9時半、起床。ベーコン&エッグ、トースト、紅茶の朝食。妻が言うには、いま、バターが品薄になっているそうだ。これもサブプライム・ローンの焦げ付きの影響のようである。「風が吹けば桶屋が儲かる」に近い因果の連鎖であるが、こういうときは便乗値上げが横行するから油断はならない。もっともバターについては、私はトーストにはバターを塗らない主義なので、朝食には別段困らないけど。
午後、昼食をとりがてら散歩に出る。栄松堂で瀬尾まいこの新作『戸村飯店青春100連発』(理論社)を購入してから、「テラス・ドルチェ」へ行く。タラコのスパゲッティーと珈琲。最近は昼食にスパゲッティーの頻度が高い。スパゲッティー自体も好きだが、食後の珈琲とセットで注文できるからというのも大きい。同じ麺類でも、蕎麦やラーメンではそういうわけにはいかない。しかも「テラス・ドルチェ」の珈琲は美味しい。たんにランチのおまけで付いてくる珈琲ではない。
その珈琲を飲みながら、『戸村飯店青春100連発』を読む。大阪にある中華飯店の二人の息子が主人公の6章立ての連作小説で、奇数章は弟コウスケの視点で、偶数章は兄ヘイスケの視点で書かれている。第1章は、兄ヘイスケが高校を卒業し、東京の専門学校へ進学するために実家を出てゆく日のことが(弟コウスケの視点から)描かれている。二人は一つ違いだが、容姿も性格も周囲の人たちとの関係もずいぶんと違う。兄はイケメン、勉強もスポーツもよく出来、人当たりもよく、したがって異性にもモテモテで、しかし、家族ともこの町ともどこかなじめないところがあり、大学進学をせず東京の専門学校(ノベルズ科)へ進んだのも、親元を離れて自立したいがための口実であった(実際、第2章では、専門学校を一ヶ月で辞めてしまう)。一方、弟コウスケは、父親譲りのいかつい顔、屈託のない性格でクラスの人気者、高校を卒業したら家業を継ぐつもりで日頃から店の手伝いをしているが、端から家業を継ぐつもりのない兄の行動には身勝手さを感じている。
世の中の兄弟はそんなものなのか。だったら俺はどうして兄貴のことをこんなにもわからないのだろうか。俺があまりにも無関心なせいなのか。それとも、兄貴がわかりにくい人間だからなのか。あれこれ考えていたら、兄貴の書いた作文がぽかりと浮かんだ。この夏、俺のふりをして書いた、「人間失格」の読書感想文。
「僕も主人公と一緒だ。生まれてきてすみませんと思っている。人間失格とまではいかないけれども、この家の、この町の人間としては、失格なのかもしれない」
兄貴は俺の感想文の中でそう書いていた。
夏休みに読んだときは、わけのわからない気取った文章だとなと思っただけだった。いかにも教師受けしそうな兄貴が書きそうな感想文だ。そう感じただけだった。だけど、それだけじゃない。
いつからだろうか。なぜだろうか。同じ町に生まれて、同じ家族の中で育っているのに、兄貴を取り巻くものと俺を取り巻くものは違っていた。
親父は俺には手も足も出して本気で怒るけど、兄貴には声を荒げて怒鳴ることをしない。お袋は兄貴を大事にしているけど、困ったことが起きると兄貴ではなく俺に頼る。電球を替えるとき、ゴキブリが走ったとき、兄貴の名前ではなく俺の名を呼ぶ。もちろん、俺も兄貴も正真正銘の親父とお袋の子どもだし、俺も兄貴も同じように愛情を受けて育っている。だけど、合う合わないはある。血がつながっているからといって、趣味や考え方が一致するとは限らない。
俺と親父がキャッチボールをしているとき、兄貴はサッカーをしていた。俺と親父がテレビにかじりついて阪神タイガースを応援しているとき、兄貴は素知らぬ顔をして一人で漫画を読んでいた。俺やお袋が吉本新喜劇を見てげらげら笑っているのを、兄貴はきょとんとした顔で見ていた。俺やお袋はお好み焼きをたこ焼きをおやつ代わりに食べるけど、兄貴は粉物は苦手だ。俺たちは広瀬のおっさんたちが店に来ると喜んだけど、兄貴はおっさんたちの乱暴な物言いにいつも戸惑っていた。
親子だから兄弟だからって、好きなものが一緒というわけではない。折り合いが合わないもの、波長の違いもある。自分の生まれた場所に、自分が存在する場所に、違和感を覚えるのはどんな感じだろう。兄貴は小学生のころから、もくもくと小遣いを貯めていた。なんのために、どんな思いで、そんなことをしていたのだろう。(34-35頁)
瀬尾まいこという人がどういう家族構成の中で育った人なのかを私は知らないが、この箇所を読んで、二人きょうだいの姉ではなかろうかと感じた。もちろん作家というのはいろいろとインタビュー取材などをして他者の気持ちになりきって書くという才能があるから、そう簡単にはいえないだろうが、ここでは、兄の気持ちを瀬尾まいこが弟の言葉を借りて代弁しているように読める。細々としたエピソードを通して語られる家族の中で兄が感じてきたであろう疎外感。これは、普通、その当事者でないとなかなかわからない類のもので、まして両親の真ん中で育ってきた弟コウスケが共感的に理解するのは難しいものだろう。「さわやか爆笑コメディー」と帯に印刷されているが、どこをどう誤読すればそういう宣伝文句が思い浮かぶのか首をかしげてしまう。瀬尾まいこは明るい太宰治である。
桜もいよいよ見納めということで、池上線に乗って本門寺へ行く。本当は桜ではくて、「あらい」の贅沢あんみつが目当てだったのだが、残念、今日は客の入りがよかったらしく、入口に本日完売の貼紙が出ていた。池上会館1Fの喫茶店「モンペール」でココアを注文し閉店時間(午後6時!)まで読書。帰りは呑川沿いに歩いて帰ってきた。
東急蒲田駅の池上線ホーム
池上会館前の一本桜
「モンペール」は午後6時閉店である。
昼間は暖かだが、夕方になると冷えるという日々である。
急に冷え込む。時速6キロで歩く。
午後、昼食をとりがてら散歩に出る。栄松堂で瀬尾まいこの新作『戸村飯店青春100連発』(理論社)を購入してから、「テラス・ドルチェ」へ行く。タラコのスパゲッティーと珈琲。最近は昼食にスパゲッティーの頻度が高い。スパゲッティー自体も好きだが、食後の珈琲とセットで注文できるからというのも大きい。同じ麺類でも、蕎麦やラーメンではそういうわけにはいかない。しかも「テラス・ドルチェ」の珈琲は美味しい。たんにランチのおまけで付いてくる珈琲ではない。
その珈琲を飲みながら、『戸村飯店青春100連発』を読む。大阪にある中華飯店の二人の息子が主人公の6章立ての連作小説で、奇数章は弟コウスケの視点で、偶数章は兄ヘイスケの視点で書かれている。第1章は、兄ヘイスケが高校を卒業し、東京の専門学校へ進学するために実家を出てゆく日のことが(弟コウスケの視点から)描かれている。二人は一つ違いだが、容姿も性格も周囲の人たちとの関係もずいぶんと違う。兄はイケメン、勉強もスポーツもよく出来、人当たりもよく、したがって異性にもモテモテで、しかし、家族ともこの町ともどこかなじめないところがあり、大学進学をせず東京の専門学校(ノベルズ科)へ進んだのも、親元を離れて自立したいがための口実であった(実際、第2章では、専門学校を一ヶ月で辞めてしまう)。一方、弟コウスケは、父親譲りのいかつい顔、屈託のない性格でクラスの人気者、高校を卒業したら家業を継ぐつもりで日頃から店の手伝いをしているが、端から家業を継ぐつもりのない兄の行動には身勝手さを感じている。
世の中の兄弟はそんなものなのか。だったら俺はどうして兄貴のことをこんなにもわからないのだろうか。俺があまりにも無関心なせいなのか。それとも、兄貴がわかりにくい人間だからなのか。あれこれ考えていたら、兄貴の書いた作文がぽかりと浮かんだ。この夏、俺のふりをして書いた、「人間失格」の読書感想文。
「僕も主人公と一緒だ。生まれてきてすみませんと思っている。人間失格とまではいかないけれども、この家の、この町の人間としては、失格なのかもしれない」
兄貴は俺の感想文の中でそう書いていた。
夏休みに読んだときは、わけのわからない気取った文章だとなと思っただけだった。いかにも教師受けしそうな兄貴が書きそうな感想文だ。そう感じただけだった。だけど、それだけじゃない。
いつからだろうか。なぜだろうか。同じ町に生まれて、同じ家族の中で育っているのに、兄貴を取り巻くものと俺を取り巻くものは違っていた。
親父は俺には手も足も出して本気で怒るけど、兄貴には声を荒げて怒鳴ることをしない。お袋は兄貴を大事にしているけど、困ったことが起きると兄貴ではなく俺に頼る。電球を替えるとき、ゴキブリが走ったとき、兄貴の名前ではなく俺の名を呼ぶ。もちろん、俺も兄貴も正真正銘の親父とお袋の子どもだし、俺も兄貴も同じように愛情を受けて育っている。だけど、合う合わないはある。血がつながっているからといって、趣味や考え方が一致するとは限らない。
俺と親父がキャッチボールをしているとき、兄貴はサッカーをしていた。俺と親父がテレビにかじりついて阪神タイガースを応援しているとき、兄貴は素知らぬ顔をして一人で漫画を読んでいた。俺やお袋が吉本新喜劇を見てげらげら笑っているのを、兄貴はきょとんとした顔で見ていた。俺やお袋はお好み焼きをたこ焼きをおやつ代わりに食べるけど、兄貴は粉物は苦手だ。俺たちは広瀬のおっさんたちが店に来ると喜んだけど、兄貴はおっさんたちの乱暴な物言いにいつも戸惑っていた。
親子だから兄弟だからって、好きなものが一緒というわけではない。折り合いが合わないもの、波長の違いもある。自分の生まれた場所に、自分が存在する場所に、違和感を覚えるのはどんな感じだろう。兄貴は小学生のころから、もくもくと小遣いを貯めていた。なんのために、どんな思いで、そんなことをしていたのだろう。(34-35頁)
瀬尾まいこという人がどういう家族構成の中で育った人なのかを私は知らないが、この箇所を読んで、二人きょうだいの姉ではなかろうかと感じた。もちろん作家というのはいろいろとインタビュー取材などをして他者の気持ちになりきって書くという才能があるから、そう簡単にはいえないだろうが、ここでは、兄の気持ちを瀬尾まいこが弟の言葉を借りて代弁しているように読める。細々としたエピソードを通して語られる家族の中で兄が感じてきたであろう疎外感。これは、普通、その当事者でないとなかなかわからない類のもので、まして両親の真ん中で育ってきた弟コウスケが共感的に理解するのは難しいものだろう。「さわやか爆笑コメディー」と帯に印刷されているが、どこをどう誤読すればそういう宣伝文句が思い浮かぶのか首をかしげてしまう。瀬尾まいこは明るい太宰治である。
桜もいよいよ見納めということで、池上線に乗って本門寺へ行く。本当は桜ではくて、「あらい」の贅沢あんみつが目当てだったのだが、残念、今日は客の入りがよかったらしく、入口に本日完売の貼紙が出ていた。池上会館1Fの喫茶店「モンペール」でココアを注文し閉店時間(午後6時!)まで読書。帰りは呑川沿いに歩いて帰ってきた。
東急蒲田駅の池上線ホーム
池上会館前の一本桜
「モンペール」は午後6時閉店である。
昼間は暖かだが、夕方になると冷えるという日々である。
急に冷え込む。時速6キロで歩く。