう。

それは風の影響だけでなく雨がよく降ったので重みで倒れているのだという。

倒れた稲は手刈りをしなければならない。

ハサギに掛けて稲を干す。

枯れた藁は高く売れる。

畳のウラ地にするのだそうだ。

身体の湿気を吸い取ってくれる畳。

軽い流行りの畳ではこうはいかんと話す。

ムシロやコモにもあったが昨今は見なくなったのは機械で刈っているからだという。



その頃、太鼓が叩かれて村中にその音が聞こえるようにする。

一人、二人と自家の畑で栽培した野菜を袋に詰め込んで牟山寺にやってくる。



春先は天候不順だった。

今年のデキはあまり良くないと話す。

持ち寄った野菜は種類ごとに纏められてナスビとインゲンマメ、ヤツデの葉だけが取り上げられた。

ナスビは二つ切りにして左右の角に小さな穴を開ける。

そこに半切りしたインゲンマメを挿す。

まるで耳のように見える。

「ウサギの耳のようだと昨年は言ってたが、どうもシカのツノにも見えるなあ」と今年の役員たちが口々にいう。



一方では穴の空いた竹筒にごはんを詰めていく。

そこへ木の棒を突っ込んでメシを押し出す。

それはお皿に見立てたヤツデの葉に立てる。

これをメシツキと呼んでいる。



ナスビもメシも20個ずつ作られる。

村の戸数であってそれは本堂に供えられる。

御供はもう一種類ある。

本来なら葉付きダイコンを使うのだが、今年は間に合わず代用のシシトウで恰好をつけられた。

すべてが出来上がるとコジュウタに入れて本堂に運ばれて長い机に並べられた。

ずらりと揃った御供は豊作の証し。

オコナイと呼ばれる正月の初祈祷でたばったヤナギの木や矢は田んぼに挿す。



豊作を祈願したものだ。

その残りが寺縁側に見られた。

6月には祈祷されたお札を虫送りの際に村内の数か所へ挿しておいた。



それらは豊作を祈願したものである。

そのおかげか稲は金色に染まって収穫の日を迎えた。

野菜もそうである。

それらの恵みをこの日の会式に供える。

本尊の正面にはツキメシや野菜、果物などを載せた椀が四つ。

その高膳を供えられローソクに火が灯された。

こうした世話をするのは自治会役員と寺世話(てらぜわ)の人たち。

その音が村に聞こえた数時間後のことだ。

御供が供えられた本堂には婦人たちは上がっていった。

「いつもならもうちょっと多いのですが・・・」と申しわけなさそうに般若心経を3巻唱えられた。



かつて会式は3日あった。

五日、十日、十五日だったそうだ。

その三日目の十五日はここでコモリをしていた。

「女のコモリ」だといって、めんめんが家で作ったごちそうを持ち寄って団らんしていたそうだ。

ズイキとドロイモが入ったご飯は塩味だった。

当時は導師がおられて木魚を叩いてお念仏を唱えたという。

子供も一緒になって会食をしていた。

境内ではしゃぎまわっていたし盆踊りもあった。

9月にはイモ名月やマメ名月(旧暦9月13日の十三夜)もしていた。

あっちこっちの家へ行って「だあーっと盗っていきよった」と婦人たちが話す食べ物はダンゴだったそうだ。



無山では盆のときにトビウオを食べる習慣はなかったが、婚姻した年の夏にはトビウオをソーメンを嫁の実家に送っていた。

お中元の際に贈った習わしは「昔のことや」と話す。

年末にもあったようだからそれは歳暮であろう。

そのお盆の13日には竹棒に挿したワラを燃やして先祖さんを迎える。

そのワラ火は送りの15日にもされる。

供えた薄い経木。

戒名が書かれた木だ。

それらも含めて供えたものは笠間川へ持って行く。

前の川だからマエノカワと呼んでいる橋の袂だそうだ。

そこで燃やして先祖さんは天に帰ってもらうらしい。

(H23. 9.11 EOS40D撮影)

タコヤキ会席

2011年10月05日 06時38分44秒 | 食事が主な周辺をお散歩
「連れてって、連れてって、大阪出るとき連れてって」のコマーシャルソングが耳に焼きつくたこ昌の唄。

大阪のたこ焼きを会席料理に創作された。

たこ焼き割烹料理店の「竹粋亭」は堺の石津川。

旧の国道26号線沿いにある。

多くは食べられないから一品料理を頼んだ。



たこ焼きといえばやはり明石焼き850円。

そう出汁に浸けて食べるアレだ。

ここへ来たのはおふくろの人声だった。

この日は地デジテレビの再設定をしていた。

一枚のハガキが我が家に届いた。

6月末におふくろの家に設置したアメリカ製のDYNEX26V型に障害が発生したという通知だ。

それによれば8月28日から毎時間ごとに画面が数十秒停止して、その後に再起動されるとある。

障害を解除するには工場出荷状態に戻さなくてはならない。

症状はどうかといえばやはり発生したのである。

再設定の方法を電話でするもらちあかん。

リモコンの設定ボタンが判るはずもないおふくろだけに急いで大阪に飛んでいったのである。

その作業を終えた時間は夜だった。

久しぶりだということで、たこ焼き店行きとなったわけだ。

次男家族も甥っ子も度々ここへ来ているらしい。

会席は最低でも3500円もする。

それほどたくさんは食べられないから一品料理を注文した。



造り盛り合わせ、秘伝しょうゆ味のたこ焼き750円、タコの天ぷら730円、唐揚げのたこ焼き650円などだ。



小腹にも入れたいとタコ飯280円も頼んだ。



最後はわらび餅もいただいた。



どれもこれも美味しいと話すおふくろとかーさん。

大和郡山市山田町の松尾寺口にあるたこ焼きの「たこ焼き和尚」のほうが・・・と思ったのは私だけ。

(H23. 9. 9 SB932SH撮影)

若き刀匠

2011年10月04日 07時51分37秒 | 民俗あれこれ(職人編)
この日は奈良県内各地で八朔の祭りが行われている。

台風の影響であろうか、一日中雨が降る日だった。

天理市小田中町に鎮座する菅原神社ではその日を八朔の籠りと呼んでいる。

陽が落ちるころにめいめいが家で作ったごちそうを持ち寄って神社に集まってくる。

本殿と拝殿の間にシートを広げて家ごとの会食がされるのであったが生憎の雨の夜。

やむなく公民館が会場となった。

そのような夜となったが住民のO婦人が語った台風の習わしに興味をもった。

台風がまともに来たら家が壊れるといって庭に長い竹を立てた。

その先にはナタを括りつけてぶら下げる。

そこに台風の眼が当たったら大風がちらばるというまじないをしていた。

その光景はおよそ50年前のことで実家になる天理市の上山田。

今でもそれをしているかどうか判らないと話す。

語ってくれたO家の息子さんは数少ない奈良県の刀匠の一人である。

身ごもった奥さんとともに作業場を拝見させていただいた。

若い時に一念発起されて刀匠の道に入られた。

室生に住む師匠に弟子入りを志願されて身につけた刀鍛冶。

一人立ちされて何年も経つが。

刀鍛冶の奥は深く、一生かかるであろうと話す。

インゴットのように見えた原材料は砂鉄から造られたタマハガネ(玉鋼)。

鉄の塊だ。

それが刀になる工程は数十日もかかる作業だ。

フイゴがあるホド(火床)。

高熱で鉄を焼く。

そのフイゴは染田の野鍛冶師にいただいたもの。

手探りで修理をして使えるようにしたという。

師の作業を拝見したことを思い出す。

その様子は「火おとし 感謝の1日」のサブタイトルで産経新聞奈良版に掲載させていただいたフイゴ祭り。

平成22年11月17日号であった。

師は大切にこの記事を残しておられる。

それはともかく鍛錬の火が飛び散る。

タン、タン・・・言葉では表せないリズムで鍛える鉄。

さまざまな工程を経て美しい形になった刀。

当然ながら登録された刀である。

それを拝見させていただいた。

光り輝く刀は仕事の証し。

「波紋が見えるでしょう」と言われて撮影はするものの写真でそれを再現するにはとても難しい。

室内ならばストロボを当てざるを得ないのだが、それでは美しい波紋は現れない。

角度や光加減を考えてシャッターを押してみるが刀匠が気にいる映像は・・・。



手持ち撮影では限界がある。

写真家たちに言わせると、撮影機材も大がかりになり一様に撮るのは難しいという。

婦人の勤め先の話題なども飛びだし数時間も寛いでしまった。

一昨年に発刊した「奈良大和路の年中行事」をもう一冊ほしいと買ってくださった。

そこには菅原神社のトーニンワーイも掲載している。

嫁ぎ先のO家の親父さんが写っていたのだ。

温もりのあるO家の夕食時だっただけにご迷惑をかけたことだろうと思い帰路についた。

ちなみに公民館の横には観音堂がある。

ここでは彼岸講の寄り合いがあるという。

春は3月、秋は9月の彼岸の夜に集まって数珠繰りをしているそうだ。

ご詠歌をされるというから西国三十三番のご詠歌であろうか。

(H23. 9. 1 SB932SH撮影)

みやこ屋の海鮮丼

2011年10月03日 06時43分16秒 | 食事が主な周辺をお散歩
毎週金曜日、新聞のちらしに入っているのが地域ミニコミ誌の「奈良リビング」。

お店のことや行事なども紹介されている。

それを見たかーさんが「みやこ屋の海鮮丼」を食べに行こうと言った。

みやこ屋は馬司町の中央卸売市場の中にある。

建物の2階だ。

平成19年2月に家族揃って食べに行ったことがある。

そのときは昼食バイキングだった。

当時の料金は880円だったが今は90分で1000円だ。

お造りもにぎり寿司も食べ放題。

いっとき中断していたが復活したのである。

ランチバイキングだが朝は8時から15時までやっている。

今日はこれが目当てではない。

「海鮮丼」なのだ。

ついこの前に新システムメニューがスタートしたのである。

天丼、北海丼、イカ・イクラ丼、海老づくし丼、三味盛丼に海鮮丼とくる。



それらは朝6時から10時までは特割の格安で食べられるのだ。

朝早くからそんなものが食べられるわけがないって・・・。

当店は市場の人たちが食べる食堂だけにそんな時間帯になっている。

その値段で昼間の時間帯も食べられるってちらし配布された奈良リビングに載っていたのだ。

美味いものを食べたい気持ちが沈まぬうちにでかけようと思った。

しかもだ。

そのサービスは8月末までとくる。

急がねばならない。

はやる気持ちで車を走らせたら入口が判らなくなってしまった。

どうにかみやこ屋に着いた。

「ご注文は」の声に反応したのは「海鮮丼」。

「ちらしをお持ちですか」の問いに応えて差しだしたちらし。

これがないとサービス値段にならないのだ。

時間がかかりますと言われていたがしばらくするとでてきた海鮮丼。



サーモン、ブリ(ハマチかも)、マグロ、ウナギ、タコ、タイにイクラやウニまでのっかっている。

薄切りだが、丼はそれで蓋われてごはんが見えない。

貝汁も付いていた。

これで780円。

9月1日からは通常価格の1200円になる。

それは昼間の値段で、朝6時から10時までは780円だ。

次から次へとちらしを提示する客が入っている。

2度は使えないようにその都度、記事部分が切り取られる。

(H23. 8.30 SB932SH撮影)

2011十津川遊びp2

2011年10月02日 06時21分05秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
そうして朝を迎えた。

目覚めが良いのか、それとも・・・。昨年はたけりんのイビキで眠れなかった。

なので今年はイビキ組の部屋を作った。

いの一番に挙げられるたけりんにミヤリイとSさんの三人部屋だ。

お互いのイビキで眠れなかったのかと聞けばそうでもなかったらしい。

疲れていたのか睡魔に負けたそうだ。

まあともかくこっちは静かで寝心地はすこぶる良く朝はすっきりしていた。

朝食はいつものコース。

シャケ、トーフ、ナスビの味噌煮、カボチャ・タケノコの煮びたし、サラダに納豆。

これがいかん。私の天敵だ。

生タマゴを食べられない人もいるがわたしゃこれが・・・。

ご飯もみそ汁もみんながよそってくれる。

一杯が二杯・・・。

朝からそんなに食べられない身体になっている。

朝食を済ませて会計処理。

収支がとんとんになるようにしている。

安全運転してくれた運転手には余剰金を分配した。

そしていつもの場所で記念撮影。

一年、一年ごとの顔が年老いていく。

若かったころから来ている姿は40年間ですっかり髪の毛どころか眉毛も薄くなったことがわかる。

そうしてやってきた滝川渓谷。

美しい流れは変わっていないが今年の水量はいつになく多い。



川原に下りるのに一苦労するがみんなが道具を担いでくれる。

分担は特に決めてはいないがいつもそうしてくれる。

飲み物は石ころで堰き止めて冷やしておく。



適量な冷えぐあいになるのは早い。

その間は料理ができるようにコンロやテープル、イスなどを設営しておく。

時間までは渓流で魚釣り。

エサはといえば去年の残りだ。

そのせいなのかくいつきがまったくない。



増水している関係もあるかも知れないが、まったくアタリがない。

諦めて発泡酒のアテでも作るかとモヤシとブタバラ肉で味噌仕立て炒め。



シオ、コショウを少々ふりかけて買ってきたねぎ味噌炒めの素で混ぜる。

この素はトライアルで買ったもの。

メーカーものだがなんと一袋が75円とくる。

このときもフライパンが躍動する。

そろそろ買い直さなきゃと思うが鉄製パンに味が染み込む。

キムチ鍋に入れるギョーザも焼いてしまおうとフライパンで。

そして塩ダレの鶏肉も。



牛肉はない、というよりもしない。

値段的なものもあるがそれで十分。

昨年も好評だった鶏肉だ。

タマゴもあるからとモヤシ炒めにタマゴを投入。

味付けはシオ、コショウで味が出る。



もう一品がほしいというのでブタキムチまでも。

そこには鍋に入れるニラも入れた。



そうこうしているうちに昼時になった。

キムチ鍋も作らなきゃともう一つ用意していたコンロに大鍋をセットした。

このコンロは安価だった。

コーナンオリジナルだが1980円。



家でも使えるからと購入しておいた。

ブタバラ肉、ハクサイ、ネギ、ニラ、キムチ、トーフなどなどを3袋のスープにどかどかっと。

そこには中華そばやギョーザも入れる。



蓋をして煮込む。

これが飛ぶように売れていく。

トライアルオリジナルのスープはコクがなかったが不味くはない。

おかわりする人は平らげたカップを持って鍋に集まってくる。

余ったタマゴはタマゴ焼きにしてしまおうと、なんとミヤリイさんがフライパンを持った。タマゴ割りはTさんが受け持った。

片手でポンと割っていく。

慣れた手つきにみんなが驚く。

某店でアルバイトをしていたという。

意外といえば失礼だがタマゴ焼きは美味かった。

タマゴはまだ余っているからと鍋にも入れた。



まろやかな味になって美味くなった。

こうして滝川の渓谷を眺めながらの昼食は昼寝をするまもなく後にした。

ゴミがないことを確認して・・・。

気持ちが良い川は来年もこうでありますように。

そしてこの日も日帰り温泉。

いつもの滝の湯だ。

ここの温泉は匂いがいいし畳部屋でゆっくり休憩もできる。



ありがたい温泉は優待券を貰っていたので500円が300円で済んだ。

ありがたい券だ。

こうして帰路に着いた。

こんぴら館でお土産を買って・・・。

向こう側には神社の鳥居がある。

案内板によれば金刀比羅神社とある。

海の神さんが唐倉山に鎮座するとある。

神社参拝者宛の張り紙があった。

平成23年度より三月祭、モチマキがある十月祭を営むとある。

どうせ書くなら日付けも、と思うのだが・・・。

夜8時、参加者全員が無事に家に着いたと連絡が入った。

その一週間後には二日間に亘って楽しませてくれた十津川に大災害が発生したニュース映像がテレビに映った。

台風12号の影響による豪雨。

それは山を崩し、川を堰き止めた。

次々と映し出される映像に涙がでる。

十津川村野尻は山津波による川の段波で家が押し流された。

五條市大塔町宇井では対岸が山崩れしてそれが何十メートルも高いところにあった崖を家もろとも崩した。

十津川村の長殿もそうだ。

被害地域は広範囲で県内では天川村坪内、南日裏も。川上村では丹生川上大社下の道。

高原に通じる道が寸断された。

宇井は平成16年に大規模な地滑りがあった付近だ。当時の写真が生々しい。

(H16.8.28 J-SH53撮影)

「山が走る」と話す老人。

それは地滑りの速度が異様に早いということだろう。

川沿いにあった道路側が崩壊し、高さは20mもせりあがる。

深層崩壊現象だそうで川を越えて反対側の集落を飲み込んだ。

長殿地区では崩落して土砂が埋まり堰止められた自然湖ができあがっている。

それら土砂ダムは30か所にもおよぶという。

決壊すれば・・、孤立した山間の集落は・・・。

9月8日の木曜日には大塔町支流の赤谷川に溜まった土砂ダムが決壊しそうだと流域の長殿、宇宮原、上野地に避難を指示したという。

それは風屋ダムまで押し寄せるのだ。

赤谷といえばオートキャンプ地。自然観察会で施設に泊ったところだ。

なんということだ。

9月16日には雨が降った。

土砂ダムが決壊の恐れがあるということで災害対策基本法に基づき警戒区域に指定された下流の大塔町宇井、清水、赤谷地区、十津川村長殿、宇宮原、上野地地区、野迫川村北股地区では一切立ち寄れなくなる。

発生から数日後には電話が繋がった民宿津川。

おっとろしかったとねーちゃんは電話口で話す。

住まいの堺に帰ろうとしたが留まった。

風屋の高台に避難していたそうだ。

そこも危ないからもっと上に逃げようと相談していたという。

おやじさん一人にしなくて良かったと・・・。

被害はなかったものの安寧の日々がくるのはいつのことか。

そして次の台風がやってきた。

沖縄付近を迷走していた15号は急に進路を変えて東に向きを変えたのだ。

9月20日も各地で床下浸水など・・・新たな土砂崩れが発生するかもしれない。

21日には本土への影響が必至だとニュースは伝える。

(H23. 8.26 SB932SH撮影)
(H23. 8.26 Kiss Digtal N撮影)