Wind Socks

気軽に発信します。

大リーグ レッドソックス・ジョシュ・ベケット目も冴える好投

2009-04-08 21:38:10 | スポーツ

           
 Ace overpowers Rays タンパベイ・レイズと一日延びた開幕試合。先発のベケットが、昨年とは見違える好投を見せた。7回を投げて10奪三振、ヒット2本、失点1という内容。この日はコントロールが非常によかった。
 セットアッパーが追加点を許したが、パベルボンの相変わらずのクローザーぶりは健在で、今年も大いに期待できる。
           
 打つほうもペドロイアのホームランもあり、打つ人が打ち、守る人が守って5-3とまず一勝を残した。
 岡島の調子が今ひとつというのが気にかかる。天候くもり気温7度の寒い中、観客は37,057人だった。

短編小説を読む 1990年~2007年エドガー賞全集(3)

2009-04-08 12:48:58 | 読書

            
 アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の最優秀短編賞受賞作を、1990年から2007年までを収めたものである。ミステリーの始祖、エドガー・アラン・ポーの胸像を贈ることからエドガー賞とも呼ばれている。

1992年受賞作 ウェンディ・ホーンズビー「九人の息子たち」

 なんとも心に暗い影が射してくる思いがする。“わたしは、今朝の新聞にジャーノシュ・ボナチェックの名前を見つけた。連邦政府の判事として過ごした二十五年間と引退後の人生プランについて書いた面白い記事だった。
 天才少年と呼ばれていたジャーノシュだったが、記事と並んだ彼の写真は、ほとんど禿げ上がり、かつての人目を引く黄色い頭髪は白くなって、たよりなく頭部を囲んでいた。
 つかのまわたしは、ジャーノシュに手紙を書くか電話をするかして、わたしと彼とをつなぐ鎖であり楔でもある、例の死をめぐる疑問に永遠の終止符を打ちたい誘惑にかられた”
 この導入部がいやでも先に進ませる。ことの次第が語られる。当時のわたしは、教員養成大学を卒業したばかりの二十歳の女だった。クラスに新聞記事の連邦判事になるジャーノシュがいた。彼の家は大家族の農家で、息子ばかり九人いた。
 ある日、いつものように授業が終わってわたしはジャーノシュの家の前を通りかかった。ジャーノシュの母親は、英語が喋れない上に寡黙で無愛想だった。彼女はいつも一人で畑に出ていた。
 わたしは不思議に思った。わたしの実家も酪農家で八人の兄弟がいるが、いつも作業を手伝わされていたからだ。ジャーノシュには九人の男の兄弟がいるというのに。
 わたしの友人マーサの旦那は医師で、いましがたジャーノシュの家から帰ってきたところだった。ジャーノシュの母親は、また一人で赤ん坊を産んだ。
 「赤ん坊は死んだ。きれいな女の子だった」医師は溜息をついた。その赤ん坊の葬儀のあと、ジャーノシュに呼び止められた。彼は溌剌としていた。青いクロッカスをわたしの手に押し込んだ。
 「とってもきれいだわ」わたしはジャーノシュの行為に感激した。わたしは尋ねた。「あなたのお母さんは赤ちゃんになんて祈ったの?」ジャーノシュは肩をすくめ「祈ったんじゃない。こう言ったんです。“安心おし。おまえの姉さんたちが天国でおまえを抱こうと待ってるからね”って」
 それ以来わたしの心にわだかまりが消えることがなかった。

 著者は、南カリフォルニア生まれ。1992年のアンソロジーSisters in Crime 4に本篇を発表し、2002年には本篇を収めた短編集Nine Sons: Collected Mysteriesを刊行。
 その他の作品に、過去の事件で負った怪我のために記憶があやふやになるテハーダ警部補と歴史教師ケイトが登場する長篇No Harm(1987年)や、映像監督マギー・マクガヴァンが主人公の長篇Telling Lies81992年)などがある。この人も邦訳はなさそうだ。

短編小説を読む 1990年~2007年エドガー賞全集(2)

2009-04-03 11:24:52 | 読書

            
 アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の最優秀短編賞受賞作を、1990年から2007年までを収めたものである。ミステリーの始祖、エドガー・アラン・ポーの胸像を贈ることからエドガー賞とも呼ばれている。

 1991年受賞作 リン・パレット「エルヴィスは生きている」

 エルヴィス・プレスリーは、1977年8月16日薬の過剰摂取により42歳の生涯を終えた。確かに「ハートブレーク・ホテル」の衝撃的なデビュー以来、常にロックン・ロール界をリードしキング・オブ・ロックンロールとまで言われた。
 その彼が死んだあとエルヴィスに心酔していたのか、あるいは単に金儲けと思ったか物まねタレントが数百人も出てきた。
           
彼らはエルヴィスにそっくりというわけでもない。そっくりなのは、衣装とサングラスと少しは似ているかなと思われる歌声だけだった。
 そんな社会現象に飛びついたのが年を食ったペイジという男。物まねタレントを三人集めて売り出し時のエルヴィス、絶頂期のエルヴィス、それに晩年のエルヴィスという構成でラス・ヴェガスに乗り込んだ。
 ジャンゴは売り出し中の、バクスターは最盛期、リーが晩年という配分だった。みんな特長を生かして結構受けていた。しかし、ペイジとの契約には二年間は拘束されるという自由の利かないものだった。
 ジャンゴは友人の前ではショウをやりたくないし、リーには逃げた妻が元に戻る可能性があって今すぐ家に帰る必要があった。
 ナイト・クラブのほの暗い客席に向かってリーは《今夜はひとりかい》のしゃべる部分に入っていた。「言ってくれよ、ディア――」マイクにささやきかけいったんは逃げて、再び帰ってくるかもしれない妻のことを思った。
 妻の高校時代を思い出して「きみはとても可愛いよ。それに、ぼくは知ってるんだ。きみがぼくのことを気にかけてくれたことを。でも――どうして、こうなったんだい? きみはぼくを遠くに追いやって――」
 客席を見ると、この切ない音楽と言葉に酔った顔に涙が見えた。そしていつものように歌詞が戻ってくる。バンドがそれに続き、後ろで壁の照明が輝いたとたん、ものすごい力で爆発して、リーを叫び狂う客席の中に吹き飛ばした。
 この真相は、リーがステージに上がる前ペイジが立っていた近くの配線機器に軍隊時代に覚えた技で細工をしたものだった。ペイジは事故死と認定された。三人は自由になった。リーは故郷までヒッチハイクのトラックの中で、思いっきりエルヴィスの歌を歌った。
 著者は、ニュージャージー州生まれ。1988年に短編集The Land of Goを発表。最近作は短編Blue Vandasで、ミーガン・アボット編A Hell of a Woman(2007年)に収録されている。またフロリダの作家を紹介するfloridabookreview.comを立ち上げた。Amazonで調べたが邦訳はほかになかった。

大リーグ ヤンキースのオーダーは……

2009-04-03 10:59:18 | スポーツ

 Yanks name Jeter their leadoff hitter今までデイモンが務めていた先頭打者を、どうやらジーターに収まるようだ。A-ロッドが臀部の手術で復帰が5月という中で、テシェイラ、マツイ、カノ、ガードナーなどのメンバーが好調かあるいは調子を戻してきつつある。
           
 ジーターを一番に据えた理由は何なのか。デイモンが言うには、「ジーターのほうが出塁率が高いからね」なるほど通算でみるとジーター.387デイモン.354となっている。いずれにしても三番のテシェイラ、それにつづくA-ロッド、マツイという打者のバッティングに期待しているのだろう。うまくいけば、充実した投手陣とともにワールド・チャンピオンに手が届く。
 開幕時に予想されるのオーダーは、
  1. ジーター(SS)
  2. デイモン(RF)
  3. テシェイラ(1B)
  4. マツイ(DH)
  5. ポサダ(C)
  6. カノ(2B)
  7. ネイディー(LF)
  8. ランソン(3B)
  9. ガードナー(CF)
 4月2日ヤンキースの新球場での初練習と豪華になったクラブ・ハウスで選手たちは楽しむことだろう。
           
             新球場の豪華なクラブハウス

大リーグ ヤンキース・デレク・ジーター

2009-04-02 10:42:00 | スポーツ

           
 好きな選手の一人である。バッターボックスに入るときのしぐさ、右手を高く上げて「チョット待って! いま構えるから」といわんばかりに足元を決めてバットを構える。走る姿もやや肩を怒らしたようにして腕を振っている。彼独特のポーズだ。
 走る姿が似ているのが、レッド・ソックスの二塁手ペドロイアだろう。私はそう思う。2000年に二年つづけて“Toast of Town”(街の人気者)を受賞し、「ニューヨークの貴公子」とか、2001年の同時多発テロで11月にポスト・シーズンが行われ、そこで大活躍したため「ミスター・ノーベンバー」とも言われるデレク・ジーター。
 Full Name Derek Sanderson Jeterは、1974年6月26日ニュージャージー州ペカンノックに生まれる。1992年カラマーゾフ・セントラル・ハイスクールを卒業したが、上級生のころの野球の成績は、23試合で打率.508 4本塁打、23打点だった。 結果として、この年のアメリカ野球コーチ連盟の高校年間最優秀選手に選ばれている。そして、マイナー・リーグに入り1994年マイナーでの通算打率.344を記録して年間最優秀選手に選ばれる。
 MLBデビューは、1995年5月29日だった。‘95年は15試合の出場だったが、’96年には157試合打率.314の成績でレギュラーのポジションを手に入れた。‘08年までの通算打率.316、エラーも20個以下の堅い守備力を誇る。ちなみに‘08年は12個だった。
 この何度もゴールデン・グラブ賞に輝くジーターの守備力も、マイナーのころはまったく不安な様子だったそうだ。特訓を命じられたこともあるという。高い評価を受ける守備だが、左方向つまりセンターに抜けるかという打球に弱いというウィークポイントを指摘する向きもある。
 しかし、三遊間のきわどいゴロを捕球して、打者をアウトにする華麗なプレイをまだまだ見たいものだ。ジーターは数々の栄誉に輝いているが、現在のところ唯一彼にしかないものがある。それは、2000年のオールスター・ゲームのMVPとワールド・シリーズのMVPだ。誰にでもあるチャンスとは言えない。運命とでも言うしかないか。
 彼のもう一つの評価できる点は、慈善活動に熱心なことだ。ターン2ファンデーションという組織を立ち上げて、父親と妹が実務を担当しているようだが、ニューヨーク、ミシガン、フロリダ地域で活動している。
 ジーターはまだ独身のはず。最後に残された課題といえる。そして今年もプレイ・ボールが近い。

大リーグ ブレーブス一筋のチッパー・ジョーンズ、2013年が最後のシーズンになる

2009-04-01 10:40:31 | スポーツ

           
 Chipper close to contract extensionチッパー・ジョーンズ、自らの野球人生を閉じるために2013年まで契約を延長。1995年野茂英雄と新人王を争ったあのチッパー・ジョーンズも、MLB生活14年で年齢も35歳となってプレイヤーの限界を見たか、あるいはよれよれの姿を見ることなくいい潮時と考えたのかもしれない。
 あと三年経ってもまだ38歳だから、マリナーズのケン・グリフィー・jr,の40歳に届かない。続けようと思えばそれは可能だが、本人の気持ちだから拍手を送りたい。
 そのチッパー・ジョーンズ、Full name Larry Wayne Jonesは、1972年4月24日フロリダ州のデルランドに生まれる。フロリダ州ジャクソンヴィルのボールス・ハイ・スクールで、1990年の新人王に輝き、Led Bolls 選手権大会では、打率.448を記録している。
 1993年9月11日MLBデビュー。通産打率.310本塁打20本以上を続け、守りでもエラーを20個以下という守備力を誇る。2008年は13個だった。
 現在夫人のシャロンとともに三人の息子に恵まれていて、趣味はハンティングとフィッシング。相撃ちを避ける朱色のパーカーを着て、ライフルの撃ち方を息子に教える姿や人里離れた渓流でフライのラインを朝日にきらめかせながら投げ入れる様は、まさにアメリカの男そのものだ。三年後とはいえまたなじみの選手がMLBを去っていく。チョットさびしい気分だ。