フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月4日(金) 晴れのち曇り

2008-04-05 13:05:54 | Weblog
 7時、起床。フィールドノートの更新をしてから朝食。キャベツとソーセージの炒め、トースト、紅茶。今日は暖かい。庭先の海棠の花が満開である。桜と時期が重なるために脇役の地位にとどまってはいるが、愛らしく、また桜よりも開花している期間が長いので、くつろいだ気分にさせてくれる。

       

  大学ではいま科目登録の真っ最中で、各論系の主任のところに、演習の定員等について事務所から問い合わせが来る。定員をオーバーして履修希望者があった演習に関して、あくまでも定員で切るか、いくらかの上乗せが可能かどうかの問い合わせである。そういうことは個々の演習の担当教員に聞いてくれという主任もいるであろうが、演習の数は多く、おまけに科目登録のスケジュールは一日刻みのタイトなものなので、主任が間に入った方が能率的なのである。教務の経験のある主任であれば、そういうことは理解している。この数日が山場で、この間、主任はいつでも連絡が取れるようにしておいてくれと事務所から言われている。
  昼食は明太子と牛肉の大和煮(缶詰)とごはんで簡単にすませ、3時過ぎにジムに出かける。60分間のウォーキング&ランニングで、600キロカロリー(焼肉弁当一個分)を消費。ランニングマシーンでトレーニングをしている人には二種類いる。走る人と歩く人である。走る人は歩く人を、軽蔑とまではいかないが、下に見ている。歩く人は走るに人に引け目を感じている。「軟弱ですみません」という気持ちと、「自分は自分のペースでやるのだ」という自負が入り混じっている。また、同じ走る人、同じ歩く人の間でも、時速何キロで走る(歩く)かで階層が形成される。マシンのディスプレーには速度が表示されるので、隣の人が時速何キロで走って(歩いて)いるのかが、チラリと見ればわかるのだ(儀礼的無関心の規範が働いているから、まじまじと見てはならない)。「ドラゴンボール」に相手の戦闘力がわかるゴーグル仕様のスキャナーが登場するが、あれみたいなものである。孤独にトレーニングに励む人々の間にもこうした不断の比較競争関係は存在しているのである。
  私は最初は歩く人であり、途中から走る人に転じる。歩くといっても時速6キロであるから、かなりの早歩きである。もし街中を時速6キロで歩けば、「な、なんだ!?」と周囲から怪訝な目で見られるであろう。そのくらいの速度で、15分歩く。ウォーミングアップである。それから時速8.5キロでのランニングに移行する。それで走れるところまで走り(最後までは続かない)、後はウォーキングとランニングを5分間隔くらいで反復して最後までいく。今日は、私がマシンでトレーニングを始めたとき、隣のマシンで30代くらいのふくよかな(表現に気を使っている)女性がウォーキングをしていた。10分ほどして、彼女は意を決したように速度を上げてランニングを始めた。彼女は「走る人」に転じたのである。私が「走る人」になるまでにはまだ5分ある。マシンの前にはトラックがあって、そのトラックの向うの壁は鏡になっているので、横を見なくても、彼女の表情がわかる。その表情には「走る人」であることの優越と苦悶とが見て取れたが、苦悶は急速に大きくなっていった。彼女が「走る人」であった時間はわずかに3分ほどであったろうと思う。彼女はマシンの速度を下げて、苦しげに大きく息をしている。実際、ランニングの開始3分あたりというのは、誰でも苦しいのである。身体が走ることに対して準備が整っていないので、抵抗を示すのである。しかし、その最初の関所を越えると、歩く身体から走る身体へのギアチェンジができて、歩くように走れるようになる。「走るの? やめとこうよ」と渋っていた身体が、「つきあうぜ」と言ってくれるのである。15分が経過したので、私はマシンの速度を上げて、ランニングに移行した。ものの本によれば、有酸素運動で消費されるカロリーは、最初の20分は食事でとった炭水化物からのもので、それ以降は、体脂肪が燃料となるのである。だから、最初から頑張るよりも、途中から頑張る方が合理的なのだ。私がランニングに転じたのを見て、隣の女性は意外そうな表情をした。私は終始一貫して「歩く人」だと思われていたようである。長年勤めた会社を定年退職して、第二の人生を歩み始めた人だと思われていたようである。「おじさん、無理しない方がいいわよ」というメッセージが彼女のまだ苦しげな表情から見て取れた。お気遣いは感謝するが、人は見かけではわからないものであることを、彼女に教えてやらなくてはならない。5分、10分、15分、20分・・・私は走り続けた。途中からマシンで「走る人」は私一人になった。ギアチェンジがうまくいったので、呼吸の乱れはなく、表情も苦しげでない。全盛時の瀬古利彦を彷彿とさせる走りである。彼女の表情が驚きから尊敬へと変っていくのを私は見逃さなかった。おそらく彼女は最近私生活でいやなことがあったのだろう。そしてそれを自分の体型のせいにしていた。しかし、いま、人は見かけではないという生きた手本を目の当たりにしたことで、彼女の中で、何かが変った。マシンを降りて、トレーニングルームをあとにする彼女の顔が光っていたのは、流れる汗のためだけではなかったはずである。「頑張って」と心の中で念じながら、私は孤独なランニングを続けたのだった。

       
               「ルノアール」のレモンスカッシュ