フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月20日(日) 薄曇り

2008-04-21 12:23:57 | Weblog
 10時頃、起床。筍ご飯(昨夜の残り)と若布の味噌汁の朝食。昨日、大学へ出たので、今日が土曜日のような気がする。一週間の疲れを取る日だ。午後、妻が昼食は何がいいですかと聞いてきたので、娘も息子も母も外出しているし、二人で何か食べに出ようかと言ったら、「Zoot」のラーメンが食べたいわと言うので、そうすることにした。私はいつもの味玉ラーメン、妻は塩ラーメンを注文。塩ラーメンをちょっと食べさせてもらったが、魚介+豚骨だしの白濁スープで、これはこれで美味しかった。妻は次回はつけ麺を注文してみたいと言った。探究心は私よりも旺盛である。腹ごなしにグランデュオ(駅ビル)に行ってみる。オープンして最初の日曜日とあって混んでいる。東館6Fのくまざわ書店に行く。新聞の書評欄で取り上げられた本のコーナーがあり、今日の朝刊の分も取り揃えてある。朝食のときに新聞の書評欄に目を通し、目星をつけておいた本を午後の散歩のときに書店で購入し、喫茶店で読むことを習慣としている人間にはありがたい本屋である。以下の本を購入。

  丸谷才一『蝶々からの手紙』(マガジンハウス)
  金城一紀『映画篇』(集英社)

  西館6Fの鞄屋で一泊旅行サイズのバッグを購入。明後日、女学校の同窓会で故郷の群馬に行く母へのプレゼントである。先日、母はバッグに荷物を詰めながら、どうもこのバッグは一泊の旅行にしてはちょっと大きすぎないかいとさかんに私に聞いてくるので、母の日には少し早いが、ここはプレゼントするほかあるまいと思ったのである。バッグは妻に選んでもらった。あっさりしたデザインのバッグだったが、旅行鞄の一番の条件はとにかく軽いこと、という妻の意見はなるほどと思った。
  妻とはここで別れ、私は「ルノアール」で購入したばかりの本を読むことにした。『蝶々からの手紙』は丸谷の書評集で、書評についての対談やエッセーも収められている。15年前、丸谷が毎日新聞の編集局長から書評欄の大幅な刷新を依頼され、それを引き受けたとき、丸谷は彼が選んだ執筆メンバーに「毎日新聞書評方針」という文書を渡したそうである。その「方針」とはたとえば以下のようなものであったという(18頁)。

  「話を常に具体的にして、挿話、逸話を紹介したりしながら書いてください」
  「受け売りのできる書評を書いて下さい。『ああ、あの本はね』と勤め先でしゃべる、バーでしゃべる、その材料となるような」
  「最初の三行で読む気にさせる書評をお書き下さい。現在までの大新聞の書評は一般に、最初の三行でいやになります」

  丸谷は『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス)というイギリスの書評のアンソロジーを出しているくらい、書評という形式に関心をもっており、かつイギリスの書評を書評のあるべき姿として意識している。本の内容を的確に紹介しつつ、しかしたんなる紹介ではなく、批評として十分に機能し、かつ文章に芸がなくてはならないと。だから毎日新聞の書評はボリュームがあり(400字詰原稿用紙5枚)、本の著者よりも書評者の名前の方が活字が大きい。残念ながら、うちでは朝日と読売の2紙を講読しており、毎日はとっていないので、その書評欄に目と通すことはめったにないのだが、今回、丸谷のものだけだが、それをまとめて読むことができて書評の面白さを堪能した。書き出しの部分だけ(三行で済ますというわけにはいかないが)いくつか引用してみよう。

  「これはわたしの持論で、前に書いたことがあるが、小説家の随筆は一番好きなものについて書いたとき、一番いいものが出来る。たとへば、井伏鱒二の釣り、吉川淳之介の女、内田百の借金。/そしてここからさきは今度はじめて書くことだが、逆も真なり。阿川弘之の場合は、海軍、志賀直哉、食べものと大好物が三つあるけれど、好きな順位は歴然としてゐる。食味随筆のとき、文章がぐつとよくなるからだ。心がはづんでゐる。」(阿川弘之『食味風々録』)
  *なるほどね。ただし、丸谷才一という読み手の属性も頭に入れておく必要がある。彼には『食通知ったかぶり』という食味随筆の傑作があり、そして軍隊と私小説が嫌いである。

  「日本の文庫本は末尾に解説がつく。英米のペーパーバックや叢書は最初にそれがある。普通、「イントロダクション」と言ふ。訳せば、「序言」とか「序文」か。/冒頭と終わりと。それがどう違ふか。英米のイントロダクションは最初に来るので格が高くなる。花やかである。調子が張る。添え物ではなくなるし、随筆ではすまなくなり、独立の評論といふ風格が出る。それゆゑ名作も多い。たとえば「オックスフォード世界古典文庫」のヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』は、以前の版は、グレアム・グリーンの見事な作家論が巻頭を飾つてゐた。ペイパーバックのエドマンド・ウィルソン『愛国の血糊』はマルカム・ブラッドベリの力のこもった一文ではじまる。巻末の解説では、どうしても祝宴のときの乾杯の祝辞めいて来る。それが巻頭となると、あれは作曲家自身の作だからちとをかしな比喩になるが、オペラの序曲みたいに景気がつく、とでも言はうか。」(J・L・ボルヘス『序文つき序文集』)
  *「ペンギン・クラシックス」の『芥川龍之介集』(ジェイ・ルービン訳)には村上春樹がイントロダクションを書いているが、たしかに本格的な評論だった(それを読みたいがために購入したのであるが、まさか後からその「訳書」が出るとは思わなかった)。

  「わたしたちが日本史に詳しいのは吉川英治から司馬遼太郎に至る数多くの時代=歴史小説のおかげである。小説は史書よりずっと具体的に個人を紹介してくれる。そしてわたしたちがローマ史に親しんでゐないのは、せいぜい、シェンキェヴィッチの『クオ・ヴァディス』、ルー・ウォーレンの『ベン・ハー』、ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』くらゐしか目を通してゐないからだらう。ところがここに最上のローマ史案内ともいふべき小説が訳出された。」(ロバート・グレーヴス『この私、クラウディバウス』)
  *丸谷の上げた3冊の小説は、『ベン・ハー』を映画(先日亡くなったチャールトン・ヘストンが主演だった)で観ているだけで、私は読んでいない。吉川英治も実は読んだことがない。教養と世代の違いであろう。

  「ちょうど四十年前のこと、「日本文学のなかの世界文学」といふ評論で、河出書房新社版ナボコフ『ロリータ』の訳を手きびしく批判した(『梨のつぶて』所収)。一体にいい加減な仕事ぶりで素朴な誤りが多かつたが、それはともかく、文体その他、小説の綾や仕掛けにまつたく目が行つてゐない、こんなことになるのはジョイス以後の小説作法に無知な訳者が単なるエロ小説のつもりで訳してゐるからだ、といふ趣旨の論難であつた。ずいぶん経つてからその訳者から手紙が来て、自分が訳したものでないことを婉曲に述べ(あれは多分さういう意味だらう)、改訳が進行中だと記してあつた。その改訳(新潮文庫)はわりに手がたくなされてゐるやうだが、『ロリータ』の魅力や風情を伝へるものでは決してない。そして若島正による今度の改訳は、既訳二種とは対蹠的な見事な出来ばえで、わたしはほとんど圧倒され、作者のためにもわれわれの文明のためにも大いに喜んだ。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』と並ぶ名作は、つひにその偉容にふさわしい名訳を得たと言つてもよからう。」(ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』)
  *書評というのは褒めるだけのものではなく、手厳しく批判するものでもある。しかし、河出書房新社版の訳者は堪えたであろう。一体、誰だろうといましがた検索してみたが、私と同じ姓の人で、慶応大学を出た人であった。早稲田大学の文学部の関係者だったらここに載せるのがはばかられるところだったが、ホッとしました。若島訳の『ロリータ』、レジの店員がどんな反応をするのか気になって購入しそびれていたのだが、『百年の孤独』と並ぶ名作といわれては購入しないわけにはいかなくなった。映画版もツヤタで借りるぞ(と自分を鼓舞する)。