フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月8日(金) 曇り

2006-09-09 02:46:04 | Weblog
  「日本の古本屋」のサイトを通じて注文しておいた雑誌『評論』(河出書房)と『新人』(小学館)のそれぞれ創刊号が届いた。どちらも1946年1月の発行である。終戦の翌年に当たるこの年は雑誌の創刊ラッシュで、その多くは数年のうちに消えてしまうのだが、活字への渇望のようなものが熱くたぎっていた時代の雰囲気が、いまはすっかり黄ばんでしまった古雑誌からもひしひしと伝わってくる。どちらも100頁前後の薄い雑誌なのだが、活字がすごく小さい。小さい上に二段組み、三段組み、ときには四段組みなんてことになっているので、一頁あたりの活字の量が半端ではない。昔の大学生に眼鏡を掛けている者が多かったのは、コンタクトレンズというものがなかっただけではなく、こんな小さな活字を大量に読んでいたからに違いない。思えば、昔の文庫本も活字が小さかった。最近の文庫本はずいぶんと活字が大きくなって、読みやすいと言えば読みやすいのだが、ある限度を超えて大きいと、なんだか間が抜けているように感じてしまう。本の大きさに対応した最適な大きさというものが存在するのではなかろうか。

          
                   1946年の熱気

  夕方、散歩に出る。有隣堂で三谷幸喜の最新エッセイ集『有頂天時代 ありふれた生活(5)』を立ち読みする。いまは論文の執筆中なので本を購入してもすぐに読めるわけではないので、自ずと購入については控えめになる。購入したのは荒木経惟『すべての女は美しい』(だいわ文庫)。天才アラーキーのフォト&インタビュー。有隣堂と同じフロアーにあるカフェ・ド・クリエでレモンスカッシュを飲みながら読み終える(正確には、見終える、と書くべきか)。私は写真が好きで、見るのも好きだが、撮るのも好きで、この夏休みのフィールドノートは「絵日記」ならぬ「写真日記」を意図してやっている。木村伊兵衛のような市井の人々のスナップ写真や、ウォーカー・エヴァンズのようなドキュメント写真が撮りたいものだが、現代の都市ではうっかり他人にカメラ(ケータイ)を向けたりすると一悶着起きかねない。だから自ずと被写体は人間以外のものに向かうことが多くなる。そういう気弱な人間にとっては、アラーキーの撮る女性の写真は圧巻である。

          
         座敷に上がってきた「なつ」におどおどする「はる」