フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月28日(火) 晴れ一時雷雨

2007-08-29 03:18:06 | Weblog
  昼寝から覚めてジムへ。ところがジムの入り口近くまで来て、トレパンをバッグに入れ忘れたことに気がつく。いまから家に戻るのは億劫だったので、ジムは止めにして、ルノアールで持参した本(ジムの帰りに読むつもりだった)を読む。二十世紀研究所編『資本主義社会の構造』(思索社、昭和23年)。二十世紀研究所とは終戦の翌年に清水幾太郎らが始めたカルチャーセンターのようなものである。講座のうちのいくつかは本になって出版されているが、本書はその一冊。清水を含めて4人の講師によるオムニバスの講座だが、清水の講義のタイトルは「資本主義社会における社会と個人」。「社会と個人」は清水の社会学(あるいは社会思想)における中心的なテーマの1つである。です・ます調の読みやすい文章だが、分量は多くて、65頁もある。これで一回分の講義なのだろうか。だとしたら何時間の講義なのだろうか。まさか私が日頃大学でやっている講義と同じ90分ということはあるまい。少なくとも3時間はかかる分量である。話す方も大変だが、聞く方も大変だったであろう。いや、これが普通だったのかもしれない。戦後わずかに3年、地熱のまだ冷めやらぬ時代の話だ。

           

  半分ちょっと読んだところで、冷房で体が冷えてきたので、ルノアールを出る。暮れ方の商店街を散歩し、南天堂書店で以下の本(古本)を購入。

  堀秀彦『残された主体性の世界 賭博と性における人間』(大和書房、1970年)
  ちくま文学の森『賭けと人生』(筑摩書房、1988年)
  小倉知加子『セックス神話解体新書』(学陽書房、1988年)
  林家いっ平『老舗味めぐり』(グラフ社、2006年)

  偶然だが、性、食、賭け事という人間の原初的な欲求にまつわる本を選んだことになる。「掘秀彦」という名前には見覚えがあった。清水幾太郎の自伝『わが人生の断片』の中に登場する名前だ。東大の社会学研究室を追われるように飛び出した清水が、食っていくためにやっていたアルバイトの1つに、刀江書院の『児童』という雑誌への寄稿があった。いま風に言えば、フリーランスのライターで、不安定な仕事である。原稿の売り込みのために刀江書店にやってきて、社長の前で卑屈に振舞う人たちの姿を見て、「僕もあんな風になるのかな」とつぶやいた清水に、「君は違う、大丈夫だ」と強く言ってくれたのが、当時、編集者のような立場で『児童』の仕事にかかわっていた堀秀彦だった。堀秀彦は、東大の哲学科の出身で清水の5歳年長。戦後は東洋大学の教授になり、学長も務めた。『残された主体性の世界』は、その堀秀彦が初めてアメリカを旅行して、賭博と性に夢中になっている人々を見て、強いショックを受け、そのことについて考えたことを書き連ねた本である。同じ頃、清水幾太郎は岩波書店の雑誌『思想』に「倫理学ノート」を連載していた。大衆社会における人間性とモラルの問題は、当時(高度成長期)の知識人たちの共通の関心事だったのだろう。

           

  帰宅すると、家の前の道路に「なつ」の奴がいた。名前を呼ぶとやってきたので、抱き上げる。まるで野良猫らしくない。夜、大きな雷を伴う雨が降った。まるで近所で花火大会でもやっているようであった。飼い猫の「はる」はびっくりして食卓の下の椅子の上で縮こまっていた。野良猫たちもどこかで縮こまっているのだろうか。雷雨が通り過ぎると、そこかしこから虫の声が聞こえ始めた。