今日はお彼岸の中日。母と妻と3人で鶯谷の菩提寺に墓参り。川越の妹夫婦も合流。昼食を根岸の香味屋(下町の洋食屋として有名)で食べようと、開店時間(11:30)に合わせて行ったのだが、予約客でいっぱいだった。いつの間にかずいぶんと敷居の高い店になってしまった。しかたなく近所の商店街の蕎麦屋に入ったのだが、汁がいかにも下町風で濃くて辛い。妻は蕎麦湯で汁を薄めて天ぷら蕎麦を食べていた。食後の腹ごなしにみんなで鶯谷から上野まで歩く。上野公園はたくさんの人で賑わっていた。不忍池は一面の蓮の葉で覆われていた。大黒天堂の一角に曼珠沙華が咲いていた。「曼珠沙華ひとむら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしずかなる径」という木下利玄の歌を思い出す。蓮の写真を撮っていて一団から遅れた私を、妻が「孝治さ~ん!」と大きな声で呼んだ。その呼び方が可笑しかったらしく(昔の若いカップルのようであったからだろうか)、母と妹夫婦が大笑いしていた。アメ横の近くの喫茶店で一服して、上野駅から電車に乗って帰ってきた。浅草生まれの父が愛した場所をめぐる散歩であった。
上野公園の木漏れ日
一面の蓮の葉(不忍池)
曼珠沙華ひとむら燃えて…
蒲田に着いて、私は真っ直ぐ帰宅はせず、有隣堂に寄って池内紀編『素白先生の散歩』(みすず書房)を購入し、シャノアールで読む。岩本素白(本名は堅一)は、明治16年に東京は麻布に生まれ、明治37年、東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業し、麻布中学の教師を経て、大正11年、早稲田大学文学部教授となった。定年後は跡見学園短大で教鞭を執り、昭和36年に78歳で亡くなっている。同期生で歌人の窪田空穂は彼について、「教員という職は大体安定したものであるが、それにしても岩本君はその上での単純と純粋を窮めた人という感がある」と語った。生前の著作はわずかに三冊。論文集『日本文学の写実精神』と随筆集『山居俗情』『素白集』である。『山居俗情』の中の「街の灯」(昭和9年)の一節を引く。
「山の手に比べると下町の夜は明るい。そうは言っても、ネオンの灯の海の銀座を横ぎって、あの、和風ではあるが白ちゃけた色合からしてが、形の変った大きな西洋菓子でも見るような歌舞伎座近くになると、街の明るさはにわかに減ずる。更に暗い水を渡って築地門跡前、よしその角の東京劇場はあいていようとも、そこを曲った築地二丁目一丁目あたりはもう暗いという感じさえ起こるほど、灯の少い静かな町である。そこから両国行きの電車路に沿って、人形町通りの明るい灯の街へ出るまでに、ところどころやや燈火の濃い場所はあっても、桜橋、西八丁堀、蠣殻町、今頃の夏のことにして見ると、濃い宵闇に火影の涼しさを覚える程、みんな静かな町続きである。
(中略)
月の無い夏の晩であった。散歩には出たものの、余りの蒸し暑さに水の畔りに出たいと思って、この橋の袂を東へ折れたことがあった。風といっては文字通り鬢(びん)の毛もそよがないのであるが、暗いながら川一杯の水に新富川岸の灯が映って、眼にだけは涼しい景色であった。この川沿いの静かな片側町の奥深い客商売の家の入口には、火影を涼しく見せるために敷石から板塀まで、ふんだんに水が打ってあった。同じ町並みに塩湯があって、そこから出て来たらしい三四人連れの女達が何か睦ましげに物語りながら、宵闇に白い浴衣を浮かせて通り過ぎたが、そのあとには覚束ない白粉の匂いが、重い夜気の中に仄かに漂っていた。それから、堀割について明石町の河岸に出て、暗い水を行く小舟の灯を見送ったり、川口に懸かっている帆前船の灯を眺めたりして家へ帰ったのであるが、中一日を隔ててあの大地震であった。勿論その一帯は焦土と化してしまったのであるが、考えて見れば、あの時ゆきずりに見た、夏の夜の入浴を楽しんでいたらしい町の人達も、果たして無事に彼の劫火を免れ得たかどうかは分らない。それから数多の年月が経って、その辺りもどうやら元の姿には帰った。然し改変のある度ごとに、景趣の減じていくのが都会である。この町の灯も今は以前の火影とは違ったものである。」
文章の呼吸というのはこういうものだという見本のような文章である。それにしても当時の東京の地名はどれも美しい響きをもっていた。地名に「東・西・南・北」や「新」や「元」を付けて古い地名をお払い箱にしたことは本当に取り返しのつかない愚行であった。
上野公園の木漏れ日
一面の蓮の葉(不忍池)
曼珠沙華ひとむら燃えて…
蒲田に着いて、私は真っ直ぐ帰宅はせず、有隣堂に寄って池内紀編『素白先生の散歩』(みすず書房)を購入し、シャノアールで読む。岩本素白(本名は堅一)は、明治16年に東京は麻布に生まれ、明治37年、東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業し、麻布中学の教師を経て、大正11年、早稲田大学文学部教授となった。定年後は跡見学園短大で教鞭を執り、昭和36年に78歳で亡くなっている。同期生で歌人の窪田空穂は彼について、「教員という職は大体安定したものであるが、それにしても岩本君はその上での単純と純粋を窮めた人という感がある」と語った。生前の著作はわずかに三冊。論文集『日本文学の写実精神』と随筆集『山居俗情』『素白集』である。『山居俗情』の中の「街の灯」(昭和9年)の一節を引く。
「山の手に比べると下町の夜は明るい。そうは言っても、ネオンの灯の海の銀座を横ぎって、あの、和風ではあるが白ちゃけた色合からしてが、形の変った大きな西洋菓子でも見るような歌舞伎座近くになると、街の明るさはにわかに減ずる。更に暗い水を渡って築地門跡前、よしその角の東京劇場はあいていようとも、そこを曲った築地二丁目一丁目あたりはもう暗いという感じさえ起こるほど、灯の少い静かな町である。そこから両国行きの電車路に沿って、人形町通りの明るい灯の街へ出るまでに、ところどころやや燈火の濃い場所はあっても、桜橋、西八丁堀、蠣殻町、今頃の夏のことにして見ると、濃い宵闇に火影の涼しさを覚える程、みんな静かな町続きである。
(中略)
月の無い夏の晩であった。散歩には出たものの、余りの蒸し暑さに水の畔りに出たいと思って、この橋の袂を東へ折れたことがあった。風といっては文字通り鬢(びん)の毛もそよがないのであるが、暗いながら川一杯の水に新富川岸の灯が映って、眼にだけは涼しい景色であった。この川沿いの静かな片側町の奥深い客商売の家の入口には、火影を涼しく見せるために敷石から板塀まで、ふんだんに水が打ってあった。同じ町並みに塩湯があって、そこから出て来たらしい三四人連れの女達が何か睦ましげに物語りながら、宵闇に白い浴衣を浮かせて通り過ぎたが、そのあとには覚束ない白粉の匂いが、重い夜気の中に仄かに漂っていた。それから、堀割について明石町の河岸に出て、暗い水を行く小舟の灯を見送ったり、川口に懸かっている帆前船の灯を眺めたりして家へ帰ったのであるが、中一日を隔ててあの大地震であった。勿論その一帯は焦土と化してしまったのであるが、考えて見れば、あの時ゆきずりに見た、夏の夜の入浴を楽しんでいたらしい町の人達も、果たして無事に彼の劫火を免れ得たかどうかは分らない。それから数多の年月が経って、その辺りもどうやら元の姿には帰った。然し改変のある度ごとに、景趣の減じていくのが都会である。この町の灯も今は以前の火影とは違ったものである。」
文章の呼吸というのはこういうものだという見本のような文章である。それにしても当時の東京の地名はどれも美しい響きをもっていた。地名に「東・西・南・北」や「新」や「元」を付けて古い地名をお払い箱にしたことは本当に取り返しのつかない愚行であった。