妻の実家の墓参りに行く。蒲田駅で義姉と待ち合わせ、横浜駅前のタクシー乗り場で義母と合流。三ッ沢墓地まではタクシーで10分ほど。市営の墓地なのでお寺さんではなく、墓地に隣接している石屋さんが実際の管理業務を行っている。お寺さんとの付き合いがないというのは、そのことを煩わしくなくていいと感じるか、味気ないと感じるかで評価が違ってくるだろう。私は保守的な人間なのだろう、墓に花を手向け手を合わせるだけでなく、その後で、お寺の縁側で茶を頂きながらご住職や奥様とお話をする時間というのは、墓参りという儀礼的行為の不可欠の一部であるように思う。死んだ人間と残された人間を介在するものがお寺さんではなく石屋さんというのはいかにもビジネスライクである。もちろんお寺さんも一種のビジネスではあるのだが、そこには長年の伝統に培われた社交の型というものが存在し、それが墓参りにはなくてはならないゆったりとした感覚、心の静けさを演出してくれるのである。
見渡す限りの墓石
タクシーで横浜駅まで戻り、MORE’Sのレストランで昼食をとり、高島屋にショッピングに行く。ただしショッピングの分野の違う女性3人組とはここで別れ、私は6階の伊東屋に文房具を見にいった。あれこれ見て回って、楽しんで、来店の記念にと伊東屋オリジナルのボールペンと鉛筆を2本ずつ購入した。
それから電車に乗ったが、川崎で途中下車し、ダイスに行って、1階のさくらや、4階のあおい書店、5階の東急ハンズを見て回る。さくらやでは何も買わなかったが、あおい書店で竹内真『図書館の水脈』(メディアファクトリー)を、東急ハンズでノート2冊を購入。あおい書店の素晴らしいところは、個人全集のコーナーがあることである。売り場面積が広いからこそできることだが、新書ブームの昨今、近現代日本文学の巨匠たちの重量感溢れる全集がずらっと並んでいる図は壮観である。
墓石に見えなくもない
竹内真『図書館の水脈』は村上春樹の『海辺のカフカ』へのトリビュート小説と銘打たれている。主人公の45歳の独身の作家は20年以上も前から知らない街の図書館で暮らす話を書こう書こうと思っていて、しかし、なかなか書き出せずにいるところに、『海辺のカフカ』が出版され、15歳の少年が知らない街の図書館で暮らすというストーリーであることを知る。「こりゃ参ったな」と彼は思った。
「走り始めた列車の中、私はその本に見入っていた。開いたページの一文に興奮と落胆を同時に味わっていた。
落胆というより嫉妬と呼ぶべき感情だろうか。いつか愛を打ち明けようと思いつつ大事に友情を育んできた女性が、私よりずっと男っぷりのいい相手と結婚した時の気持に近いかもしれない。
(中略)
だけど今さら書いたとしても、人はそれを二番煎じと呼ぶだろう。たとえ私の話が空想でも剽窃でもなく、私自身の実体験だったとしても。
人が何と言おうとも、書きたいものを書くべきだという考え方もある。しかし私の中には、たった数ページ読んだだけで怖じ気づいてしまった自分がいる。
こうして手にしている本より力のある物語を書く自信など、私にはなかった。-物語を紡ぐのが仕事のくせに、ほかでもない自らの経験すら書くことができないのだ。それを思うと、自分の不甲斐なさにため息が出てくる。
(中略)
そんな風にして、私の旅は始まった。
海でも眺めて酒でも飲んで、夜には帰るつもりだったというのに、そのままふらりと一人旅に出てしまったのだ。喜多見の駅前の本屋で買った、『海辺のカフカ』という物語に導かれるようにして。
幸い、数少ない仕事の依頼は一通り片づけたところだった。私が日帰りで帰ろうが何日も帰らなかろうが、誰にも迷惑はかからない。
45歳にして初めての家出のようなものだった。ほんの気まぐれではあったけれど、それは意外と長い旅となる。」
こうして物語は始まる。そして物語にはもう一人の、いや一組の主人公がいる。ワタルとナズナという若い男女だ。彼等の恋の物語と作家の旅の物語は交互に語られる。そう、『図書館の水脈』は『海辺のカフカ』と同じく、2つの別々の物語(やがてそれはどこかで出会うのであろう)から構成されているのである。
この小説のことは、去年の調査実習クラスの学生だった「おちゃけん」のブログで知った。彼はなかなかの読書家で(小説中心のようだが)、彼が面白いと言う小説は確かに面白い。8月11日のフィールドノートに感想を書いた海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)も彼がブログで絶賛していたので読んでみる気になったのである。
帰宅したのは妻よりも私の方が1時間ほど遅かった。妻はたんに買い物好きだが、私は散歩と買い物の両方が好きなのである。
見渡す限りの墓石
タクシーで横浜駅まで戻り、MORE’Sのレストランで昼食をとり、高島屋にショッピングに行く。ただしショッピングの分野の違う女性3人組とはここで別れ、私は6階の伊東屋に文房具を見にいった。あれこれ見て回って、楽しんで、来店の記念にと伊東屋オリジナルのボールペンと鉛筆を2本ずつ購入した。
それから電車に乗ったが、川崎で途中下車し、ダイスに行って、1階のさくらや、4階のあおい書店、5階の東急ハンズを見て回る。さくらやでは何も買わなかったが、あおい書店で竹内真『図書館の水脈』(メディアファクトリー)を、東急ハンズでノート2冊を購入。あおい書店の素晴らしいところは、個人全集のコーナーがあることである。売り場面積が広いからこそできることだが、新書ブームの昨今、近現代日本文学の巨匠たちの重量感溢れる全集がずらっと並んでいる図は壮観である。
墓石に見えなくもない
竹内真『図書館の水脈』は村上春樹の『海辺のカフカ』へのトリビュート小説と銘打たれている。主人公の45歳の独身の作家は20年以上も前から知らない街の図書館で暮らす話を書こう書こうと思っていて、しかし、なかなか書き出せずにいるところに、『海辺のカフカ』が出版され、15歳の少年が知らない街の図書館で暮らすというストーリーであることを知る。「こりゃ参ったな」と彼は思った。
「走り始めた列車の中、私はその本に見入っていた。開いたページの一文に興奮と落胆を同時に味わっていた。
落胆というより嫉妬と呼ぶべき感情だろうか。いつか愛を打ち明けようと思いつつ大事に友情を育んできた女性が、私よりずっと男っぷりのいい相手と結婚した時の気持に近いかもしれない。
(中略)
だけど今さら書いたとしても、人はそれを二番煎じと呼ぶだろう。たとえ私の話が空想でも剽窃でもなく、私自身の実体験だったとしても。
人が何と言おうとも、書きたいものを書くべきだという考え方もある。しかし私の中には、たった数ページ読んだだけで怖じ気づいてしまった自分がいる。
こうして手にしている本より力のある物語を書く自信など、私にはなかった。-物語を紡ぐのが仕事のくせに、ほかでもない自らの経験すら書くことができないのだ。それを思うと、自分の不甲斐なさにため息が出てくる。
(中略)
そんな風にして、私の旅は始まった。
海でも眺めて酒でも飲んで、夜には帰るつもりだったというのに、そのままふらりと一人旅に出てしまったのだ。喜多見の駅前の本屋で買った、『海辺のカフカ』という物語に導かれるようにして。
幸い、数少ない仕事の依頼は一通り片づけたところだった。私が日帰りで帰ろうが何日も帰らなかろうが、誰にも迷惑はかからない。
45歳にして初めての家出のようなものだった。ほんの気まぐれではあったけれど、それは意外と長い旅となる。」
こうして物語は始まる。そして物語にはもう一人の、いや一組の主人公がいる。ワタルとナズナという若い男女だ。彼等の恋の物語と作家の旅の物語は交互に語られる。そう、『図書館の水脈』は『海辺のカフカ』と同じく、2つの別々の物語(やがてそれはどこかで出会うのであろう)から構成されているのである。
この小説のことは、去年の調査実習クラスの学生だった「おちゃけん」のブログで知った。彼はなかなかの読書家で(小説中心のようだが)、彼が面白いと言う小説は確かに面白い。8月11日のフィールドノートに感想を書いた海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)も彼がブログで絶賛していたので読んでみる気になったのである。
帰宅したのは妻よりも私の方が1時間ほど遅かった。妻はたんに買い物好きだが、私は散歩と買い物の両方が好きなのである。