昨日も冷えたが、今日はもっと冷えた。残暑への微かな期待を一刀両断に切って捨てる非情の秋冷である。
そんな中、卒業生のT君からホットなメールが届く。東北地方の国立大学の専任教員に就職が決まったという知らせだった。T君は私の早稲田大学での最初の教え子の一人で、今年で32歳(だったかな?)。東大の大学院へ進んだのだが、方々の大学で非常勤講師をしながら、専任講師の公募に出しては落ち出しては落ちの繰り返しで(いい線までは行くのだが…)、はがゆい思いをしてきたことと思う。でも、結果的には、30代前半で専任講師の口を得て、これからは生活の心配をすることなく研究と教育に打ち込めるわけだから、言うことなしである。明日、晩飯でも食おうということになった。
夕方、コーデュロイのジャケットを着て散歩に出る。ポケットには清水幾太郎『社会学ノート』(河出文庫、1954年)。手にはいましがた光芳書店から届いたばかりの清水幾太郎監修『東京-大都会の顔-1952』(岩波写真文庫、1952年)。シャノアールで1950年代初期の東京の写真を眺め、1951年の『社会学評論』に載った清水の「新しい群集」を読む。私が生まれるほんの数年前の東京の風景だが、隔世の感がある。自分がこの歳月を生きてきたということに感嘆の声(ひえ~)が出そうになる。うすうすわかってはいたが、やっぱり、もう若くないのだ。
十条銀座
引揚者定着寮(青山)
エプロンおばさんとおかっぱの女の子
そんな中、卒業生のT君からホットなメールが届く。東北地方の国立大学の専任教員に就職が決まったという知らせだった。T君は私の早稲田大学での最初の教え子の一人で、今年で32歳(だったかな?)。東大の大学院へ進んだのだが、方々の大学で非常勤講師をしながら、専任講師の公募に出しては落ち出しては落ちの繰り返しで(いい線までは行くのだが…)、はがゆい思いをしてきたことと思う。でも、結果的には、30代前半で専任講師の口を得て、これからは生活の心配をすることなく研究と教育に打ち込めるわけだから、言うことなしである。明日、晩飯でも食おうということになった。
夕方、コーデュロイのジャケットを着て散歩に出る。ポケットには清水幾太郎『社会学ノート』(河出文庫、1954年)。手にはいましがた光芳書店から届いたばかりの清水幾太郎監修『東京-大都会の顔-1952』(岩波写真文庫、1952年)。シャノアールで1950年代初期の東京の写真を眺め、1951年の『社会学評論』に載った清水の「新しい群集」を読む。私が生まれるほんの数年前の東京の風景だが、隔世の感がある。自分がこの歳月を生きてきたということに感嘆の声(ひえ~)が出そうになる。うすうすわかってはいたが、やっぱり、もう若くないのだ。
十条銀座
引揚者定着寮(青山)
エプロンおばさんとおかっぱの女の子