風邪の影響かやる気がないなか、7時からModerata(Path Hunter 28C)に乗って価倉岡の谷川住宅群( http://kindaikenchiku.seesaa.net/article/418440019.html ) を見に行く。上の茂庵は休業日。
茂庵の階段を上がるとそこに住宅が並ぶ。4軒、2段がメインのようで、斜面を切り取り後ろに擁壁、前になだらかな庭があり、眺望を確保している。真正面に大文字が見える。
建物は大正後期から昭和初期に建設されたとある。大正建築であり窓にガラスが多い。京大に近く関係者に便利な立地だ。当時は自動車も必要なかったのだろう。
取付道路が工事の土砂排出に必要と探すと、南側に急斜面(コンクリートに丸い輪っか舗装)の取り付け道路がある。
日常生活は階段利用であり、これは買物など重量物の運搬には高齢になるとしんどいと思った。1910年(明治43年)箕面有馬電気軌道による池田室町の住宅開発と分譲( https://smtrc.jp/town-archives/city/toyonaka/p07.html )が嚆矢となった。船場の旦那のお屋敷として1921年(大正10)北大阪電気鉄道( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E9%98%AA%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93 ) 千里山住宅( https://smtrc.jp/town-archives/city/senri/p02.html?id=a04 )が山型の住宅開発のヒントとなったのかもしれない。関西大学が1922年(大正11)千里山学舎を開校した( https://smtrc.jp/town-archives/city/senri/p03.html )のも、吉田山と京大の近接関係に似ている。当時は、混雑した街なか(特に船場)より日当たりのよい斜面地に住むのがステイタスであったのかも知れない。大学に近い岡本( https://www.nomu.com/machikara/2827/ )や池田の五月山の麓なども同じく眺望からか人気があった。
神楽岡は船岡山、双ヶ岡とともに平安京の横方向軸線のポイントだ。その北の蓮台野、宇太野と神楽岡あたりは葬送地であった。つまりは平安京の外辺にあたる。
さらに神楽岡(吉田山)は花折断層の膨隆丘( https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0070.html )であり、西側に断層が見える。地震の折にはここから岡崎までの断層があり要注意だ。
ちょっと疲れた、翌日風邪で寝込んだ