フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月9日(土) 曇り

2006-09-10 02:49:35 | Weblog
  ほぼ一日中、自宅に籠もって論文書き。ただし、論文のある数行を書くために、改めて資料を読み直す必要があるので、全体としては書いている時間と読んでいる時間は半々くらいである。日によっては、読んでいる時間の方が圧倒的に多いこともある。だから単純に何日あるから何枚書けるという計算は成り立たない。書くという行為は、頭の中にすでに存在する文章を紙に書き写すことではない。そうではなくて、頭の中にあいまいに存在する思考に明確な輪郭線を強制的に施すことによって、それを可視化し、再考することなのである。つまり書くことは考えることなのである。考えることの一つの有力な方法が書いてみるということなのである。同様に、読むことも考えることの一つの有力な方法である。本を読むことは本に書かれている文章を頭の中にコピーすることではない。可視化された他人(著者)の思考を理解しようとすることを通して自分自身の思考を刺激することである。何も考えずに本を読むことは不可能である。書くことと読むことを比較すると、読むことの方が楽しい。一般に生産よりも消費の方が楽しいものである。清水幾太郎は『倫理学ノート』の序文の中で、雑誌『思想』に「倫理学ノート」を19回、3年半に渡って断続的に連載していたときのことを振り返って、こう述べている。

  「いろいろと読み、あれこれと考えて、そこから得た僅かなものを書くというのが、結局、私の性に合っているのであろう。とりわけ、或る人の学説と彼の生活とが深く噛み合うようなケースに出会うと、私は夢中になってしまう。(中略)連載は、時に急坂や水溜りがあったとはいえ、やはり、楽しい散歩であった。」

  研究生活というものの楽しさがよく表現された文章である。同時に、研究生活の大半は書くことではなく読むことから成り立っているということをこの文章は示している。書くこと1に対して読むこと9ぐらいの配分であろうか。本当は0対10でもいいのだが、それでは道楽と研究の差がまったくなくなってしまうので、仕事として研究をしている以上は、やはり少しは書かなくてはならないのである。今日は10枚ほど書いた。

          
                    楽しい散歩