雨模様の一日。昨日は蒸し暑かったが、今日は一転して高原の秋のようである。玄関先の朝顔が夏の忘れ物のように見える。
朝顔二輪
夕方、傘を差して散歩に出る。東口の復活書房とブックオフを回って、沢木耕太郎『凍』(新潮社)と林真理子『ルンルン症候群』(角川文庫)を購入。
傘の花が咲く
林真理子の『ルンルン症候群』は1983年の一年間にさまざまな雑誌に書いたエッセー30数本を集めて単行本にしたものである。彼女は前年に最初のエッセー集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』が爆発的に売れて、無名のコピーライターから一躍時の人になったのであるが、その生活の激変ぶりを興奮しつつどこか醒めた目で綴ったのが本書である。林真理子は1980年代を象徴する人物の一人だと私は思っているのだが、本書は彼女自身による「林真理子現象」の実況レポートというべきものである。たとえば「月収10万円のとき200万円の今」と題するエッセー(初出:『婦人公論』1983年7月号)では、大学卒業(1976年)からの6年半が語られている。
「大学を卒業した私は、折りからの石油ショックにぶつかって、どうしても就職先を見つけることができない日々が続いた。田舎でつましく暮らしている両親からは、卒業と同時に仕送りもたち切られていて、あの半年間、私はどういうふうに暮らしていたか、今もって記憶が定かではない。ただはっきりと思い出すことができるのは、たまに行く印刷工場の日払いのバイトだけが唯一の収入源で、そこからアパートの家賃をひくと、ほとんど何も残らなかったということだ。私は毎朝半斤の食パンを買った。四枚で四十円という値段は今でもなぜかよく憶えている。
朝それを一枚食べる。マーガリンと砂糖をべったりつけて口に入れると、結構おなかがいっぱいになった。昼間もまったく同じメニュー。夜だけは残った二枚に運がいいと野菜炒めがついたりもしたっけ。
本当にあの頃の私は滑稽なくらい金がなかった。
その食パンさえ買えないことがあって、一日中部屋で寝ていたこともある。」(147-148頁)
しかし、当時の彼女はこうした境遇を少しも惨めには感じなかったという。なぜならそれが自分の人生のほんの一瞬のことに過ぎないという確信があったからである。
「もうじき私はきっと就職できるだろう。そうしたら、リッチなとまではいかないまでも、ほどほどの生活ができるOLとなるはずだ。この貧しく無職の日々というのは、私がこれから活動する前のパケーションに違いない。
私は本気でそう考えていた。だからそれから半年後、実際に就職できた時の方が、はるかにみじめさは大きかったと思う。そして私は、過大すぎる期待が現実になった時、いかに多くのものが失われていくか、その時身をもって知っていくのだ。
少なくとも私の場合、貧しいOLよりも、貧しい失業者の方が居心地がよかった。なぜなら、自分の中で「希望」というものは、いくらでも素敵にふくらんで、その空想だけで私は十分に幸せでいられたのだ。
勤め始めた時の私の給料は、九万円を出るか出ないかだった。入社したばかりだったから、ボーナスも無いに等しく、年収は百万円をほんのちょっぴり超えるぐらいだったと思う。これに「ドジ」とか「アホ」とののしられるオマケが付いたから、精神的にも相当の苦痛だった。「失業していた頃の方がよかった」と私が考えたのも確かに一理あるだろう。」(148-149頁)
こうした落ちこぼれOL時代からわずか数年後、28歳のとき、彼女はひょんなことから最初のエッセー集を出版し、一躍サクセス・ストーリーの仲間入りすることになった。
「思えば私は金の力で、自分自身の手で、過去にもっていたさまざまな「希望」を少しずつ打ち砕いていったような気がする。
数々の海外旅行。
五十万円で買った英語教材。
最新のビデオ。
ほんの少し前まで、私はそれらのものが手に入れば、私はきっと変われると信じ込んでいたところがある。さまざまな経験を積み、英語も喋れるようになり、とにかく洗練されたいい女になれると-。
まったく使っていない英語教材を見ながら、私はため息をつく。
ところがこの私ときたら、それらを次から次へと手に入れると、その段階で興味をなくしてしまい、手も触れようとさえしなくなるのである。しかし、そのことを「失望」とよぶのは、自分自身でもちょっと悔しい。なぜなら、新品のそれらを手にした時のはずむような気持は、私の中でしっかりと持続しているし、それがあるから私はこれからさまざまなものを買うに違いない。それがたとえ、手にしたとたん色褪せるものであったとしても、私は自分のものにせずにはいられないだろう。
漠然とではあるが、私はこれこそが私の最大のエネルギーであろうと、密かに自負している。
それはまさに消費社会に魅入られたエネルギーであろうと、これを続けるよりは仕方あるまい。」(153-154頁)
当時の林真理子は80年代の高度消費社会におけるバブル文化の正に代理人である。バブル文化が林真理子という女性の身体を借りて、自らの論理と心理を語っているようである。彼女は私と同じ1954年生まれなので、彼女がこのエッセーを書いていた1983年、私も彼女と同じ29歳であった。同じではなかったのは、そのときの私の月収が10万円もなかったこと、そして「もうじき私はきっと就職できるだろう」という確信もなかったことである。
ネオンの花も咲く
朝顔二輪
夕方、傘を差して散歩に出る。東口の復活書房とブックオフを回って、沢木耕太郎『凍』(新潮社)と林真理子『ルンルン症候群』(角川文庫)を購入。
傘の花が咲く
林真理子の『ルンルン症候群』は1983年の一年間にさまざまな雑誌に書いたエッセー30数本を集めて単行本にしたものである。彼女は前年に最初のエッセー集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』が爆発的に売れて、無名のコピーライターから一躍時の人になったのであるが、その生活の激変ぶりを興奮しつつどこか醒めた目で綴ったのが本書である。林真理子は1980年代を象徴する人物の一人だと私は思っているのだが、本書は彼女自身による「林真理子現象」の実況レポートというべきものである。たとえば「月収10万円のとき200万円の今」と題するエッセー(初出:『婦人公論』1983年7月号)では、大学卒業(1976年)からの6年半が語られている。
「大学を卒業した私は、折りからの石油ショックにぶつかって、どうしても就職先を見つけることができない日々が続いた。田舎でつましく暮らしている両親からは、卒業と同時に仕送りもたち切られていて、あの半年間、私はどういうふうに暮らしていたか、今もって記憶が定かではない。ただはっきりと思い出すことができるのは、たまに行く印刷工場の日払いのバイトだけが唯一の収入源で、そこからアパートの家賃をひくと、ほとんど何も残らなかったということだ。私は毎朝半斤の食パンを買った。四枚で四十円という値段は今でもなぜかよく憶えている。
朝それを一枚食べる。マーガリンと砂糖をべったりつけて口に入れると、結構おなかがいっぱいになった。昼間もまったく同じメニュー。夜だけは残った二枚に運がいいと野菜炒めがついたりもしたっけ。
本当にあの頃の私は滑稽なくらい金がなかった。
その食パンさえ買えないことがあって、一日中部屋で寝ていたこともある。」(147-148頁)
しかし、当時の彼女はこうした境遇を少しも惨めには感じなかったという。なぜならそれが自分の人生のほんの一瞬のことに過ぎないという確信があったからである。
「もうじき私はきっと就職できるだろう。そうしたら、リッチなとまではいかないまでも、ほどほどの生活ができるOLとなるはずだ。この貧しく無職の日々というのは、私がこれから活動する前のパケーションに違いない。
私は本気でそう考えていた。だからそれから半年後、実際に就職できた時の方が、はるかにみじめさは大きかったと思う。そして私は、過大すぎる期待が現実になった時、いかに多くのものが失われていくか、その時身をもって知っていくのだ。
少なくとも私の場合、貧しいOLよりも、貧しい失業者の方が居心地がよかった。なぜなら、自分の中で「希望」というものは、いくらでも素敵にふくらんで、その空想だけで私は十分に幸せでいられたのだ。
勤め始めた時の私の給料は、九万円を出るか出ないかだった。入社したばかりだったから、ボーナスも無いに等しく、年収は百万円をほんのちょっぴり超えるぐらいだったと思う。これに「ドジ」とか「アホ」とののしられるオマケが付いたから、精神的にも相当の苦痛だった。「失業していた頃の方がよかった」と私が考えたのも確かに一理あるだろう。」(148-149頁)
こうした落ちこぼれOL時代からわずか数年後、28歳のとき、彼女はひょんなことから最初のエッセー集を出版し、一躍サクセス・ストーリーの仲間入りすることになった。
「思えば私は金の力で、自分自身の手で、過去にもっていたさまざまな「希望」を少しずつ打ち砕いていったような気がする。
数々の海外旅行。
五十万円で買った英語教材。
最新のビデオ。
ほんの少し前まで、私はそれらのものが手に入れば、私はきっと変われると信じ込んでいたところがある。さまざまな経験を積み、英語も喋れるようになり、とにかく洗練されたいい女になれると-。
まったく使っていない英語教材を見ながら、私はため息をつく。
ところがこの私ときたら、それらを次から次へと手に入れると、その段階で興味をなくしてしまい、手も触れようとさえしなくなるのである。しかし、そのことを「失望」とよぶのは、自分自身でもちょっと悔しい。なぜなら、新品のそれらを手にした時のはずむような気持は、私の中でしっかりと持続しているし、それがあるから私はこれからさまざまなものを買うに違いない。それがたとえ、手にしたとたん色褪せるものであったとしても、私は自分のものにせずにはいられないだろう。
漠然とではあるが、私はこれこそが私の最大のエネルギーであろうと、密かに自負している。
それはまさに消費社会に魅入られたエネルギーであろうと、これを続けるよりは仕方あるまい。」(153-154頁)
当時の林真理子は80年代の高度消費社会におけるバブル文化の正に代理人である。バブル文化が林真理子という女性の身体を借りて、自らの論理と心理を語っているようである。彼女は私と同じ1954年生まれなので、彼女がこのエッセーを書いていた1983年、私も彼女と同じ29歳であった。同じではなかったのは、そのときの私の月収が10万円もなかったこと、そして「もうじき私はきっと就職できるだろう」という確信もなかったことである。
ネオンの花も咲く