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第1級のリーガル・サスペンスだ。この本はちょっと古くヘンリー・デンカーが上梓したのは、1982年、文春が文庫化したのが1984年となっている。古くても中身は新鮮で一気に読了は確実。
私は本を読み始めると傾向として同じような内容が続くという癖がある。スコット・トゥロー「無罪」「出訴期限」、ジョン・グリシャム「司法取引」と続いて「復讐法廷」となった。「無罪」「出訴期限」「司法取引」いずれも読み応えがあり読後感は満足のひとこと。
この本の原題が OUTRAGE激怒となっていて、倉庫会社の事務員の男デニス・リオーダンが、わが娘をレイプして殺した男を射殺したところから始まる。一人の男の激怒は、5発の銃弾を黒人のレイプ犯に浴びせることになった。
気になっていた悔恨や罪の意識にさいなまれるのではないか。その心配はいらなかった。良心のうずきはさらさらなく、ただ自由な気持ち、あの男を絶えず憎まずにはいられなかった強迫観念からの開放感に包まれたリオーダンは、その足で警察に出頭、一部始終を告白した。しかも、弁護士はいらないと頑強に拒否する。
自分で弁護しない限り弁護士抜きの裁判はありえない。一介の倉庫会社の事務員では自らの弁護を認められることはない。そこで登場するのは、ニューヨーク州裁判所に臨む古びた建物の中で三人の若い弁護士と共有するベン・ゴードンだった。
地方検事局の上司と喧嘩の末、唐突に辞めて弁護士事務所を開いたが、弁護の依頼は生活費の足しにもならないくらいで暇をもてあましていた。そんな時、叔父ハリーの薫陶を受けたというアーロン・クライン判事からの電話が、とてつもなく厄介な事件を押し付けられることになる。
リオーダンをここまで激怒させたのは、射殺した男が娘のレイプ殺人の犯人である明白な事実があったにもかかわらず、排除法則によって無罪放免されたことによる。一般市民は、この排除法則がどんなものであろうと感情的には受け入れられない。従って古風な敵討ちを実行したのがリオーダンだった。
ちなみにこの排除法則とは一体どんなものなのか、この本の訳者あとがきから引用してみよう。「排除法則がどうしてそんなに問題になるのかというと、もともと米国憲法修正第四条や第五条によって保証されている、違法な逮捕や捜索は受けない権利や自己に不利な証言はしなくてもよい権利の基づくこの法則が、さまざまな矛盾をはらんでいるからである。
そもそも排除法則には、警察が行き過ぎによってこれらの人権を侵害するのを抑止する意味があった。つまり行き過ぎによって収集した証拠は証拠として認めないぞ、という懲罰的な含みがある。それ自体大変素晴らしいことなのだが、現実には犯罪者の人権ばかり手厚く保護する結果になり、証拠や自白も揃っているが、有罪に出来ないということになる」
リオーダンの娘が殺されてから1時間もしないうちに黒人の男が拘束された。逮捕されたのは、イタリア人ばかりが住んでいる地区で、パトカーの警官は遅い時刻に黒人が一人で歩いているのを怪しんだ。呼び止めて職務質問をし身体検査をした。
持っていたのは、時計と金の鎖と十字架だった。それは疑いもなくリオーダンの娘のものだった。しかも、男の顔には引っかき傷があり、男の血液と一致する血液が娘の爪の間についていた。さらに、娘の首についていた指の跡は男のものであり、娘の体内から採取した精液が男のズボンに付着していたものと一致。にも拘らず警官の令状のない身体検査が証拠排除に適用された。
法廷でのやり取りが実にスリリングで、まるで映画の場面を観ているようだった。余談ではあるが、「復讐法廷」という同じタイトルのテレビ朝日系のドラマで今年2月放映があった。ネットで内容を見ると殆どこの本のエッセンスを取り込んである。一部内容の変更があるが、まるで独自のアイデアのようになんの断り書きもない。ただ、最後に「本作はヘンリー・デンカー著『復讐法廷』のモチーフを参考にしておりますが、発表された当時のアメリカと現代の日本との時代背景や法律体系の違いに鑑み、オリジナルの部分を創作、付与して制作しております」とのテロップが入るらしい。なんだか姑息な手段に思える。
観た人の感想を読むとまあまあというところらしい。出演はデニス・リオーダンを田村正和、ベン・ゴードンを竹内結子になっている。
さて、この原作の陪審員の評決は「われわれ陪審員一同は有罪の評決を、裁判制度に関して、くだすものである。被告人デニス・リオーダンについては、これを無罪とする」ちなみに、この排除法則は日本でも適用されているから念のため。