前回の続きです。
人込みに疲れたので、もう帰ろうと思ったら、市電停留所前の宮殿(国会施設)には長蛇の列がありませんでした。
以前に
民主主義工房としてアップしたエプシュタイン宮殿です。
また、ぴんぼけ写真を羅列しました
1)入り口の奥の中庭
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/37/6207166b129536fdbacaf81a60685f5c.jpg)
説明のビデオを見ている人
2)上を見上げたところ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/ae/b3b586e954610734cc56e6d71e3b041b.jpg)
上部はガラス張りで雨の日も大丈夫
3)階段の途中から見た中庭
4)この上のサロンの数々が祝日で一般公開されています
5)サロンのひとつ
6)大通り側の窓
7)下は市電と市バスの停留所
以前の記事のぴんぼけ写真は下の電停から撮ったもの
8)各室の天井が見事
9)窓から見た国会議事堂の一部
10)別の部屋の天井
11)隣室へつながる部分
12)また見事な天井
13)公開されている最後の部屋
14)外に出てきても人込みは相変らず
エプシュタイン家も以前に紹介したエフルッシ家と同様、19世紀末から20世紀前半のウィーンの経済と文化を支えたユダヤ系上流市民です。
女傑の空白で紹介したエフルッシ宮殿の内部も、ここに見られるのに似た内装ではないかと想像されます。
エプシュタイン宮殿は1873年の経済恐慌のとき、エプシュタイン家が売却、その後、市の教育委員会の建物でしたが、ナチスの時代には「
第三帝国」の国家施設となり、戦後は再独立までの10年間、ここにソ連軍総司令部が置かれ、その後、再び教育委員会の施設となった後、2004/2005年に修復され、今は国会の施設となっています。
エフルッシ宮殿の場合は、ナチスの時代まで、エフルッシ家の人々が住んでいたのですが、ナチスによって没収され、エフルッシ家の人々は財産を失い亡命せざるを得ませんでした。戦後の占領時代はアメリカ軍の施設として利用され、再独立後エフルッシ家の相続権者(「
琥珀の目の兎」著者の祖母)に返却され、相続者よって売却され、2009年までカジノ・オーストリアの社屋でした。現在どうなっているのか、ドイツ語ウィキにもありません。本が世界的ベストセラーになっているので、一般公開あるいはガイドツアー実施などが期待されます。
両宮殿についてはドイツ語のほか英語しかありません。
Wikipedia:
Palais Epstein(英語)
Wikipedia:
Palais Ephrussi(英語)