6時半、起床。うそだろ、大学に出なくてよい日なのに。どうしてこんな時間に目が覚めてしまうんだろう。やはり月曜の1限に授業のある先生方の怨念だろうか。ソーセージ、トースト、アイスティーの朝食。
1時半頃、昼食をとりに「鈴文」へ行く。GWで近辺の会社が休みのせいだろうか、客は私一人(途中からもう一人入ってきた)だった。「シャノアール」で食後の珈琲を飲んでから、ジムへ行く。7キロちょっとのウォーキング&ランニング。トレーニングの後、「ルノアール」で読書。
大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)を読む。実に面白い。必ずしも彼の論に全面的に同意というわけではないが、彼の論の進め方は実にスリリングである。論がどう展開していくのか、目が離せない。「まだひっぱるか」「もう問いの答えを提示してくれてもいいだろう」と思いつつ、彼の論の後を追いかける。この力量は大したものだ。
日本の戦後を、現実を意味づけている反現実のモードの変遷を基準に、「理想の時代 1945-60」「夢の時代 1960-75」「虚構の時代 1975-90」と3つに時期区分したのは見田宗介である。大澤は見田のこの論を下敷きにして、まず、「夢の時代」を「理想の時代」から「虚構の時代」への転換期であるとして前後の時代の中に解消し、1970年を「理想の時代」から「虚構の時代」への転換点として位置づける。次に、それから25年後の1995年(地下鉄サリン事件のあった年である)を「虚構の時代」の極限=終焉として位置づける。そしてその後の第三の時代を「不可能性の時代」と名づける。
「理想の時代」は「理想」という未来において現実となるべき反現実が追求された時代である。「虚構の時代」は「虚構」という現実と並存する(現実の未来に位置づけられるのではなく)反現実に人々の関心が向かった時代である。「理想」は、未来が現在の一部であるという意味において、現実の一部に含まれるが、「虚構」は現実の範疇外である。したがって「虚構の時代」は「理想の時代」よりも反現実の度合いが強まったといえる。ところが「不可能性の時代」にあっては、反対に、「現実」への逃避ともいうべき現象が起こっている。
「一般には、「現実逃避」というとき、問題にされているのは、現実からの逃避、現実から理想や虚構の世界への逃避である(「理想ばかり追いかけていないいで、現実を直視しなさい」等)。だが、これとは逆方向の逃避、「現実」へと向かっていく逃避が、現代を特徴づけている。ただし、この場合の「現実」とは、通常の現実ではない。それは現実以上に現実的なもの、現実の中の現実、「これこそまさに現実!」と見なしたくなるような現実である。すなわち、極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している、と解したくなるような現象が、さまざまな場面に見られるのだ。」(3-4頁)
しかし、この「現実」への逃避はわわわれの時代で起こっている現象の一つの側面である。大澤がわれわれの時代を「不可能性の時代」と名付けたのは、これとは逆向きのもう一つのベクトルが存在するからだ。
「一方では、準拠点の「反」現実度が次第に高まっていくという、戦後史のこれまでの傾向に反するかのように、「現実」への回帰、「現実の中の現実」への回帰が見られる。他方では、虚構の時代に胚胎していた傾向が限度を越えて強化され、現実に現実らしさを与える暴力性・危険性を徹底的に抜き取り、現実の相対的な虚構化を推し進めるような力学が強烈に作用している。現実への回帰と虚構への耽溺という二種類のベクトルの中で、虚構の時代は引き裂かれることで、消え去ってきた。・・・(中略)・・・思想的には、前者が原理主義、後者がリベラリズな多元文化主義に、それぞれ対応していると言えるだろう。/相互に矛盾しているように見える、これらの二つの傾向性の共存を、どのように統一的に理解したらよいのか? 直ちに気づくことは、両者はまったく正反対の方向を向いており、あまりにも完全にバランスを取っている、ということである。このことは、逆に、これらの二つが、同じことの二側面ではないか、と考えさせるものがある」(156-157頁)
現実化と虚構化の二つの側面を併せもつ「同じこと」とは何か。ここからの考察が『不可能性の時代』の一番面白い部分である。う~ん、ここで紹介(いわゆる「ネタばれ」)をしてしまっていいものかどうか、躊躇する。私が粗筋を紹介するよりも、本書を直接読まれた方が絶対に面白いと思うのだ。大澤の論述は緻密だが、少なくとも本書に関しては、決して難解ではない。ここでは、「不可能性」というキーワードについて大澤が述べているところだけを引用するに止めておく。
「<不可能性>とは<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れていもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。/われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「××」の現実性を担保している、暴力的な本質おを抜き去った「××」の超虚構化の産物である。こうした、「××抜きの××」の原型は、<他者>抜きの<他者>、他者性なしの<他者>ということになるのではあるまいか。<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限りで、というわけである。」(192-193頁)。
ここで私は数ヶ月前に読んだ穂村弘『短歌の友人』の中で紹介されていた現代短歌の作品を思い出す。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
まちがい電話の声さえ欲しがってるから言いそう「待ってた」って もりまりこ
他者を激しく希求する歌である。世界が「酸欠状態」にあるから「歌が喘いでいる」のだと穂村は言っている。『不可能性の時代』の帯には「なぜこんなにも息苦しいのか?」と印刷されている。まさに「酸欠状態」。穂村は上記の作品に他者を激しく希求する歌人(現代人)の姿を見たわけだが、息苦しいのは他者を激しく希求してそれが叶えられないからではない。歌人(現代人)は他者を激しく希求すると同時に、実は、他者を激しく拒否してもいるのだ。だから苦しいのだ。大澤の論法を私なりに解釈して適用すれば、そういうことになる。「他者性」の本質は自己の思い通りにはならないということである。しかし現代人が激しく希求する他者とはそうした「他者性」を抜き取った他者、自分の思い通りになる他者、自分という人間を丸ごと受け入れてくれる他者である。しかしそうした期待はしばしば、いや、常にといってもいい、裏切られる。当たりまえのことだ。相手は自己ではなく、自己のコピーでもなく、他者なのだから。しかし他者への過剰な期待の過剰さを認識していない人間は、それによってひどく傷つく。そして自己を否定する存在として他者を恐れ、拒否するようになる。自分の手(=他者の手の投影である)で自分の首を絞めながら「助けて」と他者に助けを求めているようなものだ。息苦しいのはそのためである。
『不可能性の時代』は不可能な事態の記述・説明だけで終わってはいない。ではどうしたらいいのか、いかにしたらこの閉塞的な状況からわれわれは脱け出すことが可能なのか、最後の章はその可能性の考察に費やされている。その紹介はここでしなくていいだろう。私のここまでの紹介を読んで、本書に興味をもった人は、明日、本屋で本書を手に取るであろうから。今日の又聞きより、明日の読書である。
1時半頃、昼食をとりに「鈴文」へ行く。GWで近辺の会社が休みのせいだろうか、客は私一人(途中からもう一人入ってきた)だった。「シャノアール」で食後の珈琲を飲んでから、ジムへ行く。7キロちょっとのウォーキング&ランニング。トレーニングの後、「ルノアール」で読書。
大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)を読む。実に面白い。必ずしも彼の論に全面的に同意というわけではないが、彼の論の進め方は実にスリリングである。論がどう展開していくのか、目が離せない。「まだひっぱるか」「もう問いの答えを提示してくれてもいいだろう」と思いつつ、彼の論の後を追いかける。この力量は大したものだ。
日本の戦後を、現実を意味づけている反現実のモードの変遷を基準に、「理想の時代 1945-60」「夢の時代 1960-75」「虚構の時代 1975-90」と3つに時期区分したのは見田宗介である。大澤は見田のこの論を下敷きにして、まず、「夢の時代」を「理想の時代」から「虚構の時代」への転換期であるとして前後の時代の中に解消し、1970年を「理想の時代」から「虚構の時代」への転換点として位置づける。次に、それから25年後の1995年(地下鉄サリン事件のあった年である)を「虚構の時代」の極限=終焉として位置づける。そしてその後の第三の時代を「不可能性の時代」と名づける。
「理想の時代」は「理想」という未来において現実となるべき反現実が追求された時代である。「虚構の時代」は「虚構」という現実と並存する(現実の未来に位置づけられるのではなく)反現実に人々の関心が向かった時代である。「理想」は、未来が現在の一部であるという意味において、現実の一部に含まれるが、「虚構」は現実の範疇外である。したがって「虚構の時代」は「理想の時代」よりも反現実の度合いが強まったといえる。ところが「不可能性の時代」にあっては、反対に、「現実」への逃避ともいうべき現象が起こっている。
「一般には、「現実逃避」というとき、問題にされているのは、現実からの逃避、現実から理想や虚構の世界への逃避である(「理想ばかり追いかけていないいで、現実を直視しなさい」等)。だが、これとは逆方向の逃避、「現実」へと向かっていく逃避が、現代を特徴づけている。ただし、この場合の「現実」とは、通常の現実ではない。それは現実以上に現実的なもの、現実の中の現実、「これこそまさに現実!」と見なしたくなるような現実である。すなわち、極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している、と解したくなるような現象が、さまざまな場面に見られるのだ。」(3-4頁)
しかし、この「現実」への逃避はわわわれの時代で起こっている現象の一つの側面である。大澤がわれわれの時代を「不可能性の時代」と名付けたのは、これとは逆向きのもう一つのベクトルが存在するからだ。
「一方では、準拠点の「反」現実度が次第に高まっていくという、戦後史のこれまでの傾向に反するかのように、「現実」への回帰、「現実の中の現実」への回帰が見られる。他方では、虚構の時代に胚胎していた傾向が限度を越えて強化され、現実に現実らしさを与える暴力性・危険性を徹底的に抜き取り、現実の相対的な虚構化を推し進めるような力学が強烈に作用している。現実への回帰と虚構への耽溺という二種類のベクトルの中で、虚構の時代は引き裂かれることで、消え去ってきた。・・・(中略)・・・思想的には、前者が原理主義、後者がリベラリズな多元文化主義に、それぞれ対応していると言えるだろう。/相互に矛盾しているように見える、これらの二つの傾向性の共存を、どのように統一的に理解したらよいのか? 直ちに気づくことは、両者はまったく正反対の方向を向いており、あまりにも完全にバランスを取っている、ということである。このことは、逆に、これらの二つが、同じことの二側面ではないか、と考えさせるものがある」(156-157頁)
現実化と虚構化の二つの側面を併せもつ「同じこと」とは何か。ここからの考察が『不可能性の時代』の一番面白い部分である。う~ん、ここで紹介(いわゆる「ネタばれ」)をしてしまっていいものかどうか、躊躇する。私が粗筋を紹介するよりも、本書を直接読まれた方が絶対に面白いと思うのだ。大澤の論述は緻密だが、少なくとも本書に関しては、決して難解ではない。ここでは、「不可能性」というキーワードについて大澤が述べているところだけを引用するに止めておく。
「<不可能性>とは<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れていもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。/われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「××」の現実性を担保している、暴力的な本質おを抜き去った「××」の超虚構化の産物である。こうした、「××抜きの××」の原型は、<他者>抜きの<他者>、他者性なしの<他者>ということになるのではあるまいか。<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限りで、というわけである。」(192-193頁)。
ここで私は数ヶ月前に読んだ穂村弘『短歌の友人』の中で紹介されていた現代短歌の作品を思い出す。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
まちがい電話の声さえ欲しがってるから言いそう「待ってた」って もりまりこ
他者を激しく希求する歌である。世界が「酸欠状態」にあるから「歌が喘いでいる」のだと穂村は言っている。『不可能性の時代』の帯には「なぜこんなにも息苦しいのか?」と印刷されている。まさに「酸欠状態」。穂村は上記の作品に他者を激しく希求する歌人(現代人)の姿を見たわけだが、息苦しいのは他者を激しく希求してそれが叶えられないからではない。歌人(現代人)は他者を激しく希求すると同時に、実は、他者を激しく拒否してもいるのだ。だから苦しいのだ。大澤の論法を私なりに解釈して適用すれば、そういうことになる。「他者性」の本質は自己の思い通りにはならないということである。しかし現代人が激しく希求する他者とはそうした「他者性」を抜き取った他者、自分の思い通りになる他者、自分という人間を丸ごと受け入れてくれる他者である。しかしそうした期待はしばしば、いや、常にといってもいい、裏切られる。当たりまえのことだ。相手は自己ではなく、自己のコピーでもなく、他者なのだから。しかし他者への過剰な期待の過剰さを認識していない人間は、それによってひどく傷つく。そして自己を否定する存在として他者を恐れ、拒否するようになる。自分の手(=他者の手の投影である)で自分の首を絞めながら「助けて」と他者に助けを求めているようなものだ。息苦しいのはそのためである。
『不可能性の時代』は不可能な事態の記述・説明だけで終わってはいない。ではどうしたらいいのか、いかにしたらこの閉塞的な状況からわれわれは脱け出すことが可能なのか、最後の章はその可能性の考察に費やされている。その紹介はここでしなくていいだろう。私のここまでの紹介を読んで、本書に興味をもった人は、明日、本屋で本書を手に取るであろうから。今日の又聞きより、明日の読書である。