フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月18日(土) 曇り

2007-08-19 03:54:01 | Weblog
  8月に入ってからずっと続いていた暑さも、小休止。今日は蒲田の街を歩いていても避暑地に来たようであった。昼食はZootという変わった名前のラーメン屋で。「ラーメン」というのぼりがなければ、ラーメン屋だとは思わないのではなかろうか。実際、カウンター席のみの店内にはボサノバの曲が流れていて、もしチープな自動券売機とセルフサービスの給水器がなかったら、お洒落なバーみたいだ。味玉ラーメン(800円)を注文する。スープは魚介系の香りがして、濁っている。飲んでみるととろみがある。たんに魚介系ではなくて、豚骨スープとブレンドしているようである。そのためだろう、こくがあって、しかしギトギトしてはおらず、むしろすっきりしている。面白いスープだ(気がついたら全部飲んでしまっていた)。味玉、チャーシューも美味しい。麺は普通。全体として味は濃い目なので半ライスが合いそうだが、ラーメンライスはこの店のお洒落な雰囲気にはそぐわないかもしれない。難しいところだ。

           

  食後の珈琲はいつものシャノアールで。冷房が寒く感じられた。上川あや『変えてゆく勇気』の後半を読む。少数者の生きにくい社会をどうやって変えてゆくか(どうやって行政に働きかけていくか)、自身の区議会議員としての活動を元に、具体的な方法論を述べている。その際、基本となる考え方は、沈黙から発信へということだ。

  「役所というのは、あるのかないのかわからないことに対して、予算と人材をつけるということはなかなかしてくれない。しかし、その一方で小さな声であっても「ある」という事実を突きつけられてしまうと、「ない」ことにはできない。必ずしも最初から名前を名乗って、姿を出して訴えなくても、まずは問題の所在を伝えることが重要だ。自分にできる声の上げ方でいい。たとえ少数者であっても、私たちは、大方の人がイメージしているほど無力ではない。方法はたくさんあることを、ぜひ多くの人に知ってほしいと思う。」(172頁)

  「政策決定の現場に身を置いて痛切に感じるのは、「声を上げないことは存在しないことに等しい」という事実である。世間はいわゆる「フツウ」や「常識」という物差しに当てはめて、物事を見ようとする。現実にはそれに当てはまるケースばかりではないし、逆に「常識」とされていることの方が誤解であったりすることも少なくないのだけれど、なかなかそこまで考えようとはしない。だからこそ、薄く広く存在している少数者は、お互いにつながって「私たちは、ここにいる」ということを訴えなければ、いつまでたっても個別の「特殊事情」でしかなく、それを社会問題化していくことは難しい。・・・(中略)・・・黙っていては伝わらない喜びや哀しみがある。黙っている人は存在しないも同じに扱われる現実がある。内なる叫びが政策に反映されることは、残念ながら、ない。当事者が勇気をもって、力と知恵をふりしぼって声を上げなければ、いないことにされてしまう。それがこの社会の現実だ。」(174-176頁)

  私が大学で教えている社会学専修の学生には、卒業後、公務員になる者が少なくない。彼らにぜひ本書を読んでほしいと思う。社会学は「フツウ」や「常識」を疑うことを眼目とする学問である。そのことの面白さを彼らは在学中に十分に味わったはずである。しかし、大学を卒業して、労働市場(日常用語で「社会」ともいう)に出ると、その「フツウ」や「常識」の中に回収され埋没していく。「フツウ」の職業であれば別にそれもかまないが(本人の問題である)、公務員という職業の場合、それは困ったことである、と私は思う。なぜなら公務員という職業は、人々が幸せになるために働いているのだから。公務員は法令に従って物事を処理していく。しかし法令とは、多くの場合、「フツウ」の人々を念頭に置いて作られている。「フツウ」の人々を念頭に置いて作られた法令は、「フツウ」でない人々を幸せにはしない。もちろんそうした法令は改正すればよいわけであるが、法令を変えるには時間がかかる。その間に「フツウ」でない人々の人生の時間はどんどん過ぎていく。しかし、法令というものは、弾力的に運用することもできる。弾力的に運用するとは、人々の幸せのために法令を解釈するということだ。では、どうすることが人々の幸せなのか、それを判断する能力が重要になってくるわけだが、それは具体的には、それぞれの困難をかかえて役所の窓口にやってくる人たちにどれだけ真摯に対応することができるかということ、つまりは他者への共感能力である。

  栄松堂で、三好達治『詩を読む人のために』(岩波文庫)と岩城宏之『音の影』(文春文庫)を購入。新星堂で、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」の入ったCDを探したが(先日、NHKの「オーケストラの森」という番組で初めて聴いて、魅了されたのだ)、見つからず。ブラームスとブルックナーのCDはたくさんあるのに(作曲家の名前のアイウエオ順に並んでいるのだ)、両者の間に置かれるべきブリテンのCDは一枚しかなくて、それもホルストの作品との組み合わせだった。結局、その一枚のCDを購入。「シンフォニア・ダ・レクイエム」という作品は、皇紀2600年(昭和15年)を記念して日本政府が諸外国に発注した曲の一つだが、「めでたき祝典に鎮魂ミサ曲とは何事ぞ!」と演奏されなかったといういわくつきの曲である。帰宅してさっそく聴いてみたが、いい曲だと思った。「シンプル・シンフォニー」については、Amazonで検索したらブリテン自身が指揮した演奏を収めたCDがあったので、それを注文した。